第15話 すれちがいの連鎖(2)



 「ドラグ」というものを最初に見た時。

 それがとても恐ろしい生き物に思えた。


 サリトリアには、こんな大きなはばたく獣はいない。

 するどい嘴。長い鉤爪。

 そして、闇のように黒い大きな翼。


 でも何よりも恐ろしいのは、「報せ」を運ぶこと。

 蒼の王へと――


 けれど、グレンダで空を舞っていたドラグは美しかった。

 しなやかで強くて、自由で。


 あの朝――

 「自分はガルディーンと共に行くのだ」とでも言いたげに、ドラグは彼の腕に舞い降りた。

 このドラグは、ガルディーンを好きなのだ、とても。


 そしてガルディーンも、ついてきたドラグに向って嬉しそうに笑った。

 ――なのに。

 彼はこの獣に、名を与えていなかった。


 「それは手袋や外套に名を付けるようなものだ」と、そう言って。

 そして、彼自身も名を持たない。


 ガルディーン。

 ただひとりしかいない、氷国イリエガの森の「門番ガルディーン」。

 彼が、ただ「ガルディーン」とだけ呼ばれることが、理にかなっていないわけではない。


 でもそれでも、「ガルディーン」は彼の「名」ではない。


 「イリ」

 そう呼びかけると、ドラグは首を傾げる。イリの実のような赤くて丸い眼がわたしを見上げて、瞬きをする。

 このドラグは「報せ」を運ばない。王城へと報せを運ばない。


 指先でそっと撫でると可愛らしく眼を閉じる。

 この大きなはばたく獣のことが、わたしはだんだん好きになる。

 寝台に横たわりながら、わたしは、イリにとりとめもないことを語りかけた。


「テラ・スール」


 ガルディーンが、わたしに声をかける。

 幾人かの女の子たちが、暖炉の前に大きな盥を運んできた。

 薬草を入れて、そこに湯を満す。

 

 彼女たちは、わたしよりもすこし幼いように見える。

 「ここ」がどんな場所なのか。わたしにもうっすらとは分っていた。


 食事を運んできた男の人と、階下の、ひどく強い香りを身に纏った女の人。

 異国の言葉で彼らが話していたことも。


 湯を運んできたこの子たちも、もう少ししたら。

 きっとお金と引き替えに、男たちを相手に、あの華奢な身体を開かなくてはいけないのだ。


 故郷を踏みにじられ父王と兄を殺され、そして、蒼の王に奪い取られて。

 こんな遠い所までやってきた。


 愛する国から。

 愛しい人から引き離されて――

 氷の海のように冷たい目をした、残酷な男の妻にさせられるために。


 だから、目の前で湯浴みの準備をしている女の子たちに、わたしはひどく近しいような気持ちを感じる。部屋を出て行く彼女たちを、思わず目で追いかけた。


 ガルディーンが、わたしに言う。

「湯が熱いうちに使いなさい、テラ・スール」


 わたしは、ガルディーンの灰色の瞳を見上げる。今は炉の光を映して、やさしい黄緑色に光っている目を。


「ひとりで湯浴みはできるか? その……俺は手伝えない」

 こう言って、ガルディーンは、わたしから静かに目をそらした。


 わたしは寝台から下りて、服を脱ぎ始める。

 下穿きを床に落とし、ガルディーンの方へ、暖炉の前へと歩く。

 ガルディーンは、何ごとかを言おうとしたようだった。

 でも、そのまま口をつぐんで、窓の方へと歩き去る。

 

 湯の入った大きな盥の前で、わたしはすべての服を脱ぎ捨てた。

 足先の傷を湯につけないように、難儀しながら身体を湯の中に沈める。


 さっきは、ひどく驚いた。

 ガルディーンが、わたしの足の指を口に含んで、傷を舐め始めた時は。

 暖かい舌で触れられて。


 ガルディーンのくちびるは、やわらかかった。

 あんなことをされたのは、初めてだ。

 イリエガでは、あんな風に足の傷の手当てをするのだろうか?


