テラ・スールの守護者

水城

第1話 ガルディーンの冬


 ――俺は。


 この森の扉を守るためだけに存在していた。


 俺に名はない。

 「門番ガルディーン」と。ただ、そう呼ばれてきた。

 「王国イレルダの森の守護者ガルディーン」と。


 氷が森を白く覆い尽くす冬の日も、終わらない昼の続く夏の日も、イレルダの森の扉を守る。

 そのためだけに。


 王国イレルダではひととせの半分、冬が続く。


 深緑の細い針のような葉の上に降り積もる雪。

 重みに耐えかね、枝がしなり、木が白い重荷を振り落とす。

 森の中、ひときわ大きく響き渡ったその音に。

 俺はまどろみから引き戻された。


 小屋を出る。

 天をふり仰げば、冬空は灰色の雲に覆われていた。


 深く白い闇に沈む森へと、足を踏み出す。

 耳をそばだて、気持ちを研ぎ澄ました。

 侵入者が発するほんのわずかの物音も聞き逃さぬように。


 ――昔、この森にも俺以外の人間がいた。

 この冬空のように、燃え尽きた炭と同じ色の髪をした男が。


 俺はその男を「門番ガルディーン」と呼んでいた。


 彼が俺を作った。「ガルディーン」としての俺を。

 「門番」としてなすべき事を、男は俺に教えた。


 そしてある日。

 男の身体は雪と同じ冷たさになり、俺が「ガルディーン」となった――


 雪の上に点々と、小さな足跡が続いていた。

 今時分、森で見かける足跡は、たいてい、駄々っ子めいて冬の眠りを厭う小さな動物たちが跳ね回ったものだ。


 だが、これは違う。

 異国からの越境者?


 鼓動が少しだけ早まった。

 しかし、ありえない。

 凍てついた森の扉を開け、真冬に「ここ」に入ることができる「よそ者」などいるはずがない。


 では、王国イレルダの民が森に?


 否。ここは「王の森」。イレルダの神々が統べる森だ。

 みだりに足を踏み入れることなど許されないと、イレルダの者ならば誰もが知っている。


 俺は足跡を追う。

 静かに、そして素早く。

 

 足跡が途切れた。

 目の前に、何かが倒れいる。


 白い毛皮で縁取られた外套。

 そして、夏の陽差しと同じ色の長い髪が煌めいていた。

 それはまるで、雪の上に蜜酒ミードをこぼしたかのような光景だった。


 足先で、目の前のものを軽く蹴ってみる。

 「それ」は、ごく簡単に転がって向きを変えた。

 金の髪がうねり、顔が上を向く。


 ――目の前に倒れている「それ」を、俺は知っていた。


 ひとつ前の晩夏。

 「蒼の王」が、南での戦を終え、帰還した。

 

 もう今にも、森の扉が雪で閉ざされてしまうという頃のことだった。

 その時、王が「南」から連れ帰ったのが「テラ・スールの王女」だった。


 「南の地テラ・スール」――


 「その国サリトリア」を、王国イレルダの民は、そう呼んでいた。

 

 遥か南の彼方にあるその地は、けっして雪に閉ざされることがなく。

 ひととせに二度も、収穫祭を行うのだと聞いていた。


 「テラ・スール」を手に入れることこそ、歴代のイレルダの王の願いだった。

 だがそれは、これまで一度たりとも実現したことのない望み。


 だからいつしか。

 「テラ・スール」とは、「叶わぬ夢」を指す言葉になった――


 しかし、蒼の王は違った。

 王はついに手に入れたのだ。「南の地テラ・スール」を。

 イレルダの子供たちはもう、長い冬に腹を空かせ、寒空にうずくまることはない。


 あの夏、歓喜に酔いしれる王都の民の声が、この森の中にまで届かんばかりだった。


 勝ち戦に鐙を鳴らす王の騎士、王の兵が都を目指し、森を駆け抜けて行った。そんな中、精鋭の騎士達に護られた馬車に「王女」はいた。


 波うつ長い髪は蜂蜜色に輝き、同じ色の睫毛に縁取られた瞳は花の色をしていた。

 雪の間から小さな青紫の花びらをのぞかせ、長い冬の終わりを告げる花。

 それと同じ色を。


 王女の姿を見たのは、ほんの一瞬のことだった。


 だが、それを忘れることはできない。

 王女はまさに、この国が手に入れた「テラ・スール」そのもの。

 豊かな大地と終わらない春を持つ。

 あの国そのものだった。


 ――それが、今。

 この森で、俺の眼前で、雪に埋もれている。


 一体、どうしたらいいのか?

