第13話 影は躍り、扉が開く

 嵐で新たに降り積もった雪はやわらかく、悪路に慣れた「影」の足すらも悩ませる。

 禁忌の森に入るのは、「影」にとっても、生まれて初めてのことだった。


 あらゆる国のあらゆる内実に食らいついてきた「影」。

 しかし唯一、その手を伸ばすことのなかったのがイレルダの森だった。


 森には門番ガルディーンがいた。

 そして彼は、間諜にすら森の扉を開かない。


 森に何があるのか。

 どこに水場があり、聖地グレンダがどこに在るのか。ガルディーンが森のどこに住まっているのか。


 ――誰にも知られてはいない。


 自国と諸国のあらゆる情報に通じた「影」。

 その彼にとっても、この森は地図の中の大きな虚空。白く抜けた穴だった。

 その森に、しかも「冬に」入るなどは無謀なこと。

 勝算のない戦だった。


 蒼の王は「影」に問うた。「益なる報せ」を「確かに」もたらすことができるのかと。

 その問いへの「影」の本心からの答えは、ただ「否」だ。

 しかしガルディーンの他に、この森を行くことができる者が、もしいるとするなら。


 ――それは「自分」だけだ。


 「影」には、そのことも分っていた。

 蒼の王ですら、冬のイレルダの森を行くことはかなわないだろう。


 今度ばかりは、王の期待に背く結果となるかもしれない。


 「影」はそう考える。

 おそらく、生きてはこの森を出られまい。


 しかし、それでも構わないのだ。

 王の期待に背いた時、自らをおとなうのは「死」だけなのだから。


 そして、もうずっと先から「影」は方向の見当を失っていた。

 細かな氷が宙を霧のように漂い、周りの景色がなにひとつ見えなくなる。

 目に入るものすべてが鈍く煌めき、「影」の心身を疲れさせた。

 それは、霧よりなお悪かった。


 これが「銀の昼」か――

 

 嵐の後、森に起きるものだと、耳にしたことはあった。

 だが「影」とて、それを直に見るのは初めてのことだった。


 じきに闇が来る。

 時の感覚だけは「影」の頭の奥に刻まれていた。

 たとえ何も見えなくとも、日没が近いことを感じ取ることができる。


 そして「影」は、自らが疲れ果てていることにも気づく。

 冬とは言え、森にはどんな獣が徘徊しているかしれない。眠るためには、どこかに身を隠さなくては。

 もう先から、そのことばかりを考え続けていた。


 森を知り尽くしているガルディーンとて人の子。

 この広い森に目端を届かせるには、住家以外、必ずどこかにいくつかの「隠れ場」があるはず。


 だが「影」は、ひとつたりとも、そのようなものを見つけ出すことはできなかった。たまらず、その場に座り込み、眠ってしまいそうになる。

 「影」は、なんとか気力を振り絞り、手近の木の枝振りを見極め、そのうちのひとつに昇り始めた。


 どのあたりまで昇っただろうか。

 「影」は枝と枝の間に身体を挟み込ませると、ぷっつりと糸が切れたように眠りに落ちていった。



□□□



 知ってる。わたしは、知っている。このぬくもりを。

 わたしを包む暖かな何か。

 「輝きの月」に、サリトリアを吹き抜ける夏風のように――


 ふと目を開ける。わたしは誰かの腕の中にいた。


 やさしく頬を撫でる大きな掌。


 「ガルディーン」と。くちびるが形を結ぶ。

 その響きを発することに、もう、ずいぶんと慣れつつあった。

 そのことに、わたしはすこし驚く。


 彼は出立を促す言葉を口にする。

 奇妙なほどに丁寧な、古めかしいような言い方で。

 抑揚の少ない口調で。

 ガルディーンは、そんな風にサリトリアの言葉を口にする。


 ガルディーンが、何かの実をわたしに差し出した。

 物を食べたいという気は、ほとんど起きなかった。

 でも、わたしはそれを懸命に噛みしだいて、飲み下す。

 また、今日も雪の中を歩かなければならないのだから。


 ――森を行けるのは、ただひとり。イレルダの森のガルディーンだけだと。

 

