第2話 イリエガからの脱出

 石造りの城は、ひどい底冷えがする。


 寝台にも床にも。

 部屋のそこかしこに、厚い敷物と毛皮が敷き詰められていた。

 けれど、しみ通ってくる冷気を防ぎきることはできない。

 暖炉で燃えさかる炎も、故郷の暖かな陽差しには遠く及ばない。


 「氷国イリエガ」と。

 わたしたちは、この遠い国をそう呼んでいた。

 遙か北の果てにある国。

 空からこぼれ落ちた飛龍レイヴィルの涙が凍ってできた国だと、昔話に聞いていた。


 わたしを連れ去った蒼の王の瞳のように、この国の冬は冷たくつらい。

 心も身体も、軋んで悲鳴をあげ続けている。


 ――帰りたい。

 「故郷サリトリア」に帰りたい。


 海辺には暖かなさざ波が打ち寄せ、草原には獅子草の花の可憐な黄色。

 蔓草の綿毛が飛び、薔薇麦の葉が子守歌のようにざわめく。

 あの国に帰りたい。


 寒い、寒い、寒い。

 涙も凍ってしまう。


 あの人のやさしい声がなければ、このまま身体が氷の柱になってしまう。


 大好きなあなた。

 初夏の新芽の香りのする愛しい人。


 わたしは、あなたの妻になるはずだった。

 お父様だって、それを許してくれていたのに。


 この冷たい国に辿りつくまでに、慣れない馬車の旅で、わたしの身体は疲れ果ててしまった。

 道中に幾度も熱を出した。

 そのたびに、蒼の王は行軍を止めなければならなかった。


 氷国イリエガに着いたのは、夏の終わり。

 空は、今にも雪が降り出しそうな暗い灰色だった――


 イリエガに「秋」はないのだ。

 わたしの愛する故郷サリトリアと同じような、芳醇で明るく賑やかな秋は。


 短い夏の後、雪と共にやってくるのは、長い長い冬。


 ここに着いてからも、わたしは何度も床に臥した。

 死んでしまうかもしれないと、幾度も感じた。否、「むしろその方がいい」とすら思った。


 ――氷の海のような瞳をした「蒼の王」のものになるくらいなら。


 ある夜、熱にうなされていたわたしは、ふと、枕元に佇む人の気配を感じた。

 それは蒼の王だった。


 王は、わたしに触れようとした。

 「婚姻の儀」は雪解けの日と。そう定めたのは蒼の王自身だったのに。


 氷のように冷たい手で、熱に火照るわたしの身体を押さえつけた。

 同じように冷たいくちびるが、わたしの口に触れた。


 屈辱、嫌悪、恐怖。

 あらゆる負の感情が、涙と共に溢れだした。


 蒼の王の力は強く、その腕を振り解くことなど、とてもできなかった。

 冷たいくちびるが耳もとをかすめ、首筋を下りていく。

 寝衣の紐を手荒く解かれ、胸もとを露わにされた。


 ……いや、触れないで。わたしに触れないで。


 わたしは、泣きながら名を呼ぶ。

 愛しいあの人の名を。

 何度も何度も。


 蒼の王のくちびるが、わたしの身体からゆっくりと離れた。

 腕を肩を、押さえつけていた冷たい手が緩む。


 蒼の王がわたしを見つめていた。

 あの怖ろしい、冷酷な目で。


 この王は、サリトリアを力ずくで屈服させたのだ。

 眉一つ動かさぬまま、冷徹で非情な表情を、一切変えることもなく。


 蒼の王は、無言で部屋を出て行った。

 わたしは一晩中震え、泣いていた。


 そして翌朝、わたしは決めた。


 「あの人のもとへ帰る」と。

 春の国サリトリアへと。雪の森を抜けて。


 ――もう一度、故郷へ。


 蒼の王は、故郷サリトリアから召使いを連れてくることを許さなかった。