 皆目、見当もつかなかった。


 越境者なら弩弓おおゆみで狙い射ればいい。

 俺にとって、それは月熊を狩るよりもたやすいことだ。


 密猟者なら罠にかければいい。そのまま森に置き去りにすれば、「掃除屋」どもが綺麗に「片付けて」くれよう。

 奴らにとって、人肉は滅多にない佳肴となるのだから――


 身体を屈めて跪き、俺は倒れている「それ」に耳を近づける。


 生きていた。

 ごく微かだが息がある。


 しかし、このままここに置いておけば、じきに鼓動は止まり、身体は冷たく固くなっていくだろう。


 けれども、これは「王の持ち物」。

 決して手を触れてはならぬものだ。

 だが手を触れなければ、凍てついた雪の中から起こすこともできはしない。


「テラ・スール」


 俺は「それ」に呼びかける。

 手袋を外し、白い頬にそっと指で触れてみた。


 雪と同じくらいに冷たい。

 なぜだか、胸が締めつけられるように痛んだ。


 俺はテラ・スールを抱き上げ、その髪から頬から、雪の粉を払いのける。

 そして、小屋へと向かって歩き出した。



□□□



 薪を足し、火を燃え立たせる。

 もっと、激しく。もっと熱が要る。


 雪だらけの外套を引き剥がし、王女を寝台に横たえる。


 テラ・スールは不思議な光沢のある滑らかな布に、金糸銀糸の刺繍を施した服を纏っていた。

 こんな、夏の湖面のように輝く布を見るのは初めてだった。


 テラ・スールの小さな白い手に触れてみる。

 雪と同じ冷たさだった。

 頬も髪も首筋も。


 湯に浸した布を、テラ・スールの腕に首筋に押し当てた。

 そして掌で幾度も擦る。


 だが頬にもくちびるにも、一向に血の色は戻ってこない。

 鼓動は弱まり、小さくなっていく。


 暖めなくては……もっと。


 俺はテラ・スールの傍に横たわり、冷たく小さな身体を腕の中に収めた。まるで、氷の塊を抱きしめているようだった。


 テラ・スールの細い腰に巻きついている帯を解く。

 袖から腕を抜き、服を引き下げた。


 小さな肩が露わになる。


 テラ・スールを薄衣一枚にして、俺も服を脱ぎ捨てた。


 強く抱きしめ足を絡め、何度も身体中をさすり、自分の熱をテラ・スールへと注ぎ込む。


 僅かずつ、テラ・スールの頬に赤みが戻ってくる。

 それとともに、その膚から不思議な甘やかな何かが匂い立った。


 テラ・スールのうなじに頬を寄せ、その香りを確かめようと鼻を擦りつける。


 首筋から胸元から。

 テラ・スールの身体のあらゆる場所から、その甘い香りが立ち上ってきた。

 俺の背筋を寒気とは違った、ざわつく何かが走り抜ける。


 かすかに赤味がさしてきたテラ・スールのくちびるを、そっと親指で触れた。


 目の前に一条の白い光が走る。

 次の瞬間、俺はテラ・スールのくちびるに自分のくちびるを重ねていた。


 やわらかく湿ったそれを甘噛みし、舌で嬲る。

 かすかな呻き声がテラ・スールの口から洩れ、俺は慌ててくちびるを離した。


 一体、俺は何を……。


 それはつい、今しがたのこと。

 けれど、まるで頭に霧が掛かったかのように、ぼんやりと遠い出来事に思えた。


 テラ・スールからそっと離れ、服を身に着ける。

 弱まった炉の火をかき熾し、薪を足した。


 ふたたび力を増していく炎を眺めやってから、俺はテラ・スールの服を手に取ると、それを椅子の背に掛けた。

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