第9話 恐れと春の国
あまりにも突然すぎた。
ガルディーンが口にしたことの「意味」が、わたしには、すぐ解らない。
彼が話していたのは、サリトリアの言葉だったというのに。
あなたと共に行こう、テラ・スール。
あなたを「テラ・スール」へと守護しよう。
ガルディーンは、確かにそう言った。
「テラ・スール」は蒼の王の物だと。「わたし」は蒼の王の物だと。
そう告げたのは、ガルディーンだ。
なのに。なぜ?
彼に問いかけたいことが、次々と胸に溢れ出す。
けれど、喋り出そうとするわたしのくちびるに、ガルディーンがそっと人差し指を当てた。
「明日の朝早くには出かけなければ。テラ・スール、あなたが森に入ったことに、蒼の王はすぐに気がつく。王の目はごまかせない。だから、急いでここを出なければならない」
「ガルディーン、なぜ……」
言いかけるわたしを、子供をあやすようにガルディーンが宥める。
「あなたは眠らなくては。あしたはたくさん歩く、雪の中を。よく休まなくてはいけない」
そしてガルディーンは、わたしを寝台に横たえて、上掛けでくるみこむ。
なおも目を見開いて、ガルディーンを見上げるわたしの両の瞼に、彼が人差し指と親指をそっと押し当てる。
「目を閉じて、テラ・スール。もう喋らないで……よくおやすみ」
わたしは彼の言うことを聞き入れたふりをして、瞼を閉じる。
ガルディーンは、なぜ、わたしとともにサリトリアに行くと言い出したのだろう――
もしかしたら、嘘なのかも知れない。
サリトリアにではなく、王城に行くのかも知れない。
もし違う道を行かれたとしても、わたしにはまるで解らないに違いないのだから。
でも……。
この人の、ガルディーンの言葉に裏があるなんて、やっぱりとても思えないのだ。
暖かく大きな手を持つ、このやさしい人が。
寂しげな微笑みを浮かべ灰色の目でわたしを見つめる、このイリエガの大きな男が。
嘘をついて、わたしを連れ出すなんて――
ほんとうに、わたしと森を行ってくれるのかしら。
だって、それはきっと、蒼の王に歯向うことになる。あの氷海の瞳を持つ、冷徹で残酷な王に。
ガルディーンは、そんなことをするつもりなの?
ガルディーンは、そっと寝台の傍から離れていった。
ごく小さな物音が絶え間なく続く。
わたしは薄く目を開け、彼の方を見た。
部屋にある様々な道具。
その中から、ガルディーンは幾つかの物を取り出し、ある物を袋に詰め、ある物を組み立てる。
今、ガルディーンが組み立て終わったのは、弓だった。
あんな大きな弓を見たのは初めてだ。
そして革筒に矢を詰める。鞘から懐剣を抜き、炉の火にかざして刃を確かめた。
そして、ガルディーンは部屋の奥へと歩いていき、大きな箱の蓋を開ける。
中には、たくさんの書き付けが並んでいた。
ガルディーンが、それらを手に取る。
書き付けの中をあらため、幾つかは箱から出したままにし、幾つかは、また箱に戻す。
ふと、ガルディーンが、わたしの方を振り返った。
わたしは慌てて、眠っていたふりをする。
でも、ガルディーンの目はごまかせなかった。ゆっくりとわたしに近づいてくる。
ガルディーンが言う。
「いけない、テラ・スール。休まなくては」
わたしは、ガルディーンを見据える。
「ガルディーン、なぜわたしと来てくれるの? どうして? あなたは蒼の王が怖くないの」
ガルディーンは、わたしの言葉にふと目を細める。
そして、ゆっくりと言葉を選びながら言った。
低く、おだやかに。
「『花の月』のサリトリアの香りを知りたい、薔薇麦の歌が聴きたい、凍らない海と小川の暖かなさざ波に触れたい……テラ・スール、俺はサリトリアを見たい」
ガルディーンはふたたび、わたしの目の上に、その大きな掌をあてた。
そして、耳元で何ごとかを呟き始める。ごく低く小さな声で、うねるような唄うような何かを。
そしてそれは、わたしをひどく眠くさせる。
暖かな手に、背中をゆっくりと大きく撫でられて。
すぐにわたしは、眠りの渦の中に引き込まれていった。
□□□
なぜ、自分を守護するのか? と。
テラ・スールに訊ねられた。
だが、ほんとうのところは、俺自身にも、よくは解らなかった。
この森の「
禁を犯し、秘すべき「書き付け」を他の者に見せただけにとどまらず、森を捨てて行こうとしている?
