第14話 すれちがいの連鎖(1)

 門を開け、森を出たその日の終りに、俺たちはシェームの街にたどり着いた。


 シェームは、イレルダの隣にある公国ポーリスの最北の街だ。

 実のところ「街」と言うほどの大きさでもないが、俺には、それなりになじみがある場所だった。


 普通、公国ポーリスからイレルダに入るには、もっと南から「森」を迂回する道を使う。街道の要所となるのは、シェームからさらに半日南に下ったディガだ。

 とはいえ「森」から「一番近い街」はシェームになる。


 もし、人がイレルダから南方の国へ旅立つとするなら。

 ポーリスで、まず初めに立ち寄る街は、ディガになるはずだ。シェームを通ることは、ほぼない。

 いくら地図の上で「もっとも短い道程」だとしても、「森」を抜けて南へ向おうなどとは、だれも考えない。

 

 だから追手はまず、ディガに向うはずだ。シェームではない。

 「普通」ならば――


 だが、もし。

 テラ・スールが森へ入ったかもしれないということに、そして「森を抜けることができたかもしれない」ということに、王が思い至ったとしたなら。

 蒼の王の「狩り」の道筋から、シェームが外されることはないだろう。


 おそらく、王は「それ」に気づく。いや――

 「必ず」気がつくはずだ。


 シェームに宿は二軒しかない。

 そして、そこはイレルダの間諜たちの息がかかった場所だ。うかつには近寄りたくはなかった。

 しかし、何はなくとも、今宵はテラ・スールを暖かな部屋の寝台に寝かせなくてはならない。彼女は疲れ果てていた。

 だから、俺は「骸骨と矢羽」へ足を向けた。


 「骸骨と矢羽」は、いわゆる娼館。前のガルディーンから教わった場所だ。

 とは言ってもシェームに幾つかある同じ類の宿とは異なり、人にはあまり知られていない。それには理由があった。


 裏通りに面した鋼の格子のついた小さな扉を叩く。すぐ錠を外す音がした。

 娼館にしては珍しいのかもしれないが、ここの館主は男だ。


「ひさかたぶりだな? 今度の嵐はひどかったじゃないか? なんだい、その肩に載せてる黒いのは? ここには入れるな、部屋が汚れる。窓の外に出しておけよ」


 扉を開くなり、館主はまくしたてた。

 テラ・スールが、俺の袖を握る力が僅かに増す。


「今年の冬は厳しいからな。さすがのお前さんも、人肌が恋しくなったか」

 そう言うと、館主はテラ・スールに目を止めた。


「おや、『連れ』がいるとは、なお珍しいこった。まさか、もう次の『ガルディーン』を見つけてきたってんじゃないんだろうな?」


 館主は、不躾にテラ・スールの顔を覗き込もうとする。怯えた彼女が俺の背にしがみつく。


「随分と品のいい外套だ。一体、どこの貴族の坊ちゃんを案内してきたんだ? ガルディーン。おいおいまさか、お前さん、『そっち』の方に宗旨替えしたんじゃないだろう?」

 館主が下卑た笑い声を上げた。


 「骸骨と矢羽」が、人にあまり知られていない理由――

 それは、この宿が「男」の「くぐつ」も置いているからだった。


 しつこく笑い続ける館主の後ろから、店の売女くぐつおんなが顔を出した。


「ガルディーン! ずいぶん見なかったわ。他所の女を抱いてたんじゃないでしょうね? あら、その子だあれ」

 大きな声を出しながら、女はジラの花で赤く染めた長い爪を、テラ・スールの頬に伸ばす。


「触れるな」


 俺はすかさず鋭く諫めた。

 女はごまかすように笑い声を立てる。けれども、その口元はひどく卑屈に歪んでいた。


「まさか、ガルディーン、その男の子があんたの『相手』じゃないんでしょ? そうだ、テルダを呼ぶ? それともあたしが、ふたりまとめて面倒みてあげる?」


 女の言葉に、館主がまた、品のない調子で笑った。

 テラ・スールの前での、あまりにもあられのないやり取りに、俺は苦々しい思いを噛みしめる。


 それに、テラ・スールは疲れ果てていて、もう立っているのもやっとだった。こんな無駄話をする間にも、すぐに部屋で休ませたかった。


