第11話 貞実と無邪気

 髪を切ろうとするわたしの手を、ガルディーンは強い力で押しとどめた。


 古ぼけた男の服に着替えるよう言われた時。

 これから、わたしは「男のふり」をして歩くのだと思った。

 だから、髪は短い方が良いと考えたのだ。

 なのに……。


 なぜガルディーンが、わたしを止めたのかは解らない。

 わたしが着ていた服は持って行けないと、ガルディーンが言う。

 故郷サリトリアから持ってきた物だった。でも、それを燃やしてしまうことには、一切のためらいはなかった。

 だって、わたしはこれから、そこへ帰るのだから。少しも惜しくはない。


 でも帯だけは別だった。

 これは、あの人への「証」。

 「あの人のものになる」という証に、わたしが手ずから織ったもの。


 サリトリアでは、その帯をひととせの間、身につけた後、許嫁のもとへと嫁ぐのだ。

 そしてそれは、初夜に良人おっとの手により解かれる――


 ガルディーンに手を引かれ、わたしは朝の森へと足を踏み出す。

 白と黒の世界。

 太陽はどこにも見えないのに夜ではない。不思議な世界へ。


 ガルディーンはドラグの檻へと足を向けた。

 そして檻の扉を開け放つ。

 

 二羽のドラグは、戸惑うように檻の中で盛んにはばたいた。

 ガルディーンが、ドラグに向って鋭く指笛を鳴らす。

 そして、イリエガの言葉で短く彼らに何ごとかを言った。


 ドラグたちが檻から出て、空へと飛び立った。

 その姿は、すぐに木々の梢に隠される。

 大きな黒い羽がひとつ、雪の上に舞い落ちた。


「行こう、テラ・スール」

 ガルディーンが、わたしに声を掛ける。


 わたしたちは、森の中へと歩き出した。


 突然、わたしの頭上で大きな羽音がする。

 耳元を切り裂くように、大きな黒い何かが通り過ぎた。

 

 その黒い影は、わたしたちの周りをぐるりと回ると、さしのべられたガルディーンの左腕に止まる。


 さっき外に放たれたドラグのうちの一羽だった。

 ドラグは、赤く光る眼でガルディーンを見つめている。


「俺と共に来るというのか……?」


 囁くように、ガルディーンがドラグに訊ねる。

 ドラグがガルディーンの肩に飛び載った。


 ガルディーンがほどけるように微笑む。

「おかしなヤツだ。お前のあるじは、俺ではなく、前のガルディーンだったというのに?」


 ガルディーンの言葉はサリトリア語ではなかったけれど、それが年老いた方のドラグであることが、わたしにも分かった。

 ドラグはふたたびはばたくと、空の高みへと舞い上がる。


 そして――

 わたしたちは、どれくらい森を歩いただろう。


 ガルディーンは、わたしの腕をしっかりと掴んでいた。

 時折、彼の手を引く力が強まる。

 わたしは必死に歩みを進めていた。でも、それはあまりに遅すぎて、彼が進もうと考えていた道程には、とても及んでいなかったに違いない。


 雪の中に埋もれる足を、一歩一歩引き上げることが、どんどんと難しくなってくる。

 前に進もうとする気持ちだけが先走り、わたしは、雪の上に幾度も膝をつく。

 雪に足を取られて倒れは、また立ち上がり、歩き出す。


 それを何度繰り返したのか。

 ついに、わたしの脚は、もうほんのわずかも動かせなくなる。



   □□□



 不意に、風の匂いが湿り気を帯びた。


 正午はとうに過ぎていた。じきに午後の日が完全に落ちる。

 一人で歩いているならともかく、テラ・スールを連れている今、腹を空かせて気が立っている真冬の獣たちと、闇の中で鉢合わせたくはない。


 今晩は、「イス」に泊まるつもりでいた。

 俺の足なら一日で、門まで行くことは容易いが、テラ・スールにはとても無理だ。だから、とにかく今日は「島」まで行こうと決めていたのだ。


 テラ・スールの歩みは、俺が考えていたよりも、ずっと遅かった。


 彼女が懸命に歩いているのは、よく解る。

 しかし、もう先からテラ・スールは雪に足を取られたまま、立ち上がることさえ難しくなっていた。


 俺は、その細い身体に右腕を回す。

 雪の中からテラ・スールを引き上げ、肩に担ぎ上げた。


「……ガルディーン、下ろして。大丈夫。わたし歩ける」


 テラ・スールが声を上げた。しかし、それはひどくか細くて風の音にかき消される。


 ――嵐が来る。

 この風の匂いは、嵐のきざしだ。


「急がなければ、テラ・スール。早く『島』に辿りつかなければならない……」

 そう言うと、俺はテラ・スールを抱え上げたまま、足を速めた。


 「イス」と、俺が呼んでいるのは、森に幾つか作っている隠れ場のことだ。森を長く見回る時に、夜を明かしたり雨や吹雪を避けたりする。

 