 ただのひとりもだ。


 ここ氷国までの長い旅の間も、その後も。

 わたしは、異国の言葉を話す者たちだけに囲まれていた。

 自分の言葉を解ってくれる人が誰ひとりいないなんて、あまりにも悲しすぎた。


 サリトリアの言葉を解する者は、王城にもわずかしかいなかった。

 しかも、ほとんどが蒼の王の重臣だ。


 蒼の王は、あらゆる国の言葉に通じていた。

 サリトリアの言葉も、まるで自分の母語であるかのように操る。


 一番憎い男が、わたしの言葉を一番理解する人間だなんて――

 わたしの心は、どんどん孤独に苛まれる。


 世話をしてくれる者たちに自分の気持ちを伝えるためにも、氷国イリエガの言葉を覚えた方が良いに違いない、それは分っている。


 でも厭だった。

 「ここ」は、わたしの国じゃない。

 「言葉を覚える」なんて、ずっとここに居続けることを受け入れるのと同じ。


 ――蒼の王の妻になることを、受け入れるのと同じこと。


 そんなのは厭。

 あの冷たい指に、もう二度と触れられたくはない。


 そして、その日が来た。

 ことを起こすべき日が。


 その日は朝から、わたしは召使いにひどい我儘を言った。

 そんなことを、今までしたことはなかった。

 驚きと恐怖で皆の顔色が変わる。


 幾度も幾度も違う飲み物を持ってこさせる。矢継ぎばやに、さまざまな用を言いつけ続けた。


 じきに、わたしの周りから、あらゆる種類の付き人たちが姿を消した。


 「今がその時だ」と、心の中で誰かが背中を押す。

 わたしは白い毛皮の縁取りがされた分厚い外套を纏った。


 腰帯に通した革袋に、貴石と金銀を詰める。


 迷路のように石の階段が巡らされた城から、一体、どうやって抜け出せたのか。

 今となっては自分でも良く解らない。


 けれど「これはきっとサリトリアの神々のご加護なのだ」と。

 わたしは、そのことを旅立ちの吉兆として受け止めた。


 でも――

 

 この氷国からの脱出は、わたしのおさなく拙い考えで成し遂げられるほど、たやすいことではなかったのだ。


 氷の女王と冬将軍の統べる冬のイリエガからは、どんな屈強な戦士でも抜け出すことが難しい。

 ましてや、小鳥のようなわたしが、いくら懸命に羽ばたいたところで、なんの役にも立たなかった。


 ――南へと。

 ただ、必死に歩みを進めるわたしの力は、じきに尽きた。


 氷国の南に果てしなく広がる森。

 そこに足を踏み入れてすぐ、わたしの足は止まった。


 雪の上に両手をついてうずくまる。

 立ち上がる力は、とうに無くなっていた。


 そして、目の前の真っ白な景色が、暗闇に吸い込まれていく。


 ――蒼の王の髪の色と同じ、漆黒の闇へと。



 □□□



 ひどく寒くて冷たい。

 ああ、わたしはまた、「あの石の城」に閉じ込められたのだ。


 そんな風に思いを巡らせる。

 「この氷の中からは、もう永遠に抜け出せないのだ」と、心が音を立てて軋む。


 次の瞬間、わたしは暖かな何かに包まれた。

 氷国ここにきて、一度も感じたことのない暖かさに。

 サリトリアの大地を渡る風のようなぬくもりが、わたしを包む。


 よかった。

 とうとう戻ってきたのだ、大好きな故郷に。


 暖かい、とても暖かい、わたしを包む何か。

 ほどけるように安堵し、歓びが胸に溢れた。

 そして、わたしは眠りの淵に沈む。

 深く深く。


 ――大きく木がはぜる音で、わたしは目覚めた。

 