「女は要らない。だが、金は『女ふたり分』払おう。一番いい部屋に湯を整えてくれ。薬草をたくさん入れて」


 そう言って、俺が目の前にたんまりと金を置いてやると、館主は慌てて笑顔を取り繕う。

 それから、荒っぽく「はした」たちを呼びつけた。


「おい、早く旦那たちの部屋の準備をしないか! 湯はきっちり熱くするんだぞ」


 先に立って、階段を上がろうとする館主を、俺は押しとどる。

 そして、さっきの金とは別に、その手に銀貨を握らせ、


「来なくてもいい、部屋は知っている。その代り、何か暖かい食べ物を持ってきてくれ」と言いつけた。


 館主は、二つ返事で戻って行く。

 俺はテラ・スールの身体を抱え上げ、階段を上り始めた。


 部屋に入ると、ドラグは俺の肩から離れて、窓枠に飛び載った。

 毛皮を敷き詰めた大きな寝台の上に、テラ・スールを静かに下ろす。

 今一度、呼びかければ、テラ・スールはかろうじて、俺に弱々しい微笑みを向けた。


デ・ガータありがとう、ガルディーン……」


デ・ナーダどういたしまして、テラ・スール」

 俺は彼女の青紫色の瞳を見つめ返す。


 だが、テラ・スールは、デナーダにデ・ガータを返してみせる元気もなく、弱々しい溜息をついた。


 テラ・スールの凍えた足から、靴を脱がせてやる。

 両の足とも爪が割れ、滲んだ血が白い指の間に固まっていた。

 左は、筋がつっぱり親指が反りかえっている。


 こんな足で、俺の後をついて歩いていたのか……と。

 そう思った瞬間、みぞおちに、重たくせつない痛みが走った。


 テラ・スールの冷え切った小さな足を、両掌で包んで温める。

 つっぱった筋をそっとほぐすと、テラ・スールが痛みに小さな悲鳴を上げた。


 俺は立ち上がり、炉のそばに備え付けてある雪酒を口に含む。

 強い酒に口の中が、しみるように焼けついた。

 もうひとくち含み、しっかりと口の内を焼いてから、雪酒を飲み下す。


 そして、両手でテラ・スールの足を取ると、血に汚れた指に口をつけた。

 一本ずつ、口に含み、固まった血を舌でそっと溶かし擦る。


「ガルディーン……」

 足を引き戻そうと、テラ・スールが身じろぎをする。


「痛いか?」


 指から口を離し、俺が訊ねると、テラ・スールは激しくかぶりを振った。

 ふたたび、俺は彼女のつま先を口に含み、清め暖める。


 と、二、三度雑に扉を叩く音がして、だしぬけに館主が部屋へと入ってきた。



□□□



「食事を持ってきましたぜ。おっと……」

 湯気のあがる皿を載せた盆を抱えたまま、館主が立ち止まった。


 俺は立ち上がり、扉の方を振り返る。


 館主は呆けたようにテラ・スールを、そして、その蜂蜜色に波打つ長い髪を見つめていた。


 だがすぐにまた、なんとも卑しい笑いを浮かると、

「こいつは、いやはや。驚いた。そんな『なり』をしているから、てっきり……」と呟く。


 さっさと出て行けと、俺は館主を黙って睨みつける。


「湯の方は、食事が終わるころに持ってこさせまさぁ」

 そう言って、好奇心で猫のように眼を輝かせたまま、館主は立ち去った。


 俺は荷から傷薬を取り出し、テラ・スールの足指に塗る。そして、細く裂いた布をつま先にしっかりと巻いた。


 すると、テラ・スールの美しい腰帯が、荷の袋から滑り落ちる。

 青紫色の瞳を揺らめかせ、テラ・スールが、それを見つめた。

 俺は帯を拾い上げ、彼女へと差し出す。


 帯を受け取り、テラ・スールは「デ・ガータ」と囁いた。

 そして、その淡い色のくちびるを帯に押し当てると目を閉じる。

 蜜の色の長い睫毛が、せつなげに震えた。


 「これは大切なものなのだ」


 テラ・スールはそう言った。

 あの美しい服は、なんの頓着もなく焼き捨てたというのに、この帯だけは手放したがらなかった。


 ――いったい、それはなんなのだ? と。


 俺はそう訊ねたかった。

