第12話 禁忌の狩猟
「馬を引け」と。
蒼の王の声が、「王の間」の空気を冷徹な刃のように切り裂いた。
「王、蒼の王、いずこへ……」
懇願にも似た男の呼びかけを、蒼の王は一顧だにしない。
紺青の衣の裾を翻し、歩き続ける。
「朝の稟議に、みな揃っておりますゆえ、どうか王の間へお戻りを」
執拗にすがりつく声に、ついには蒼の王も足を止めた。
「そのまま待たせておくがいい。半日でも、一日でもだ。昨日、
振り返ることもせず、ただ冷たい声で、そう言い放つ。
姿を消したサリトリアの王女を求め、王城の探索は丸一日かかった。
蒼の王の言葉どおり、臣の手指は半時ごとに斬り落とされ、すぐに両手すべての指がなくなった。
しかし、王の蒼い怒りは燃えさかる一方だった。
「テラ・スール」の王女の姿は、城のどこにもなかった。
王女は、この城を抜け出した――
そのことが、はっきりと蒼の王に告げられたのは、すでに真夜中すぎ。すぐに王都中に近衛兵が差し向けれた。
朝の稟議の刻までに、王女を連れ戻せ。
片耳の近衛隊長は、蒼の王に、そう命じられていた。
だが、精鋭の兵たちが夜通し都を走り回ったにもかかわらず、王女の姿はどこにもなかった。
翌朝早く、近衛の長は王に申し述べた。
「王女の姿は、王都のいずこにも見当たらない」と。
残りの耳を落とされるくらいでは、王の怒りを静めることはかなうまい。
近衛の長は「覚悟」を決めていた。
だが、そんな近衛の長の言葉にも、蒼の王は目を閉じ、ただ黙しているだけだった。
そして、王がやにわに目を開けた。
氷海の色の瞳はどこまでも冷たく澄み渡り、薄いくちびるが、ひどく残酷に形を変えた。
それから低く静かに、蒼の王は近衛隊長に命じたのだ。
「馬を引け」と。
□□□
――主上。
そう呼びかける声が、蒼の王の耳へと届く。
広く長い廊下には、誰の姿もない。しかしその呼び声は、耳元で語りかけられているかのように、王にだけは、はっきりと聞き取れるものだった。
「『影』だな、そこにいるのか?」
蒼の王は立ち止まり、姿の見えない呼び声に応じた。
声は発せず、くちびるのみを動かして。
――わたくしに役目をお命じ下さい、蒼の王よ。
王に「影」と呼ばれた声が続けた。
すると蒼の王は、喉にくぐもった、短い笑い声を洩らす。
「昨日一日で我が、どれほど臣下に失望したことか。『影』、お前には分るまい?」
「影」はすこしの間、口をつぐんだ。
しかし、ふたたび王の耳元へと声を飛ばす。
――御自ら、馬を駆ろうとまでお思いになられた王の憤怒のお心は重々に。
しかし昨晩、「森」は嵐。
僭越ながら、蒼の王が、いかに諸国に知れ渡る狩りの名手であっても、嵐の後では「獲物」の足跡は消えております。
しかも、王のお力を持ってしても、あの冬の森はひどい難物。
「『影』、お前は
――雪にも慣れぬかよわき王女の足では、たった一晩で王都を遠く離れようもありませぬ。わずかこれだけのいとまに、姿がかき消すようになくなったからには、森に足を踏み入れたとしか。
そして、王もそうお考えのはず。
蒼の王は、黙したまま「影」の声を聴き続ける。
――だが、兵たちは森を探すことを考えつかない。
なぜなら自らにとって、それが「禁忌」であるから。
されど、「サリトリアの王女」にはイレルダの森の禁忌など、なんの意味もないこと……。
蒼の王の瞳の奥に、青白い炎が揺らめいた。
「だが『影』、蒼の王第一の諜者たるそなたにとっても、冬の『森』は手に余ろう? 益ある『報せ』を我に寄こすことができると、お前は確かに誓うことができるというのか」
――この「影」の命に代えましても、王の信を損なうような真似は、けっして。
「ならば、行け。『影』よ」
蒼の王は目を伏せ、口の端を歪める。
――御意。
「『影』! ゆめゆめ、我が期待を裏切るな」
――仰せのままに、蒼の王。
「影」の声が、王の耳元から遠ざかる。
そして、黒銀の毛皮で裏打ちをした紺青の衣を翻すと、蒼の王は踵を返し、王の間に向って歩き出した。
□□□
「影」は、滑るように駆け出した。
飛翔するドラグが地に落とす、黒き影のごとく。
「テラ・スール」
それは叶わない夢を指す言葉。
そして、サリトリアを得ることは、歴代のイレルダ王の夢。
「影」には分っていた。
もし、その夢を叶えることができる王があるとするならば。
それは「蒼の王をおいて他にない」ということが。
だからこそ「テラ・スール」奪取のため、「影」は蒼の王に尽くした。
サリトリアに攻め入るにあたって、「影」ほど
幾度も、命を危険にさらした。
――蒼の王は、何をも誰をも信じない。
そのこともまた、「影」は知っている。
王城を護る近衛の兵ですら、蒼の王の信頼を、真に勝ち取っているわけではなかった。
最後に王が信じるのは、自身の剣、自身の力。
そして、自身の知性。
王が「影」を信じているとするならば、それは諜者としてのずば抜けた「能力」を「信じている」ということに他ならない。
しかし、それは「立てられた功績」にのみ裏打ちされたもの。
ひとたび王の期待を損なったなら、「影」とて、容赦なく斬り捨てられる。
身体ごと心ごと。
そのことも「影」には解っている。
蒼の王は「影」のすべてだった。
ついに蒼の王は、サリトリアを手に入れた。
王が「テラ・スール」を手離すようなことがあってはならない、絶対に。
だから彼は「王の影」となり、獲物を追って走る。
禁忌の森へと――
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