 初めのうちは、それを、とてもきまり悪く感じた。でもじきに、彼の舌の動きや口の中の暖かさに、わたしは奇妙なほどの心地よさを覚え始めた。

 耳の付け根が、火を付けたように熱くなって、胸の打つ音が早くなっていった。


 そして、彼が傷の手当てを終えたとき、わたしの腿の内側は、なぜだか、ひどくぬるついてしまっていた――


 暖かく香りの良い湯に身体を浸して、とろけるような心地よさを味わった。

 ふとすべらせた指が、腿の付け根をかすめる。

 その刹那、甘い痺れが呼び覚まされ、わたしのくちびるから小さく悲鳴が洩れた。


 わたしは、それに驚き、そして、すこしの怯えを感じ、両腕で自分の身体をしっかりと抱きすくめた。



   □□□



 湯に浮かべられた花と薬草の香りが、部屋中に漂う。

 テラ・スールが立てる水音を背後に聞きながら、俺は幾度も身震いをする。


 身分ある者たちは使いの者に裸体を見られても、なんとも思わないのだと。

 酒場で、酔っぱらいの与太話に聞いたことがあった。


 ――あいつらにとっちゃ、召使いや下働きなんてのは、動く「家具」みたいなものさ。たとえ床入りを見られたとしたって、なんとも感じやしないんだ。


 そんな風にくだを巻いていた。


 テラ・スールがごく無防備に、俺の前で服を脱ぐ。

 それも、そういうことなのだろうか?