 だがなぜだか、その一言を、ずっと口にすることができないでいた。その代わりに、俺はこう言う。


「さあ……食事が冷めてしまう。テラ・スール」


 そして俺たちは食事を始める。

 暖かい食べ物を口にして、テラ・スールの頬がすこしずつ、赤みを取り戻した。

 花の色の瞳も、きらめきを増していく。


 窓枠に載っていたドラグが一声、甲高く嘶いた。

 ひとつはばたくと、窓枠から飛びたち、卓の端へと滑り下りる。

 それを見て、テラ・スールが薄紅色のくちびるをほころばせた。


「おまえも、お腹が空いたわね?」

 テラ・スールは、ドラグにこう問いかけると、俺の方を見る。

「この子にも、食べさせてもいい?」


 俺は黙って頷き、手にした肉を裂いて、テラ・スールに渡した。

 テラ・スールは、それをドラグの前に、そっと差し出す。

 するとドラグは、黄色の鋭い嘴で、一瞬にしてそれを食いちぎった。

 テラ・スールが驚いて瞬く。


「おいしい? これ、好き?」


 テラ・スールが訊ねると、ドラグが返答のようにひとつ嘶いた。そしてテラ・スールの白い指先から、肉片をすべて食べ尽くす。


 青紫の瞳を揺らめかせながら、テラ・スールが、今度は俺を見上げた。

「ガルディーン、どうしてこの子には名前がないの?」


「……テラ・スール、なぜそんなことを訊ねる? あなたは手袋や外套に名をつけるのか?」


 テラ・スールは大きく目を見開いて、また俺に訊ねた。

「だって、この子は『手袋』じゃないわ? 生きているものでしょう?」


「だが、『ドラグ』は『ドラグ』だ」


 俺が「ガルディーン」であるように――


「わたしは名前をつけたいわ、つけてもいい?」


 別にドラグに名があったからとて、不都合もない。

 俺は肩をすくめて、頷いてみせた。


 テラ・スールは、長い睫毛を伏せて考えこむ。

 そして何ごとかを思いついたのだろう、俺の目を見つめた。

 

「あのね、『イリ』にするわ。ダメ?」


「構わないが……」

 そして俺は、テラ・スールに問いかける。

「『イリ』には、何か意味が?」


 すると、テラ・スールはこぼれるように微笑んだ。

「『イリ』は木の名前よ、赤い実がなるの」


「……そのドラグは『黒い』と思うが」


 俺は、自分がサリトリアの言葉を聞き違えたのかと思った。

 するとテラ・スールが、声を立てて笑う。


「それはそうだけど。でも、この子の目は赤いでしょう? イリの実みたいなの」

 

 テラ・スールの笑い声に、俺の中で、なにかきつく固い縛めのようなものが解けていくように感じた。


 自分の肩が背が。

 こんなにも強ばっていたのだということに、俺はあらためて気づく。

 知らず溜息が洩れた。


「イリ」

 テラ・スールが、そう呼びかけると、ドラグは首を傾け、その赤い目で彼女を見上げる。

 そして数歩、テラ・スールに近寄り、その腕の上に飛び載りたさそうに翼を広げた。しかしドラグは、ふと、ためらうようにそれを閉じる。

 自身の鋭い黄色の鉤爪が、テラ・スールの白い肌に傷をつけることを怖れてでもいるかのように。


 テラ・スールが壊れそうなほどに細くはかない指先を、そっとドラグの首筋へと伸ばした。

 その指先が紡ぎだす愛撫に、ドラグは身じろぎもせず目を閉じる。

 テラ・スールが、ドラグへとやさしい囁きを繰り返した。


 ――「銀の昼」を越え、禁忌の森を歩き続けて。

 やっとシェームまでたどり着いた。

 

 これからサリトリアまでの道程は、冬のイレルダの森よりはずっと、歩きやすいものではあるだろう。だが――


 これから俺たちは、街道の各所に待ち受けているかもしれない蒼の王の手下や、忍び寄る追手たちから逃れ続けなければならないのだ。


 「南の地テラ・スール」にたどり着くまで――


 けれども、ひどく奇妙なことに、その時俺は、何か満ち足りたような心地よさを感じていたのだ。俺たちを待ち受けているに違いない怖ろしい苦しみなど、まるでありもしないかのように。


