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 自然と目が覚めた。辺りを見渡すとほとんどの座席は埋まっていた。スマホを取り出して時間を見ればいつの間にか九時になっていた。大体一時間はこのバスに乗っていることになる。思ったより長い。

 俺は大きく伸びをする。秋は景色から視線を外し、俺を見つめる。

「おはよ。あと二十分くらいで着くよ」

 秋はそう言って欠伸をした。朝が早かったからきっと秋も眠たいはずだろう。

「寝たら? 起こすよ」

「いや大丈夫。たまに仮眠してたから」

 秋は手をひらひらさせて言った。それならばいいんだけど。

「どこで降りるの?」

 俺が聞くと秋は「永愁神宮前ってとこ」と呟く。俺は頷いた。

「そこに着いたら起こすから寝てていいよ」

 俺でも知っている神社だ。たまにテレビとかで取り上げられるくらいには知られている。多分この県の中で一番有名な神社だろう。祀られている神様とかは知らないけれど、確か勉学とか仕事運とかのご利益があったはずだ。俺がそう言うと秋は安心したように目を閉じた。俺が寝なかったらもっと寝させられてんだけどな、なんて過ぎたことを考える。今できることと言えば、少しでもいい夢が見られるように願うことくらいか。

 俺はスマホを取り出して、永愁神宮について調べておく。画面をスクロールして地図を調べる。神宮周辺には商店街があるらしい。食べ物屋から雑貨屋まで幅広いジャンルの店があって楽しめそうだ。商店街の町並みはどちらかと言えば江戸のような町並みをしている。神宮の事を調べているとあっという間に時間が過ぎていった。

 秋を起こして、バスの殆どの乗客とともにバスを降りる。バスから降りるとざくりと地面を踏む音が鳴った。地面をふと見るとよく神社とかで見る小石が敷き詰められていた。どうやらもう神社の境内に入っているらしい。まだ小学生の頃にはこの敷き詰められた小石は神聖な雰囲気をより醸し出そうとする人の面白い遊び心だと思っていたが、中学生の頃に神社の清浄を保つという理由があるのを知って驚いたものだ。秋が楽しそうに何度か地面の小石を踏みつけたあと、未だ眠気の残る声で言った。

「ささ、お参りしますよー」

 秋が一歩踏み出す。俺は隣に静かに付いていく。秋が俺を見て「にへへ」と笑う。

「この神社は勉学、仕事運を司る神様が祀られてるんだって。だから来年からの運を今のうちに願っとこっかなって思って」

 秋はひらりと歌うかのように言葉を紡ぐ。

「それに煤払いっていう行事のときにはテレビが入ってここらへんの地域に映像が流れるんだって。私達のところにもたまに流れてるらしいんだけど、私は見たことない」

 秋は手を動かしながら話す。

「俺は見たことあると思う。って言っても数回だけどさ」

「そうなの? じゃあ、有名なのかな」

 頭を掻きながら秋が言う。

「てか煤払いって何?」

 俺は疑問を零す。秋がちいさく「今から話そうと思ってたのに」とぼやいた。

「えーっと煤払いって言うのは簡単にいうと神社のお堂の中とかを掃除すること。箒とかはたきで綺麗にするんだって。ほら、昔ってまだ囲炉裏とか使ってたじゃん?だからめっちゃ汚かったんだって。だから毎年十三日に煤払いをして新年を綺麗な状態で迎えましょう、みたいな感じだと思う」

「へぇ……」

 秋がここまで詳しく知っているなんて思わなかった。いつもは勢いで乗り切ろうとしていたから、尚更。

「なに? その反応」

 秋がジト目で俺を見る。

「いや、何も。秋にしてはちゃんと知ってるんだなって思っただけ」

「馬鹿にしてる?」

 馬鹿にはしてない。ただ、子供っぽいとは思ってる。俺は心の中に湧き出た言葉を押し込めて、薄っぺらい言葉を舌に乗せた。

「どうだろうね?」

 俺の態度が嫌だったのか、秋が俺の肩を軽く叩いた。ざくりざくりと雪を踏みしめるような音を立てながら境内を進む。名前の知らない大きな木に触れ、なんとなく自然の力を分けてもらったような気になる。

「でかいね。檜? 楠? どっちだろう?」

 秋が俺に聞いてくる。残念ながら俺は木のことなんて勉強していないので何もわからない。だから適当に「檜じゃね?」と返すしかなかった。

「えーどうだろ」

 秋はそう言って葉を見上げる。

「んー楠かな」

 俺には全部おなじに見えるけど、秋はどうやら正解を導き出したらしい。

「そっか」

「多分ね」

 どこからそんな情報を知るんだか。俺は心の中で尊敬のような半分呆れたような感情を持って、木から離れる。

 大きな鳥居をくぐって、賽銭箱の列に並ぶ。俺は財布を取り出して小銭を漁る。毎回悩むのだが、果たして何円が良いんだろうか。なんとなく御縁がありますようにの語呂に合わせて五円玉を収めているけど、正解はあるんだろうか。俺は考えながら五円玉を取り出す。隣で秋は千円札を取り出していた。