 だが、俺は「家具」ではない。生きている「男」だ。


 首すじに、何かがはぜる。

 身体が熱く張り詰め、たまらなく疼く。

 ああ、いっそ俺は下で女を買うべきだったのかもしれない。

 いまいましい雪酒め。おそらく、あれには淫薬が混ぜ込んであったのだ――


「……ガルディーン?」

 テラ・スールの呼ぶ声に、思わず振り返る。


 湯から出たテラ・スールが、俺の方を向いて立ち尽くしていた。

 顎から肘から、金色にきらめく水滴をしたたらせ、一糸まとわぬ姿で。

 蜂蜜酒ミードの色に輝く濡れた髪が、白い身体に張りついている。


「身体を拭きたいの……」

 テラ・スールが、ごく小さな声で言う。


 彼女から顔を背けながら炉の上に置かれた大きな布を取って差し出した。

 だがテラ・スールは、それを受け取ろうとはしなかった。

 ただ、不思議そうな顔をしたまま、じっと俺の顔を見上げる。


 俺は戸惑った。

 だがすぐに、テラ・スールは「身体を拭いてもらう」つもりでいるのだということが分る。


 布を大きく広げ、テラ・スールに掛けてやりながら、俺は言った。


「……あとは自分で拭いてくれ、テラ・スール」

 そして、ふたたび窓の方へと足を向ける。


 そんな俺の背に、テラ・スールがまた呼びかけた。

「あのね、ガルディーン、髪を上げるのを手伝って?」


 懇い願うようなテラ・スールの声に、仕方なくふたたび、テラ・スールの傍へと近づく。濡れた長い髪を掴んで持ち上げた。


 折れそうに細いうなじが、白く浮かび上がる。

 俺は、ひどい息苦しさとめまいを感じた。


 テラ・スールの蜜色に波打つ髪から手を離し、俺はもう一つの布を取る。

 そしてそれを広げると、テラ・スールを頭から包み込んだ。

 固く目を閉じて、俺は彼女の髪や肩を擦り、滴を取り去る。


「……痛い、ガルディーン、痛いの、ひどくこすっては厭」

 テラ・スールが、布の内側で声を震わせる。


 そして俺は、彼女を布にくるんだまま抱え上げると、寝台の上へと載せた。



□□□



 テラ・スールは、寝台の上に座ったまま、身じろぎもせず、俺を見上げている。

 俺はその瞳から逃れるように、床に散らばった彼女の服を拾い上げ、寝台の上に放った。


「……どうして怒っているの? ガルディーン」


 テラ・スールは自分をくるみこんでいる布の端を握りしめ、かき合わせながら、俺に訊ねる。


「怒ってなどいない」


 だが、そう口にした自分の声は、ひどく荒っぽかった。

 どうにも苛立って仕方がないのだ。


 テラ・スールのくちびるが、かすかに動く。でも、それは言葉をかたちづくることはしなかった。青紫色の瞳が、涙を流しているときよりも悲しげな色に沈む。


 俺はテラ・スールに詫びることも、その顔を見ることすらできなくなる。

 いたたまれなくて堪らない。


 俺は炉に整えてあった、余分の湯を盥にぶちまける。

 乱暴に服を脱ぎ捨て、湯に身体を沈めた。


 テラ・スールが服を身につけている気配が、背中越しに伝わってくる。

 そのかすかな息づかいで、俺には彼女が泣いていることが分った。


 ふたたび、喉元に熱い苛立ちがこみ上げてくる。

 今の感情は、明らかに自分自身に対する腹立ちだった。


 すると、イリが数回鋭く嘶いた。そして、はげしく翼をばたつかせる。

 すぐさま、俺の耳も館の外のおかしな気配を感じ取った。


 湯から飛び出し、脱ぎ捨てた服を濡れたままの身体の上に、急ぎ纏う。


 テラ・スールは、涙をいっぱいにたたえた花の色の瞳を瞠って、俺を見つめていた。

 何かを訊ねようと動きかける彼女の口を掌で押さえ、雪の色の外套を着させた。


 荷物とテラ・スールを抱え上げ、俺は足音を殺して部屋を出る。

 イリがテラ・スールの肩に留まった。


 端女たちの使う隠し階段を下り、洗濯部屋の窓をくぐって、俺たちは「骸骨と矢羽」から飛び出した。



   □□□



 ごくありふれた焦茶の外套を纏った男ふたりが、「骸骨と矢羽」の戸を叩く。

 扉の鋼の格子を隔てて、館主が顔をのぞかせた。


 男たちの後ろには、くだんの「くぐつ女」が立っている。


 ……なんだ、あいつ。

 どこへ出かけていったのかと思えば、ちゃっかりと表で「客」を引いて来やがったんじゃないか。それも二人も。


 今晩の客の入りの良さに、館主は思わずほくそ笑む。そして、すぐに扉の錠を外した。


 先に足を踏み入れた男の方が、館主の胸元に小さな革袋を押しつける。

 袋にぎっしりと詰められた硬いものが銀貨であることを、館主はすぐさま感じ取った。

 そして、この男たちが「色」を買いに来たのではないことをも、同じくすぐさま察し取る。


「二階のつきあたりの部屋よ……」


 しんがりに入ってきた女が、爪を真紅に染めた指で階段を示した。

 男たちは互いに頷き合う。

 

 そのうちのひとりが、女を振り返って訊ねた。

「他に出入りできる扉は?」


「ここに裏口はありませんやね、旦那」

 館主が口を挟む。


 男たちは足音ひとつ立てず、滑るようにに階段を上っていった。

 館主は革袋の中身をのぞきながら、女に言う。


「おい、あんまり変なのを連れてくるなよ? 『一時の金』よりも『長い商売』の方が大事ってもんだ。ガルディーンは昔からの金払いのいい客じゃないか?」


 女は館主の言葉を無視したまま、棚の雪酒の瓶を手に取った。


「……あいつら、イレルダの諜者なんだろ?」

 袋から銀貨を一枚取り出して炉の火にかざし、館主が囁く。


 女は瓶にそのまま口をつけ、酒をあおる。

 そして、その毒々しくも赤いくちびるの端からこぼれた雪酒を手の甲で拭いながら、「さあね?」と吐き捨てるように口にした。



   □□□



 ガルディーンは、闇に沈んだシェームの町を駆け抜ける。

 湯に濡れた身体と髪からは、初めのうちこそ白い湯気が立ち上っていたが、すぐに髪も肌も、夜の冷気で銀色に凍りついた。


 もう蒼の王の追尾が?

 いや、王城から間諜が走り、ドラグを飛ばしたとしても、ここシェームに「報せ」が届くには早すぎる――


 夢中で走りながらも、ガルディーンは順を追って考えを進めていた。


 もしやシェームの町中で「間諜」に姿を見られたのか? それとも。

 あの館の「誰か」が、町にいたイレルダの手の者に、俺がいることを伝えたのか?