 暖かな火の前でテラ・スールが微笑み、時に笑い声を立て、他愛ないことを口にする。

 美しいサリトリアの言葉の甘やかな響き。


 誰かと食事をするなどということは、俺には絶えてなかった。シェームへ出ても、済ませるべき用向きを済ませ、ただ帰るだけだ。

 

 森でずっと、ただひとり過ごしてきた。そして、それをつらいと思ったこともなかった。


 だが、今感じている、この奇妙な居心地の良さは何なのだろう?

 俺はひどく面喰っていた。


 こんな風に、痺れるようにせつない心地よさなど、俺は知らなかった。


 けれどもここは、辺鄙な街のただの薄汚い娼館だ。

 俺が幾度も、くぐつ女の身体を淫らにまさぐり、その中に慾を放ってきた。

 そんな部屋なのだ。



□□□



「そんなところで、突っ立って待ってたって無駄さ」


 階段を下りてきた館主は、売女くぐつおんなに、ぞんざいな言葉を投げつける。女は壁にもたれ、毒々しいほどに赤く染め上げた爪のあま皮を無心にいじっていた。


「無駄なもんか、湯浴みがすんだらお呼びがかかるに決まってるよ、連れはともかく。ガルディーンは、随分と『ごぶさた』だもの」


 そう言って、くぐつ女は、爪と同じほど赤く彩られたくちびるを、猥褻にほころばせる。


 だが、館主は鼻で笑って、

「どのみち、代金は女二人分も貰ってるんだ。お前もその間に、別の客を取った方が『より儲かる』ってものだろうが」と言い放った。


 女は、館主の言葉など歯牙にもかけない。

 「骸骨と矢羽」では、自分が一番のくぐつ女で、一番の稼ぎ頭であることを、女は知っている。だから、館主も言うほどは、自分に無体なことはできはしないのだと分かっていた。


 ひさかたぶりにガルディーンに逢ってからというもの、女は下腹が熱く疼いて仕方がなかった。


 あの強くて優しい男に、一晩中貫かれたいと――

 そう考えると、足の間が溶けそうにぬめる。


 あんなに優しく抱いてくれる男は、他にはいない。

 無骨で大きな指が、驚くほど繊細な加減で身体に触れる。

 あの強く大きな腕は、そっとやわらかく腰を、身体を包み込む。初めのうちは、ごくそっと。

 だが、燃えて高まってくるにつれ、その力は強まっていく。

 そして終いには、ばらばらに壊されてしまいそうなほどにまで、抱きすくめられ穿たれるのだ。


 ガルディーンの哮る「男のあかし」を思い出し、売女は、たまらず台の角に股を押し当てる。

 すでにたっぷりと温んだ女の場所から溢れ出したぬかるみが、いやらしく音を立てた。

 

 淫らにくちびるを歪めて瞼を閉じ、無心に腰をくねらせる女を見ながら、館主が嗤う。


「気の毒なこった、あの部屋にお前さんの出場でばはないな。少なくとも今晩に限っちゃ」


 「……なんだって?」

 瞼を開け、女は台から腰を離した。


 館主は、それまでになくひどく冷たい目で女を見据えると、残酷な形にくちびるを動かした。


「外套被って、あんな『なり』をしてるから分らなかったがな。ガルディーンの『連れ』は『女』さ」


 女が片眉を引き上げ、枯草色の目で館主を睨みつける。

 館主が肩をすくめた。


「それも、とんでもなく極上のな。この商売は長いがな、俺もあそこまでの『玉』は見たことない」


 そして、下卑た忍び笑いを漏らすと、

「ガルディーンのヤツもすっかり、夢中にさせられちまってるぜ? あいつ、跪いてあの女の足を舐めていやがった」と続ける。


 くぐつ女の血のように赤いくちびるが、わなないて震えてた。

 

 だが館主は、そんな女の様子を無視し、

「おい、湯は沸かし終わったのか?! ぐずぐずしてないで、さっさと桶を運べ!」と、声を荒らげて、奥へと呼ばわった。










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