 彼が言ったことの意味を、わたしは身をもって知る。

 自分の考えの「甘さ」と「いたらなさ」も。


 そして、わたしたちは、「イス」と、彼が呼んでいた洞から森へと出た。


 外は銀色に光り輝いていた。空も森も、雪すらも見えなかった。

 わたしは、恐れよりもまず、その惑わされるような美しさに圧倒される。


「これは『銀の昼』だ、テラ・スール。嵐の後にはつきものだ。どんな者も『銀の昼』の中では、自らの進む道を見失う、イレルダのガルディーンの他は」


 こう言うと、ガルディーンはわたしの腕をしっかりと取った。


 わたしは、銀色の世界へと足を踏み出した。

 ガルディーンと共に――



 □□□



 「影」が目を覚ます。

 青緑の針の葉が生い茂る枝の隙間から差し込む陽の光に、目を射抜かれたのだ。


 自分が正午近くまで眠りこけていたのだということに、「影」は驚き、そして焦った。


 肩が腕が重くだるい。

 ふたたびこのまま、瞼を閉じたなら、自分はこの木の上で事切れ、翼ある者たちの冬の良肴となり果てるであろう。

 

 「影」は腰に帯びた革袋から、干したジウの実を取り出し、必死に噛りつく。


 「銀の昼」は過ぎ去っていた。見通しはよい。

 「影」はふと、木々の中、白く輝く平地を見い出す。

 雪に半ば埋もれているが、円形の八つの石が、光を浴びて煌めいている。


 ――あれが、「グレンダ」?


 「影」はイレルダの聖地に、しばし見とれた。

 そして「影」は、木々の合間を縫って聖地グレンダへと続いている小径にも似た細い雪の筋を見い出す。

 たとえ疲れ果てていても、それを鋭い諜者の眼光が見逃すことはなかった。


 「影」は急ぎ、梢から下りる。


 しかし、「影」は、すぐ気がついた。 

 その道のような筋が、けっして簡単には、最後までたどれないようになっていることに。


 そこを用いていた者は、踏みしめた後が残らぬよう、さまざまに細やかに、気を配っていたに違いなかった。

 それでも、もはや勘だけを頼りに「影」は歩みを進める。


 「影」の足は次第に重くなり、自由に動かせなくなった。

 幾度も立ち止まり、木々と雪を見渡しては呆然と立ち尽くす。


 不意に、聞き覚えのある羽音が「影」の耳に入った。

 まるで僥倖のように。

 

 「影」は夢中で足を進めた。幾度も転び、雪の上に倒れながら。


 はたして、それはドラグの羽音であった。

 戸の開け放たれた檻の上に、一羽のドラグが留まり、翼をはばたかせている。


 あれは「ガルディーン」のドラグの片割れ。


 「影」は、そう確信した。



□□□



 そして「影」は、檻の傍に小屋を見いだす。


 ガルディーンの住家だと、「影」にはすぐに分った。

 半ば遠のく意識を懸命につなぎ止め、小屋の戸を押す。


 錠が掛けられていた。


 ガルディーンは不在なのか?

 そうも思うが、ふとまた「影」は気がつく。


 ドラグの檻は「開いているのだ」ということに――


 なぜだ? 

 疲れ果てている「影」の思考はとりとめもなくさまよう。

 小屋の戸にもたれながら、「影」はやっと理解した。


 ガルディーンは単に不在なのではない。

 「ここを抛擲したのだ」ということを。


 だから、ドラグを森に放った――


 「影」は身体を戸にぶつける。

 留め具がゆるみ、扉が外れた。「影」は小屋の中へと転がり込んだ。

 眩暈がして、立ちあがる力もない。

 這うようにして奥へと入る。炉はすでに冷たかった。


 なぜ? 

 なぜガルディーンは、この小屋を打ち捨てたのか?

 王国の森の扉を護る「守護者ガルディーン」が?


 「影」の意識が遠ざかる。


 火を熾し、身体を温めなければ。

 部屋には薪もある。食べ物だって置いてあるはずだ。


 頭の奥で、誰かがそう叫ぶ。

 だが「影」に、もはや、その力はない。


 倒れたままの「影」の目に、微かに輝く何かが映った。


 ――床の上に散らばる金の糸。


 それがなんであるのか、「影」にはすぐ解った。

 

 この国では、他に持つ者もいない「蜜色の髪」。

 そのきらめきは、サリトリアの王女のものに違いなかった。

 

 ついに「影」は「獲物」の足跡を見つけた――


 ガルディーンは王女を連れて、ここを出たのだ。


 だが、なぜ。

 イレルダの森の門番ガルディーンたる男が、何故そんな真似を?