 ガルディーンはシェームの近辺の町で、「イレルダの鼠」の息のかからぬ場所がないか、考えを巡らせていた。

 蒼の王に、まだ重きを置かれていない町を。


 これまでに「写し」を取った「報せ」の中身を、必死に思い返した。

 ガルディーンは町外れに馬屋を見つけ、とりあえず、そこに身を隠す。

 

 抱えていたテラ・スールを干し藁の上に降ろし、自らも地面に座り込んだ。


 ずっと走り続けていたとはいえ、濡れたままの髪も服も凍りつき、ガルディーンの身体は冷え切っている。

 テラ・スールも、ガルディーンが今にも気を失ってしまいそうなほど凍えていることに気がついた。


 どうしよう……どうしよう。

 不安が湧き起こり、テラ・スールの鼓動が早まる。


「ガルディーン、ガルディーン」


 呼びかけながら、凍りついたガルディーンの頬を両手で挟む。ガルディーンは、かすかに瞼をひくつかせたが、返事はしなかった。

 テラ・スールは両腕を精一杯伸ばして、背中からガルディーンを抱きしめる。

 しかし、ガルディーンの大きな身体の半分も包みこむことはできなかった。


 テラ・スールはガルディーンの腕をさすり、広い肩に頬を擦りつける。

 氷のように冷たくなったガルディーンの耳にくちびるを寄せ、息を吹きかける。

 ガルディーンの身体が、何度か小さくひくついた。


 わたしの腕では足りない。わたしの身体では足りない。

 この大きな凍える人を温めるには。

 この凍りついた銀色の髪を溶かすには――


 泣き出したくなる気持ちを必死に堪え、テラ・スールは何か役に立つ物はないかと、ガルディーンの荷物の袋の口を開いた。



   □□□



 身体が急に冷え切り、ひどく眠くて気が遠くなる。


 いけない。このまま眠りに引き込まれては死んでしまう……。

 何とか自分の身体を温めなければ。


 俺は必死になって考えを巡らせた。


 テラ・スールが、俺に熱を与えようとしているのは分かっていた。

 もう先からずっと、彼女は俺を呼び続けている。今にも泣き出してしまいそうな声で。


 抱きしめて安心させてやりたい。

 なのに、俺は指一本、動かすこともできない。


 テラ・スールのぬくもりが背に伝わってくる。やがて少しずつ、俺の身体に熱が戻り始める。

 テラ・スールが、俺の口もとに何かを押し当てた。

 

 それが何であるか、匂いで判った瞬間にはもう、熱い液体が口の中に流れ込んできていた。

 

 雪酒だった――

 喉が焼け、胃の腑が熱くなる。


 あの部屋を急ぎ出たときに、荷に紛れ込んだのだろうか。

 そんなことをぼんやりと思い浮かべた。


 そして、雪酒が俺の身体のなかで燃え始める。


 ふと、自分の背中に押し当てられているのが、テラ・スールの乳房であることに気がつく。女の下着を着けていない胸のやわらかさに、俺の男のものがたちどころに反応を示した。


 俺はテラ・スールを押しのけるように立ち上がると、片手で自分の下腹を押えて外へと飛び出す。


 刹那、それまでずっとこらえ続けていた慾がほとばしった。

 熱く白い液は、すぐに手指の間から溢れ、雪の上に滴り落ちる。

 悲鳴を上げそうなほどに息を荒らげ、身体をひくつかせながら、俺はそれを吐き出し続けた。


 稲妻のように背筋を走り抜ける肉の悦びが通り過ぎ、俺は情けなさのあまり、深く溜息をつく。汚れた手で雪を掴み、きたならしい滴りを拭い清めた。


 身体の冷えはすっかり取れていた。

 それどころか、額が、うっすらと汗ばんでいるほどだった。


 馬屋の中に戻ると、俺につき飛ばされたテラ・スールが、地面に座り込んでいた。

 目に涙をいっぱいに溢れさせて。


「テラ・スール……すまない、驚かせて」


 俺はテラ・スールを抱えあげ、積み上げられた藁の上にそっと載せる。

 すると、テラ・スールは声を上げて泣き始めた。俺は指を伸ばして、その涙を拭う。


「大丈夫? ガルディーン、もう寒くない?」

 俺を案じるテラ・スールの言葉に、たまらなく胸が締めつけられた。


「もう大丈夫、大丈夫だ……心配をさせてすまなかった」


 テラ・スールが、俺の首にしっかりと手を回す。幾度も幾度も、俺を呼んで泣きじゃくる。

 その涙が、俺の胸の奥をきつく締めあげる。


 「南の地テラ・スール」まで、あなたを守護しよう」と、そう約束をしたのに――

 その彼女をこんなに不安がらせてしまった。

 ひどくふがいない心持ちになって仕方がない。


「悪かった、テラ・スール。泣かないでくれ、お願いだから」


 そう許しを乞い、俺はテラ・スールの小さな背中を撫で続けた。

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