 頬に触れるのは、ざらついた敷布。

 目に映るのは、鉄色の石の壁ではなく優しい木の色。


 わたしは、どこかの部屋の寝台の上にいた。


 ゆっくりと身体を起こす。

 炉では火が燃えている。部屋の中はとても暖かだった。

 

 何に使うのか見当も付かないが、様々な道具が、そこかしこに置かれている。

 しかし、家具といえば小さな卓と椅子があるくらいだった。

 

 その椅子に、自分の服と腰帯が掛かっているのを見てひどく驚いた。

 身につけているのは薄衣だけで、わたしは、まるで裸のような格好をしていた。

 寝台の上掛けで、慌てて自分の身体を覆う。


 すると扉が開いて、誰かが部屋へと入ってきた。


 灰色の髪をした大きな男だった。

 たくさんの薪を肩に載せている。


 氷国イリエガの男だ……。


 すぐに判った。

 イリエガの男は、大抵とても背が高いから。

 それにイリエガの民の多くは、灰色の髪をしていた。


 それにしても、この男はとりわけて大きな身体だった。


 ――この人が、わたしの服を脱がせたのかしら?


 そう考えた瞬間、背筋に冷たい物が走った。

 けれど身体に、何かひどいことをされたような感じはなかった。


 男は薪を床に下ろすと、ゆっくりと近づいてくる。

 そして寝台の端に腰を下ろし、わたしの顔を覗き込むと、何ごとかを訊ねた。


 ほんの少しだけなら、わたしにもこの国の言葉は分る。

 でも彼の言葉は、まるで聞き取れなかった。

 声がひどく低くて、くぐもっていたからだ。


 男はふたたび、何かを問いかける。

 答えを待つかのように、わたしの口もとを見つめながら。


「あなたの言っていることが、よく解らないの」


 故郷の言葉で、こう答えた。

 男は目を瞠ると、さらにわたしの顔を覗き込む。


「わたしのことを助けてくれたのね? ありがとう」


 「ありがとう」だけは、かろうじてこの国の言葉で口にした。

 男の表情が、ふわりと明るくなった。

 そして、わたしに「テラ・スール」と呼びかける。


 テラ・スール――


 それは、氷国イリエガの人たちが、わたしの国サリトリアを指す言葉。


 この人は、わたしが誰だか分っているのね。


 ――蒼の王が手に入れた「サリトリアの王女」だと。


 ああ、きっとこの人に連れ戻されるのだ、王城へと。

 あの冷たい石の城に、また。


 知らず溢れだした涙が頬を伝い、寝台へと零れ落ちる。


 男がひどく戸惑って、息を飲んだ。

 わたしへと伸ばしかけた手が、途中で止まっている。


 わたしは寝台から起き上がって、椅子の背にかけられた服と腰帯を手に取った。

 袖に腕を通し、背中の留め具をとめていく。

 ひとりではすべての留め具をかけてしまうことができないまま、帯を腰に巻いた。


 靴と外套はどこかしらと、視線をさまよわせる。

 男が近づいてきた。


 このまま駆け出して逃げそうにも、裸足に軽装のままでは、すぐに凍えてしまう。

 どうすることもできず、わたしは身体をこわばらせて立ちすくむ。


 けれど男は、わたしの背後に回り、髪をそっと掴んで胸もとへと動かした。


 予想もしない振舞いだった。

 わたしは目を丸くする。


 男は背中の留め具をとめ始めた。

 それを見ようと、わたしは精一杯、首を捻る。


 滑稽なほど慎重な手つきで、ひとつひとつ丁寧に、すべての留め具をかけ終えると、男はいきなりわたしを抱き上げた。


 あらがう間もないほど素早く、寝台の上に乗せられる。

 そして男は、わたしの裸の足に両手で触れた。


 暖かい掌だった。

 男はわたしの足を幾度か擦ってから、上掛けでしっかりと包み込む。

 そして背を向けると、炉に新たな薪をくべ、湯を沸かし始めた。

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