第3話 テラ・スールの守護者

 「テラ・スール」と――

 そう呼びかけた途端、花の色の瞳から涙が溢れだした。


 青紫の春の花。

 それと同じ色の瞳から溢れた涙が、細い顎から滴り落ちて寝台の敷布に小さな染みをつくる。


 どうしてテラ・スールが泣き出したのか、まるで分らなかった。


 そうだ。まるで分らないことだらけだ。

 どうして、この森で雪の中に倒れていたのか。

 どうして、こんなにも甘やかな匂いを纏っているのか。


 何もかもすべて、俺には分らない――


 テラ・スールは飛び起きると、服を身につけ始める。

 背中の留め具をひとりでとめてしまうことができないようだった。


 困った顔で、あたりを見回している。


 ――手助けが欲しいのだろうか?

 そう考えて、俺はテラ・スールに近づいた。


 金色に波うつ長い髪が、背中を覆い隠している。

 それをそっと掴んで、身体の前へと動かした。


 テラ・スールのうなじが露わになる。

 俺の目は、その膚の白さに吸い寄せられた。


 その場所に触れてみたいと思う気持ちが沸き起こった。

 けれども、すぐさまそれを、自分のなかの何かが押さえ込む。

 

 ――いけない。

 触れてはいけないと。


 「テラ・スール」

 それは「叶わない夢」を指す言葉――


 この娘は、まだ休んでいなければならない。

 ついさっきまで死にかけていたのだから。


 俺はテラ・スールを抱きかかえて寝台へと運ぶ。

 足先がまた、氷のように冷たくなっていた。しっかりと上掛けでくるみこむ。


 蜂蜜酒ミードを入れたうつわに、湯を注ぎ入れた。

 テラ・スールの手に、そのうつわを握らせる。


 テラ・スールは、俺の言葉が解らないようだった。

 俺にもテラ・スールの言うことが解らない。


 黙ってミードを見つめているテラ・スールに、俺はゆっくりと語りかける。


「温まるから、それを飲みなさい、テラ・スール。飲むんだ」

 そして、うつわに口をつけて飲む身振りをしてみせる。


 不思議そうに俺を見つめていたテラ・スールが、おずおずとうつわにくちびるをつけた。

 ひとくちミードを飲み下し、テラ・スールが何かを言った。


 俺は目を細めて、首を傾げてみせる。

 テラ・スールがまた、何かを言った。


 さっきと同じことを口にしたようだが、やはりよくは解らなかった。

 テラ・スールは困ったように微笑むと、黙ってミードを飲み続け、やがてうつわを空にした。


「ありがとう……」

 テラ・スールがこの国イレルダの言葉で言う。

 俺は安堵し、手を伸ばして、その金の髪をそっと撫でた。


 こんな色の髪も、この国では見ることがない。

 この国の民の髪色はたいていは灰色。

 ごくまれに漆黒の闇の色の髪を持つ者もいる……「蒼の王」のように。


 テラ・スールが、ふたたび口を開いた。

 意味は解らない。

 しかし、何回か「蒼の王」という言葉を口にしていた。


「……蒼の王がどうしたのか? テラ・スール」


 ゆっくりと訊ね返すと、テラ・スールは懸命に言葉を探しながら語りかけてきた。

「あおの王に言う、だめ。かえる、わたし」


「王城に帰りたいのか?」

 そう聞き返すと、テラ・スールは激しく首を振った。

「いや、城、かえらない。いや、あおの王。かえる、てら・すーるへかえる。みなみ」


 テラ・スールの言いたいことは解った。

 「故郷テラ・スール」に帰りたいのだと。蒼の王のもとにいたくないのだと。


 だから、溜息をひとつ吐き出して、俺は言う。

「『テラ・スールサリトリア』は、イレルダの一部になった。蒼の王の物になった。だから、あなたも蒼の王の物だ。南へは帰れない」


 テラ・スールはふたたび、大きく首を横に振った。

「かえる、かえる……いや、あおの王」


「テラ・スール、あなたは蒼の王の物だ」

 俺はもう一度繰り返す。


 テラ・スールは俺を押しのけるようにして、寝台から飛び降りた。

 そのくちびるから紡がれるのは、もはやこの国の言葉ではなかった。


 裸足のまま扉の方へと向うと、テラ・スールは外に飛び出していく。

 そして、雪の中へと駆け出した。

 俺はその後を追いかける。


 雪に足を取られ、テラ・スールが転ぶ。よろめきながら立ち上がり、なおも先へと進もうとするテラ・スールの手首を、俺はしっかりと捉えた。


「いけない、テラ・スール。戻って、また倒れてしまう。また冷たくなってしまう」

 目を見つめ、言い聞かせるように繰り返す。


 しかし、テラ・スールは俺の手をふりほどこうと、激しく身もだえた。

 青紫の瞳からは、涙が次々とこぼれ落ちて止まらない。


 テラ・スールの涙。

 それを見ると、一体どうしたらいいのか、俺はまるで途方にくれてしまう。


「泣かないで。お願いだから、テラ・スール、泣かないでくれ」

 そう言うほか、なにも思いつかない。


 テラ・スールがよろめいて、雪の上とくずおれる。

 俺はその体を抱え上げた。


 羽根のように軽い。

 こんなに小さく弱くては、すぐに凍えてしまって当然だと、そう思った。


 部屋へと連れ戻し、テラ・スールを、ふたたび寝台の上へと横たえる。


「かえる、みなみ、かえる」

 弱々しい泣き声を上げながら、テラ・スールは飽きることなく何度も繰り返した。


 俺はその白い頬を両手でしっかりと挟み込み、その青紫の瞳を見据えた。

 そして、幼子に言い聞かせるように、ゆっくりと語りかける。


 ――冬将軍の支配するこの森を行くことができる者など、どこにもいない。

 越境者にも密猟者にも。

 王の軍隊ですら、それはできない。


 それができるのは、ただひとり。「王国イレルダの森のガルディーン」だけ。

 「イレルダの門番ガルディーン」だけだと。


「……がる、でぃーん?」

 テラ・スールが、おずおずと口を開く。


「そうだ。できるのは『ガルディーン』だけだ」

 俺は繰り返す。


「ガルディーン……あなたのなまえ?」

 ゆっくりと瞬きをして、テラ・スールが、たどたどしく訊ねた。


「そう、俺は『ガルディーン』。イレルダの森の守護者ガルディーンだ。テラ・スール」


 そう言って、俺は金に波打つ髪へ、そっと指を滑らせた。

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