その俺が?
イレルダの南に広がる王国の森が閉ざされているのには、意味がある。
聖なる地「グレンダ」があるから。無論、それも理由だ。
だが、一番の理由は国守だった。
異国からイレルダの王都へ入るには、森に沿って東か西から大回りをするしかない。
西は、西国アルシングとの境、険しいへリス山の谷底を歩む道。
東から回れば、氷の崖と海との間の僅かな間を進むことになる。
このふたつの道は狭く険しい。
兵を率いて進むことはできない。
だからイレルダの軍もまた、この森を通って戦に出るしかなかった。
けれども、それができるのは夏の間のみ。しかも、ガルディーンたる俺が先に立ち、道を示さなければ、この森を行くことはかなわない。
だからこそ隣国は、この国に攻め入れぬままだったのだ。
イレルダは氷に閉ざされた国だ。
サリトリアのように、ひととせに二度の実りが得られるわけでもない。
それでも、他国がイレルダを求める理由はあった。
イレルダは鋼を売って麦を買う。イレルダほど多く鋼を作ることができる国はない。
だからこそ、他国はイレルダの宝、鋼を欲する。
しかし、この森を踏み越え、王都へと戦を仕掛けることができた国は、これまでひとつもなかった。
けれども、この森は時に、王国イレルダにとっても足かせとなる。
王都に「報せ」を届けるには、森の東や西を大回りしていては遅すぎる。
他愛の無いやり取りをするような、民たちの「報せ」ならば、それでも構わないだろう。しかし、諸侯の動きや鋼の売り買いについての「報せ」は、届くのが早ければ早いほどよいものだ。
王の間諜は、急ぎ報せなければならないことを、この俺、イレルダの森のガルディーンに託す。
森の扉を開けぬまま、俺はそれを受け取る。
そして、俺はそれをドラグに託し、王都へと飛ばすのだ。
ドラグの身に何かが起こったときのために、「ガルディーン」は報せの「写し」を取らなければならない。
無論、書かれたことを森の外に洩すことは許されない。ただ、写しを取るだけだ。
正確に写し取るには、書かれた言葉を解している必要があった。
だから、前の
写しを取る回数が増えれば増えるほど、俺はますます言葉を解するようになる……。
結局、王の間諜の「報せ」の内容を、俺はすべて解することができるようになっていた。それが真に意味するところも、なにもかも。
間諜がもたらす「報せ」は様々だ。
時にはある国の城の内部。地図などの文字以外の物もある。
そうやって、「ガルディーン」の住家にはいつしか、けっして他所へ洩すことはできない諸国とイレルダどちらにとっても、とてつもなく大切な「報せ」が積み重なっていった。
その中から、俺は「
旅に多くは持ってはいけない。
考えを様々に巡らせて、書き付けを選び取った。
残りは、誰の手も届かぬ所へと隠しておかなければならない。ふたたび箱に鍵を掛ける。
俺は、ガルディーンしか知らない場所へと、その箱を収めた。
そして、その鍵はガルディーンと共に。
森の扉の鍵と同じく、それはガルディーンが守護する。
俺はテラ・スールの「着る物」のことを考える。
あの身なりで森を歩かせるわけにはいかない。
ずっと昔、俺がまだ幼かった頃に身につけていた服を探し出した。
朝になったら、これに着替えさせよう。
弩弓を組み立てる。矢と剣を確かめる。
支度を調えながら、俺はふと、心の中に、自分が自分に問いかける声を聞く。
俺はほんとうにこの森を出るのだろうか?
イレルダのガルディーンたる、この俺が?
