第6話 黒い翼、灰色の獣
――大きな黒い翼を持つ、腕に載せた「それ」を。
ガルディーンは、「ドラグ」と呼んだ。
「それ」を使って、きっと蒼の王に何かを……「報せ」を運ぶのだろうと。
わたしはそう考えた。
「ドラグ」が、大きな声でひとつ嘶く。今にもはばたき、空高く遠くへと飛び去りそうだった。
わたしはガルディーンに、自分が知る限りの
――蒼の王に報せないでくれと。お願いだから、報せないでくれと。
けれどガルディーンは、ドラグの足を指さし、わたしに向って微笑む。
ドラグが、何も運びはしないことを示そうとしているようだった。
そして、わたしは突如、腑に落ちる。
ドラグとは「報せ」を運ぶための、翼をもつ獣たちを指すのだ。
「道具としての名」なのだ、ということが。
ガルディーンが、わたしの腕を支えて歩き出す。
色は同じでも、
よく磨かれた剣の刃のような色。
ガルディーンの掌は、大きくて、やはりとても暖かい。
ひどく背が高く長い手脚をしているのに、動きは素早くてしなやかだった。ガルディーンは、雪に足を取られることもなく、すべるように歩みを進めていく。
永遠に続くのかと思うような木々の暗い繁りが途切れ、突然、目の前が白く輝く。
広い広い雪原が広がっていた。
まっさらで、誰の足跡も何の足跡もついていない。
わたしは、その白さに息を飲む。
この国を包み込む、冷たく悲しい色をした重く垂れ込めた雲。
その厚い雲に切れ間ができた。
光の矢が、目の前の雪の原に降りそそぐ。
美しい……と。
わたしはイリエガに来て、初めて感動に心を震わせた。
いいえ。
「美しい」というのとは違う。
「美しい」と言うにはあまりにも厳かで静かで、澄み切っていて輝かしい。
そこが「グレンダ」と呼ばれる、イリエガの聖なる地であることを。
その時のわたしは、まだ知らない。
清らかな光の中、ドラグが翼を広げて舞い上がった。
高く、高く。
光の矢を追うように、はるか彼方へ。そしてその高みで、ドラグは舞を舞う。
ドラグのように力強くも美しくはばたく物を、故郷サリトリアでも、わたしは知らなかった。
黒く冷たい石の壁に囲まれた、あの迷路のような王城からは、こんなにも綺麗なものは見えなかった。
イリエガは美しい。
その時まで、わたしは氷国の美しさに気がついていなかった。
ドラグを追いかけ、雪の原に足を踏み出す。
ドラグのように、高く強く飛べるなら。すぐにでもサリトリアに帰ることができるだろうに。
大好きなわたしの故郷。愛しい人の香りのする国へ。
その美しいイリエガの風景のなかで。
その時、わたしの心の中を占めていたのは。
イリエガの雪景色の神々しさよりも、ドラグの美しいはばたきよりも、ただ故郷への想い、愛しい人への思慕。
そして――
蒼の王の、あの冷たい腕から逃れたいと、それだけを切に希う気持ちだった。
□□□
ドラグがガルディーンの腕へと舞い降る。わたしはまた、彼に手を引かれて小屋へと戻った。
ガルディーンの瞳は髪と同じ色だ。
そして、それは見ている物の色を映して、様々に色を変える。
暖炉の火の前では明るく優しい黄緑色になり、森の木々の下では暗闇に近いほどの陰りをたたえる。
その目を大きく見開いたり、口もとを緩めたりすると、ガルディーンは可笑しいくらい幼げなたたずまいになった。
「このイリエガの大きな男」に、わたしはもっと怯えるべきだったのかもしれない。でも、それはとても難しい。
だって、ガルディーンは、すこしも怖くなかった。
なぜそう感じたのかは、分らない。
何かに戸惑ってでもいるかのように、灰色の目を瞠ってわたしを見つめるガルディーンの様子が、その逞しくもしなやかな身体と、あまりにも不釣り合いに見えたからかもしれない。
わたしの頬を髪を。ガルディーンは、指でそっとそっと触れる。
腕を肩を掴む彼の手は、やさしく大きく暖かで、わたしは、まるで自分が孵ったばかりの雛になったような気持ちにさせられる。
ガルディーンはやさしい。
そして「テラ・スール」と、わたしに呼びかける彼のまなざしは、どうしてなのか、時にひどく不安げにせつなく潤んだ。
どうして、そんな目でわたしを見るの? ガルディーン。
心の中で、わたしは何度もそう問いかける。
でも、口に出すことはできない。それをイリエガの言葉で、何と言ったらいいのか分らないからだ。
ガルディーンは、きっとこんな風に言ったはずだ。
「テラ・スール」は、イレルダの一部になった。蒼の王の物になった。
テラ・スール、あなたは蒼の王の物だ……と。
――だから。
この人は、わたしを見逃さない。
今はまだでも、じきに蒼の王に「報せ」を飛ばすだろう。
早く逃げなくては、ここから。
でも、どうやって?
この人の目を逃れて、この森から抜け出せる?
ああ、せめて。わたしに老いたドラグほどのものでもいい。
翼があれば。
物思いに沈むわたしの口もとに、ガルディーンが匙を運ぶ。
雛に餌を与える親のように。
彼はすこし悲しそうな微笑みを浮かべて、わたしにくちびるを開かせる。
ガルディーンはやさしい。
このひとのやさしさには、何も裏はないのだ。
わたしには、確かにそう思える。
だからこそ。
いつまでもガルディーンに、このやさしい人に口止めをさせておくなんて、いけないことだ。
そして、わたしはいつまでも、ここにいるわけにはいかない。
わたしは、あの人のもとへと帰る。
「十六になったら、あなたのものになる」と誓った。わたしの愛しい人のもとへ。
春の国へと――
この雪の森を抜けて、もう一度。
サリトリアへ。
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