第10話 抛擲の朝

 イレルダの冬には、空の色で朝を知ることはできない。

 陽は昼時、ほんのわずかの間しか顔を見せてはくれないからだ。


 けれども森の音と風の匂いが、ふと変わる瞬間があった。

 その時に、俺は朝の到来を感じ取る。


 椅子からゆっくりと立ち上がり、寝台へと向う。

 寝息ひとつたてず横たわるテラ・スールの頬に、俺はそっと触れた。


 すべらかでやわらかい膚。

 テラ・スールは目を覚まさない。


 俺は呼びかける。

「テラ・スール、朝だ。起きて」


 蜂蜜色の睫毛に縁取られた瞼が震え、テラ・スールが、ふわりと目を開けた。

 だが花の色の瞳は、まだ眠りの世界を見つめている。


 俺はテラ・スールの耳元にそっと指を滑らせた。

「目を覚ますのだ、テラ・スール。ここを発つ頃合いになったのだから」


 そして、俺の古い服を手渡した。


「これを着て」

 言い置いて俺は、テラ・スールに背を向ける。

 炉の火を起こし、湯を沸かす。


 後ろで、テラ・スールが身に着けていた衣を、床に滑り落とす音がした。


 ふと……。

 凍えるテラ・スールを半裸にして暖めたときのことが蘇った。


 白い肩、うなじ。やわらかく細い腕、脚、そして、くちびる。

 俺は、それらを頭の中から振り払う。


 部屋が暖まってくる。かすかに甘やかな匂いを、俺は嗅ぎ取った。


「ガルディーン……」

 呼びかけるテラ・スールの声に、俺はふと我に返る。


「着かたが解らないの」


 テラ・スールは上着を身につけただけの姿だった。

 小さな両膝と白いふくらはぎ、そして細い足首があらわになっている。

 俺はひどく当惑した。


 子供時分の服だとはいえ、俺の物では、やはりテラ・スールの身体には大きすぎた。腰丈のはずの上衣は、彼女の膝近くまであった。


 長すぎる上衣のせいで、どう下穿きを身につけるのか困ってしまったのだろうか。

 それに、そもそも男の身につける下穿きなど、サリトリアの王女たるテラ・スールが手にしたことがあろうはずもないのだろう。

 その身体からなるべく目を背けながら、俺は着替えを手伝った。


 袖も下穿きの丈も、テラ・スールには長すぎた。

 テラ・スールは人形のように立ちつくしたまま、俺が裾や袖を捲り上げるのを待っている。


「テラ・スール……自分で着替えられるように、やり方をちゃんと覚えておいてくれ。その……あなたのような身分の女は、自分で服を身につけたりはしないのかもしれないが」


 俺は思わずこう洩らした。

 テラ・スールが、青紫の目を大きく見開いて言う。


「ガルディーン。わたしだって、普通の服だったらひとりで身につけることくらいはできるの。背中の留め具は、留められないこともあるけれど……」


 そして、俺が言葉を返そうとするのを押しとどめるようにして、テラ・スールは得意げに微笑むと続けた。


「それに、これの着かたは、今はもうすっかり覚えたわ、ガルディーン。もう一度脱いで、ひとりで着て見せてあげられる」


「テラ・スール、今の俺たちに、そんないとまはない」


 俺が大まじめに言い返すと、テラ・スールは小さな声で笑い出す。

 それは、枝の氷が陽差しに溶けてきらめくような笑い声だった。


「冗談を言っただけなのに。ガルディーン」


 ……じょうだん?

 よく知らない言葉だ、おそらく書き付けには載っていなかったのだろう。

 テラ・スールに意味を訊ねたかったが、今は出立を急がなければならない。


 ムラギの根を煮出した湯を、テラ・スールに差し出す。

 テラ・スールは、それにおずおずと口をつけては見たものの、すぐに顔をこわばらせると、うつわを卓に戻した。


「すべて飲むんだ、テラ・スール。薬だと思って」

 俺は、すこし口調を強めて言う。


 ムラギの根の薬湯は、舌に刺激があって飲みにくいが、とても身体を温める。だから、テラ・スールはこれを飲んでおかなければならない。

 俺も自分の分を一気に飲み干す。


 ふと気づくと、テラ・スールが俺の懐剣を手にしていた。その刃を自分の蜂蜜色の長い髪に押し当てている。


 とっさに手を伸ばし、俺はテラ・スールの手首を掴んだ。

「何をしている? テラ・スール!」


 力加減を考えることもできず、俺は、ひどく乱暴にその手を掴んでしまっていた。

 テラ・スールが、痛みのあまり悲鳴を上げる。


 すぐに力を緩め、俺はテラ・スールの手から剣を奪い取った。

 はらはらと、いくばくかの髪が、金の糸のように床へと落ちる。


 テラ・スールが青紫の瞳を潤ませながら、俺を見上げた。

「だって……男の人の服を着ているのに、髪の毛がこんなに長かったら変だもの。これじゃ男の子に見えないわ」


 たしかに、テラ・スールの言うことは間違ってはいない。

 とはいえ、髪を短くしたらテラ・スールが「男に見えるのか?」と言えば、それは怪しいことだった。

 テラ・スールの華奢な身体が、男の子供のそれであるようには、おそらく見えない。

 

 やわらかいくちびるの線も、すっきりと美しい首筋も、細く白い指先も。そのすべては――

 テラ・スールが、乙女以外のなにものでもないことを、はっきりと示していた。


 男に見せかけるために、テラ・スールを着替えさせたかったわけではない。

 それに何よりも、あの美しく風になびく蜜色の髪を切り落とすなど、俺にはとても考えられなかった。


 俺は、雪色の外套でテラ・スールをすっぽりと覆う。

 森を出て、街に入った時には、この「上物の外套」はひどく人目を引くに違いなかった。


 だが、仕方ないのだ。

 このテラ・スールの身につけていた外套ほど暖かな衣は、今、ここにはないのだから。


 そして俺は、テラ・スールが身に着けていた、金銀の刺繍の服を手に取る。


 これを纏うテラ・スールは、とても美しい。

 だが――


「テラ・スール、あなたには荷を持って森を歩く事はできないだろう。そして、ここにあなたがいたしるしを残して置くわけにはいかない」


 万が一にも、蒼の王の間諜が、この小屋に辿りつくことがあれば。

 テラ・スールのいた痕を、見逃しはしないはず。


 すると、テラ・スールが俺の手から服を奪うと、なんのためらいもなく、それを火の中に投げ入れた。

 しかし、腰帯だけは、しっかりと手にしたまま瞼を閉じる。

 そして、それにくちびるを押し当てると、こう言った。

 

「……ガルディーン、これだけは持っていてもいい? とても、とても大切な物なの、お願い」


 俺はその美しい腰帯をテラ・スールから受け取ると、黙って荷を詰めた革袋へと押し込んだ。


「さあ、もう行かなければ。テラ・スール」


 炉の火を消し、テラ・スールの腕を取って、俺は表へと出る。

 雪明かりだけが白く光る、うっそうと暗い森の中へと。


 俺にはもう、一点の迷いもない。

 首にかけた鍵にそっと手を当てる。王の軍が通るときのほかは、決して開かれることのない「森の扉」の鍵に。


 王国の森。その扉を守護するイレルダのガルディーンは、その門を開く。

 春の国へと向うために――


 「南の地テラ・スール」へと。

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