第5話 ドラグの飛翔


 泣き疲れたテラ・スールが、ふたたび眠りに落ちるまでに、それほどの時はかからなかった。


 白い頬に残る涙の粒を、俺はそっと指で拭う。

 炉の炎を受けて虹色に輝くそれを、口に運んでみる。


 テラ・スールの睫毛の上に落ちかかる蜂蜜色の髪。

 滑らかに波打つ無数の金の糸をゆっくりと撫で、その目元から払いのける。


 ――女を知らないわけではない。


 かつて、俺が「門番ガルディーン」と呼んでいたあの男は、「そのこと」も俺に教えた。

 湧き起こる渇きを、どうしても癒せないときに立ち寄るべき場所も。


 そんな場所の女たちと比べれば、テラ・スールはずっとか細く小さく、まだ子供のようですらある。

 俺が女たちにするような扱いをしようものなら、テラ・スールの身体はすぐに粉々に壊れてしまうに違いない。


 蒼の王は――

 こんなにもはかないものを、娶るおつもりなのだろうか……?


 婚姻の儀は「雪解けの日」と定められた。そう耳にした。


 王がまだ、テラ・スールに「手を触れていない」ことは、俺にも分った。

 テラ・スールは、いまだ雪のように清らかだ。

 ヴァルボリの日から百二十日目、イレルダの森に初めて舞い落ちる雪と同じように。


 外で荒ぶる羽音がした。

 俺は物思いから引き戻される。


 ドラグたちが、檻の中ではばたいているのだろう――


 溶かしたばかりの氷と乾肉を手に、俺は表へ出た。

 檻の中には、対のドラグの「かたわれ」が一羽と、すでに「かたわれ」を亡くしたドラグが一羽。

 さっきから盛んにはばたいているのは、老いて、かたわれを亡くしたドラグの方だった。


 俺は、革の長手袋を左腕に填める。

 檻に肉と水を入れてやれば、若い方のドラグがすかさず、餌に顔を寄せる。

 鋭い鉤爪のついた足で乾肉を捉え、黄色の嘴でそれを引き裂いた。


 もう一羽の、老いたドラグは肉にも水にも見向きもせず、ただ、はばたきを続けている。


 俺は長手袋の左腕を檻へと差し入れた。


「どうしたのだ、おまえは、さっきから? 来るか?」

 そう問いかければ、ドラグは翼を大きく広げ、ひとつ身震いをして腕に飛び乗った。


 老いてかたわれを亡くしたドラグを左腕に載せたまま、俺は檻を離れて歩き出す。

 何度も何度も、ドラグは腕の上ではばたきを繰り返した。

 そして赤く光る眼で、俺を見上げる。


 テラ・スールが、小屋の戸から顔をのぞかせていた。


 その目は大きく見開かれ、青紫の瞳が不安げに揺らめいている。

 純白の長い外套を頭からすっぽりと被っていて、あのミードの色をした豊かに波打つ長い髪は覆い隠されていた。


 物言いたげに、テラ・スールの薄紅色のくちびるが形を変える。


「心配は要らない、テラ・スール」

 俺は、テラ・スールに語りかけた。


「だめ、あおの王にしらせる、おねがい」

 テラ・スールは激しくかぶりを振ると、この国イレルダの言葉を懸命に口にする。


「このドラグには王への『報せ』は付けていない、大丈夫だ」

 ふたたび、ゆっくりと俺は繰り返す。


 テラ・スールが小屋から飛び出して、駆け寄ってきた。


「だめ。いや。おねがい、ガルディーン、ガルディーン」


 腕の上のドラグが、一声、嘶きを発して、翼を広げる。

 驚いたテラ・スールが立ち止まり、石のように固まった。


 俺は口をすぼめて短い息音を発し、ドラグを宥める。そしてテラ・スールを見下ろして言った。


「ごらん、テラ・スール? ほら、ドラグの足に『報せ』は付いていない」


 指し示したドラグの足を、テラ・スールが、おずおずと覗き込む。


「それに、このドラグは『報せ』を運ぶには、老いすぎている。これは、前のガルディーンの『ドラグ』だ。かたわれもとうに亡い」


「……どらぐ?」


 テラ・スールが、目を瞠って俺を見上げた。

 俺は頷く。


「そう、ドラグ。俺の『ドラグ』は檻にいる。そのかたわれは王城に」


「ドラグ……なまえ?」

 テラ・スールは、俺の腕のドラグを指さす。


「『ドラグ』には、翼ある物を二羽一対で使う。長く速く飛ばすためには、大きな強い翼を持つ種類が良い」


 テラ・スールは首を傾げた。

 歩き出しながら俺は続ける。


「これは前のガルディーンの『ドラグ』だ。老いているから、もう王城まで飛べるかも分らない」


「まえのガルディーン……ガルディーン? だれ、あなた」

 テラ・スールは俺の後をついてきた。


「俺は門番ガルディーンだよ? テラ・スール。イレルダの森の守護者ガルディーンだ」


「……ガルディーンのなまえ」


 テラ・スールが俺の前に回り込む。

 花の色の瞳で、また俺を見上げた。


 俺もテラ・スールの瞳の奥を覗き込む。


「俺に名はない、俺は『門番ガルディーン』だ。おいで、テラ・スール。『グレンダ』へ行こう」


 テラ・スールの腕を支えながら、俺はまた歩き出した。

 青黒い針の葉の木々を抜け、軋る雪を踏みしめて、グレンダへと向う。


 「グレンダ」は、このイレルダの森の中心。

 八つの聖なる石が据えられた、いにしえからの聖地だ。

 

 王とガルディーンに以外は、誰も足を踏み入れることのない場所。

 森中にうっそうと茂る木々の中、グレンダはめずらしくも草地だった。

 ドラグをはばたかせるのに、ちょうどいい。


 そして今、そこは純白の雪原――


 腕の上のドラグのはばたきに、力強さが増す。

 テラ・スールを不安がらせないため、俺は今いちど、彼女の顔を覗き込んで言う。


「これは飛びたがっている……ただ飛びたいだけだ、テラ・スール」


 不意に、分厚い雲に切れ間ができ、午後の最後の陽差しがこぼれ落ちてきた。


 俺は大きく左腕を振り下ろす。

 ドラグが高く高く舞い上がった。差し込む光の条に向って高く。

 大きな黒い翼を広げ、はばたきを繰り返し。

 はるかかなたの高みまで。


 テラ・スールは花の色の両目を瞠り、腕を広げ、空高くはばたいていくドラグの姿を見上げていた。


 空の高みで、舞い踊るように回るドラグを見つめながら、テラ・スールもまた、雪原の上で円を描いて回り出す。


 外套の裾が広がり、隠されていた蜜の色の長い髪が、波打つように溢れ出た。


 ドラグの姿を追って、テラ・スールがグレンダの雪の上を軽やかに歩む。

 進み、戻り、そして回る。

 宙を踊る金色の髪がさんざめく。


「……きれい」


 テラ・スールの淡い色のくちびるから、ふとイレルダの言葉が洩れだした。

 足をもつれさせ、テラ・スールがよろめく。

 俺は腕を伸ばして、その細い両肩を支えた。


 テラ・スールは振り返り、俺を見上げて微笑んだ。


「ドラグ、きれい。とてもきれい」


 喉の奥が、締め付けられるように痛んだ。

 俺の口から溜息が洩れる。


「……『綺麗』は『あなた』だ、テラ・スール」

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