テラ・スールは俺に訊いた。
――蒼の王が怖くないのかと。
たしかに、蒼の王は怖ろしい王なのだろう。
しかし実のところ、俺はそれを「報せ」の中身で知っているだけのことだった。
噂と文字で知っているだけのこと。
蒼の王の声を耳にしたことすら、俺は一度もない。
王をこの目で見たのも、先だっての戦いの出陣と、夏の終わりの帰還の時だけだった。
新月の夜の髪に切れ長の目。その瞳の奥に蒼い炎が燃えさかる。
薄いくちびるは、酷な形に歪み、膚は氷のように白い。
イレルダの男らしく背は高いが、その身体は、二十になる前の若者のように軽やかですらある。
そう――
蒼の王は、まだ若い。
しかし、歴代のイレルダの王の中でも、蒼の王ほど烈しく賢しい者はなかった。
イレルダの宝である鋼。
キーンには、その石がまだ多く眠っている。しかし、それを取り出すのは、ひどく困難を伴った。
雪が舞い降り始める秋には、石を掘り進めることができなくなる。
キーンには、どこよりも早く雪が降る。
そして、北の果てのキーンには夏になっても雪が残る。
そうなると、ひととせのうちでも、ほんの僅かの間しか石を取り出すいとまがないのだ。
短い時間に多くの石を掘り出すために人夫を増やそうにも、それもまた困難だった。
キーンへの道程は狭く険しい。
多くの人手をまかなう食べ物を、王都から運ぶのさえも一苦労なのだ。
蒼の王は聡かった。
王はまず、キーンへの道を広く切り開き、敷石で整えた。
鋼も人も、その他の物も、一度に行き来ができるようになる。
これまでよりもより多くの鋼を取り、鍛えることができるようになった。
王は、その鋼で武器を増やした。兵を増やし、それを強めた。
そしてその力で、ついに蒼の王は手に入れたのだ。
「
そんな蒼の王を「恐れるか」と問われれば、俺はやはり「分からない」としか言いようがない。
俺には「恐れる」という感情が分からない。
怖ろしい物になど、これまでに出会ったことはなかった。
猛々しくも荒々しい獣ならば森にも多くいる。
しかし、俺はそれを「恐れた」ことはない。
互いに互いの間合いを乱しさえしなければ、獣は俺を襲わない。もし獣たちが牙をむいてきたとしても、俺には彼らを仕留められるだけの力があった。
時折迷い込む、密猟者も越境者も、弩弓で一撃に射抜いてしまえば良いだけのこと。
「怖ろしい」と言うのが、いったいどんな心持ちなのか。
俺には解らない――
テラ・スールは、俺がこれまでに見たことのない何かだった。
身につけている物も、言葉のしらべも。
蜂蜜色に輝く髪も。
そしてテラ・スールを見ていると、今までに感じたことのないものが、心に呼び起こされる。
誰かの髪が風になびくさまを「綺麗だ」と思う気持ちを、俺は初めて知った。
テラ・スールが涙をこぼすとき、俺の心は何かにきつく握りしめられる。
それも、俺が今まで知らなかった「痛み」だった。
「なぜわたしと来るのか」というテラ・スールの問い。
それへの答えを、俺は考え続ける。
このまま、テラ・スールをひとり森に放てば、すぐにまた倒れ、雪の中で冷たく固くなってしまうだろう。
雪の中に横たわり、凍てついているテラ・スールの姿を思い浮かべるだけで胸の奥がひどく軋む。
もし、蒼の王のもとへと連れ戻したなら。
テラ・スールの花の色の瞳から、どれほどの涙がこぼれ落ちるだろうか?
蒼の王に組み敷かれ、泣き声を上げるテラ・スールの顔が目の前に浮かぶ。
石の壁に囲まれた白金の褥、蒼の王の冷たい腕の下。
青紫の目から、涙を溢れさせるテラ・スールが。
泣きながら助けを求めるテラ・スールの声など歯牙にもかけず、蒼の王は彼女を貫くだろう。
その氷海の瞳の色をも変えぬまま。幾度も幾度も。
王自らが、それに倦き果てるまで。
テラ・スールは心を凍りつかせ、壊れてしまうに違いない。
そう思うと、俺は、もうどうしたらいいのか解らないのだ。
イレルダの冬は。
――彼女にはあまりにも冷たすぎる。
テラ・スールは、
ならば、俺ができることはただひとつしかない。
ただひとつだけだ。
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