 しかし、そのことに思いを巡らせる時間も気力も、「影」には残っていない。


 ガルディーンがここを発って、もう二日は過ぎているだろうことは、部屋の冷たさから察し取れた。

 急ぎ「報せ」を放たねば。

 

 ――王城へ。


 それだけが「影」の今ある思いのすべてだった。


 最期の力を振り絞り、「影」は戸口へと這い出る。

 口笛を鳴らし、檻の上で羽音を立てているドラグを呼んだ。

 

 拾い上げた王女の髪、そして王と近衛の長のほかは、わずかの者だけが読むことのできる符号で記した「報せ」を、ドラグの足につける。

 

 ひさかたぶりの「勤め」に慶ぶかのように、ドラグは嘶いた。


 「影」が、ふたたび口笛を鳴らすと、ドラグは力強くはばたき、空の高みへと舞い上がっていく。


 そしてその口笛が「影」の最期の息となった。

 小屋の戸口で、「影」は固く冷たくなっていった。



□□□



 銀の昼の中、「門」へと足を進める。

 イレルダの森のガルディーンが、方向をたがえることはない。


 テラ・スールは懸命に足を動かしている。だが、足取りは昨日よりも重かった。

 俺は時折、彼女を抱き上げて歩く。


「ごらん、テラ・スール。あれが『門』だ」


 抱きかかえているテラ・スールに、そっと呼びかけた。

 テラ・スールが、俺の肩に埋めていた顔を上げる。


 木々の間に高い柵。そして、その間に「門」がある。

 この広大な森のすべてを囲っているわけではない。だが、柵は森の南側を、ほぼ覆うかのように続いていた。


 誰がいつ、これを作ったのかは知らない。俺がこの森を知ったときから、それはそこに在った。


 テラ・スールを、そっと雪の上に降ろす。


 門の外に出たことがないわけではない。

 「門」から最も近い町は、俺の住家から王都へ行くよりも、ずっと近かった。

 前のガルディーンとも、そこへは何度か訪れた。


 だが、今は違う。

 ほんのひとときの間、森を離れるのとは違う。


 首にかけた鍵を手にする。

 鍵穴の中に氷が張らぬよう、しっかりとかけてある覆いを取り外す。

 

 「門」の錠は、内側からも外側からも、鍵を差し込まなければ開かない。

 どちらの側にいる者も、この門をくぐるには鍵が要る。


 そして、それを持つのは、王とガルディーンのみだ。


 差しこんだ鍵を、ゆっくりと回した。

 ひとつ身体を打ち当てると、軋みひとつ立てることなく、その大きな扉は開いた。


 テラ・スールに手を差し伸べる。

 俺たちは「門」をくぐった。


 内側の鍵穴にふたたび覆いをかける。そして、外側にも同じようにかけられた鍵穴の覆いを取り去り、扉の鍵をかけた。

 そして、扉の外側の鍵穴もふたたび、しっかりと覆う。


 その間、テラ・スールは、俺をじっと見つめていた。

 あの花の色の瞳で。


 森を背にし、俺はただ前を見据える。


 広がっているのは、森の中とさほど変わらぬ雪景色だ。

 なのに――


 俺にはそこが、まるで未だ見知らぬどこかであるかのように感じられた。


 「ああ、そうなのか」と、俺はひどく腑に落ちる。


 これが「怖れ」というものなのだと――


 「イレルダのガルディーン」であった俺には、知り得なかった怖れ。

 王国の森の門番であることを、捨て去った今。

 初めて、俺の心におとずれたもの。


 立ちつくして眼前を見やる俺を、テラ・スールが見上げている。

 その瞳の色に、深い青紫の花の色に。

 ――俺の心が吸い込まれる。


 そして、怖れは消えた


 俺は「守護者ガルディーン」。

 今、俺は「テラ・スールの守護者」だ。


 老いたドラグが円を描くように、頭上を飛ぶ。

 そして滑るように舞い降り、俺の肩に留まった。


 俺はテラ・スールの腕を取り、ふたたび、雪の上へと足を踏み出した。

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