 越境者や密猟者に使われては元も子もないから、「島」は見つけにくく作ってある。たいていは古い時代の大石にできた洞を、上手く使った。


 そして、なんとか嵐の前に、俺たちは「島」に入ることができた。

 俺は洞の奥から敷布を取り、岩肌の上に置く。抱きかかえていたテラ・スールを、そっとその上に座らせた。


 備えてあった藁と小枝を、石を積んだだけの炉にくべて火を点ける。

 雪を溶かして湯を作った。ムラギの粉と蜜の塊を良く混ぜ入れる。


 この「島」には、うつわはひとつだけしかない。俺は薬湯をテラ・スールへと差し出した。

 テラ・スールは固い岩壁に身体を預けるようにして、瞼を閉じている。


「テラ・スール……」


 彼女の冷たい頬に手を当てて、そっとその顔を揺する。テラ・スールは目を開かない。

 俺は、さらに強く揺さぶった。


「いけない、今はまだ、眠っては。もう少し身体が温まってからでないと、テラ・スール、目を開けて」


 テラ・スールはうっすらと瞼を開ける。

 青紫の花の瞳がわずかの間、俺の目を見て、ふたたび光をなくす。


 俺は湯の入ったうつわを、テラ・スールの口に押し当てる。

「飲んで、テラ・スール。飲むんだ」


 しかし、テラ・スールのくちびるの端からは、薬湯がいく筋もこぼれ落ちるだけだ。


 俺は、うつわの湯を口に含んだ。

 テラ・スールの口に、自分のくちびるを重ねる。

 舌でテラ・スールのくちびるをこじ開け、ゆっくりと薬湯を注ぎ込んだ。


 二度、三度と口移しに湯を与えると、テラ・スールはもっと欲しがって、喉を鳴らす。そして、俺のくちびるを無心に吸った。


 テラ・スールの口もとにうつわを押し当ててやる。

 半ば夢うつつのまま、テラ・スールは、それを飲み干した。


 テラ・スールの濡れた口元を指で拭ってやりながら、俺は自分の男の部分が激しく張り詰め、哮っているのを感じていた。


 鼓動が速まり、呼吸が荒くなる。

 俺はゆっくりと、テラ・スールから身体を離した。

 火に枝をくべ、新たに湯を沸かす。自分の分のムラギの薬湯を作り、それを飲み下した。


「ここは……どこ? ガルディーン?」


 振り返ると、テラ・スールが俺を見つめていた。


「ここは『イス』だ。心配ない、テラ・スール」


「音がする……大きな音がするの」


 テラ・スールの声が震えた。俺は手を伸ばして、彼女の頬にそっと触れる。


「森を嵐が通っている。だがじきに行き過ぎる。ここにいれば何も心配はない」


 テラ・スールが俯いて、肩を震わせる。


「どうした? 寒いのか」

 俺は彼女の両頬に手をあてて、顔を上げさせる。


「……馬がたくさん駆けてるわ。蒼の王の騎兵が走ってる」

 花の色の瞳が、切なげに揺れる。


 こわい、こわい、と。

 テラ・スールはか細い泣き声を上げ始めた。


 俺はテラ・スールを両腕でしっかりと抱き留める。

「あれは嵐だ、軍馬の蹄じゃない。嵐はすぐに行き過ぎる。怖がらないで」


「黒い馬が来る。みんな、死んじゃうの。いや、お兄様、お父様……」

 テラ・スールの泣き声が悲鳴に変わった。


「怯えないで、怖がらなくていい。ほら、こうすれば、もう何も聞えない」


 俺は両の掌をしっかりと彼女の両耳にあてがう。

 そして両手の指で、テラ・スールの髪をかきほぐす。やわらかくゆっくりと。


「何も聞えないだろう? テラ・スール」


 テラ・スールの髪に顔を埋めて、俺はもう一度そう囁いた。

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