第8話 デ・ガータ、デ・ナーダ(2)


 テラ・スールは、言葉を覚えはじめた幼子のように、デガータ、デナーダの「ことばあそび」を繰り返す。

 その声がひどく愛らしく、俺は思わず笑い出した。


 声を出して笑ったのは、久しぶりのことだ。前に笑ったのがいつだったか、思い出すのは難しい。


 テラ・スールは、俺に何かを伝えたがっている。

 それは、はっきりと分った。

 でもそれができない。この国の言葉が、まだあまり解らないからだ。


 悔しそうに涙をこぼすテラ・スールを見ていると、なんとかして手助けをしたいという気持ちにさせられて仕方がない。


 実は、サリトリアの言葉が「解らない」わけではなかった。

 俺には、サリトリアの言葉が「解る」。「書かれた」物を読み、伝えたいことを「文字にする」のなら、俺にとっては難しいことではない。

 

 しかし「話す」ことはできなかった。そして、聞くことも。

 サリトリアの言葉に限らない。俺は他国の言葉を書くことも読むこともできた。


 隣国の言葉は、氷国の言葉と使う文字が似かよっている。

 だから、書くことと読むことに加えて、それらを聞き、話すことも、俺にはできた。


 しかし、サリトリアの言葉を書きとめるために使われる文字は、この国のものとはまるで違った。

 だから、それらの文字を「どう音にしたらいいのか」が、俺には解らなかったのだ。


 「その異国の言葉サリトリア語」を口にして、声に出してみようと思ったのは初めてのことだった。

 ひょっとして、試してみればテラ・スールに伝わるかもしれないと、そう思いついたのだ。


「泣かないで、テラ・スール。お願いだから」


 音は……。

 これで正しいのだろうか? 不安になりながらも、俺はこう口にした。


「もう一度言って、ガルディーン?」


 おそらく、テラ・スールはそう言った。

 もし、いま俺が口にした音と文字との結びつきが正しいとするならば――


 結局のところ、俺の言葉は通じたのだろう。

 テラ・スールは、勢い込んでサリトリアの言葉で話し始めた。

 しかし、それらの言葉を文字と結びつけることに、まだ俺は追いつかない。

 答えを返せず、俺は黙りこんだ。


 テラ・スールが俺の袖を掴む。ひどく不安そうな声で俺を呼ぶ。

 俺はテラ・スールに、これ以上悲しい顔をさせたくはなかった。


 ガルディーンの「戒め」を破ることになる――

 それは解っていた。


 しかしあえて、その禁を犯すことを、俺は決めた。

 テラ・スールのために。


 前のガルディーンが俺に残した書き付けを手にする。

 異国の言葉とイレルダの言葉。その意味を並べて記した物だ。そしてそこには、俺が新たに知った言葉も足されている。


 「これ」を、ガルディーン以外の者が見ることは禁じられてきた。


 だが、ここに書かれているサリトリアの言葉をテラ・スールに読んでもらえば、俺はずいぶんと、この異国の言葉を「話す」ことが、そして「聞く」ことができるようになるだろう――


 俺はその書き付けを、テラ・スールの前に示す。

「ここ、サリトリア、ことば、声に、して」


 言葉を、ひとつひとつ指し示す。

 そして俺は、「喋って」と身振りで示した。


 テラ・スールは俺の目を見つめ、何かを考え込んでいた。

 しかし、すぐに俺の望みを察し、サリトリアの言葉を口にし始める。


「ここ、書く、書かれる、言葉、声、出す。声に出す」


 書き付けを繰りながら言葉を捜し出し、それを指し示して、また喋り始める。


「読む、読める。あなた、言葉、お願い。わたし、帰る、帰りたい。サリトリア。少し、間、すこしの間。蒼の王、報せ、ない、報せないで。お願い」


 俺の頭の中で、文字と音が次々と組み合わさっていく。テラ・スールが声に出して読み進めるとともに、組み合わせの生まれ方が速まっていった。


 どれくらいの時を、そうやって過ごしただろう。

 文字を指し示しながら、言葉を紡ぎつづけるテラ・スールの手を、俺はそっと押しとどめた。


 テラ・スールが俺を見上げる。あの春の花の色の瞳で。


「あなたには、この冬の森を行くことはできない。テラ・スール。あなただけではない、できる者など誰もいない。王の軍隊ですら、それはできない」


 俺はテラ・スールに、こう語りかけた。サリトリアの言葉で。

 テラ・スールが大きく頭を振る。


「でも、わたしは帰る。サリトリアに帰るの。蒼の王の物になるのはいや」


 頑ななテラ・スールの言葉に、俺はふと思う。


 ――そうまでして帰りたい「南の地テラ・スール」とは、いったい、どんな場所なのだろうか? と。


 春の国だと。そう聞いている。

 雪が地面を覆うことが一度もない、海も川も凍ることを知らない。

 そんな場所テラだと……。


 俺には思い浮かべることすらできない。雪のない国など。

 イレルダの森の門番ガルディーンであり続けた、この俺には。


「サリトリアは、綺麗?」

 俺は訊ねる。


 ……あなたと同じように? テラ・スール。


 テラ・スールは頷く。


「ええ、美しいわ。わたしの国、愛するサリトリアは美しいの。『花の月』には、国中がマユバの甘い香りに包まれる。次は『輝きの月』。木々の新しい葉が匂いたつ。夏の日は海辺に出るわ。さざなみは暖かでやわらか。そして『金の月』には薔薇麦の穂が歌いはじめるの。もちろん、月麦は春に『花の月』に穫り入れるのよ。薔薇麦は秋の実りなの、ガルディーン。サリトリアはきれい、きれいよ」


 テラ・スールのくちびるからこぼれ落ちる言葉は、とまらない。

 サリトリアの言葉の響きは、こんなにもやさしく甘いものだったのだと、俺は知る。


「それでも、あなたはひとりで、この森を出ることはできない、テラ・スール。すぐに倒れて、冷たくなってしまうだろう。森を行けるのは、ただひとり。イレルダの森のガルディーンだけだ」


 テラ・スールの顔が凍りつく。青紫の瞳がせつなげに揺らめく。

 その口もとが、悲しい形に動き始めた刹那、俺はふたたび言葉を継いだ。


「だから、イレルダの守護者ガルディーンが、あなたと共に行こう、テラ・スール。あなたを『テラ・スール』へと守護しよう」

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