「まじで?」

 俺は思わず秋に声を掛ける。が、秋の中では決定事項のようで真っ直ぐな瞳で俺を見つめてくる。

「まじです」

 そこまで真面目に言われると流石に茶化せない。俺は曖昧な笑みを返して、前を向く。てっきり秋のことだから五円玉を取り出して「響きが良いから」とか言うと思ってたのに、どこか裏切られた気分だ。しょうもないことを考えているといつの間にか俺の順番になっていた。

 なんとなく二礼二拍手一礼をしてお金を投げる。

 何を願おうか。勉強とかだったらやっぱり受験だろうか。えーっと……受験が成功しますように。お願いします、神様。

 俺は願ったあと、そそくさと列の先頭から抜ける。列の横で秋が出てくるのを待つ。思ったよりも秋が出てくるのが遅く、俺は空を眺める。雲の少ない、青空が視界を埋め尽くす。

「ごめん、待たせて」

 秋が胸の前で手を合わせながらやってきた。

「いや、大丈夫。やけに長かったな」

 俺が言うと、秋は「あはは」と乾いた笑みを零したあと「今までの感謝とこれからのこともよろしくって言ってきたから」と笑いながら言った。

「神様も驚いてるだろうよ。急に初対面の人間から十七年分の感謝伝えられたら」

 俺は半ば呆れながら言う。

「そうかな? 感謝されたら嬉しいと思うよ?」

「いや、それより驚きが勝つだろうよ」

 俺はため息をつく。そしているかどうかわからない神様に秋のかわりに謝罪をしておく。すいません、急に。軽口を叩き合いながら鳥居をまたぐ。なんとなく出る時にお辞儀をすると、秋は「真面目だね」と笑った。

「いるかいないかわかんないけど、居てくれたほうが嬉しいからさ。なんとなくやっといた」

「そっか」

 秋はそう呟いた後、同じようにお辞儀をした。そもそも俺も秋も入る時にお辞儀をしていないからあんまり良いとは言えないけど。

 俺と秋は並んで、すぐ側の商店街に向かう。大晦日だからか横丁は人で溢れかえっていた。前に進むのがやっとで店にまで意識が割けないくらいに人が居た。

「人酔いしそう」

 秋が呟く。今まで人酔いなんて感じたことなかったけど、今日初めて感覚がわかるかもしれない。一生分かりたくなかったけど。隣で秋はしかめっ面のまま前を向いている。秋のためにも早く安心できる場所を探した方がいいだろう。俺は秋の手を握り、軽く引っ張って人の少ない店に入る。適当に入ったからどんな店かなんて分からなかったけど、どうやら組紐屋らしい。

「おお、綺麗」

 秋は商品を手に取って呟く。手に持っているのは青緑と紫、白が織り混ざったブレスレットだ。どうやらお気に召したらしい。

「ちょっと見てくか」

 俺がそう言うと秋は笑顔で嬉しそうに「うん!」と頷いた。

 店内は落ち着いた雰囲気で、組紐が綺麗に並べられている。ブレスレットやネックレス、髪留め、鈴の付いたチャームなど色々なアクセサリーが売っていた。どれも普段遣いできるデザインなのがありがたい。ふらりと店の中を歩く。組紐を作る体験もできるらしいけど、どうやら予約制らしい。

 俺は秋に近づいて聞く。

「どう? なんか良いものあった?」

 秋はキラキラとした目で言う。

「全部可愛いんだけど」

 そういう秋の声はいつもよりも上ずっていた。よほど興奮しているらしい。秋は何度も商品を手にして見とれている。時折「かわいい」とか「色綺麗」とかつぶやく声が聞こえた。

 結局、店には三十分近く滞在したにも関わらず何も買わないらしかった。それはなんだかもったいない気がして、俺は秋にバレないように秋が始め手にしたブレスレットを買った。誕生日プレゼントとして渡せばいいだろう。

 秋はすっかり回復したようで「早く行こ!」と楽しそうに声を上げた。俺はまた秋の隣に並んで、横丁に出ていった。時間は十一時三十分くらいだ。

「どうする? 少し早い時間にお昼食べる?」

 秋が俺の顔を覗き込みながら言った。

「あーそうするか」

 十二時だとどの店も入れない可能性がある。それだったら少しでも早く腹ごしらえを済ましておくべきだろう。

「よし、じゃあちょっと見繕いますか」

 秋はそう言って辺りを見渡す。景観を守るためなのか、達筆な文字の看板が並ぶ。ぶっちゃけ見にくい。俺は目を凝らしながら看板を見ていく。茶色い看板の中にひとつ、目に留まる。

「あ、うどん」

 秋も同じ看板が目に入ったようで、ほろりと言葉を零した。看板には「うどん処 宗玄」とやはり達筆な字で書かれていた。

 秋は目を輝かせて言う。

「うどん食べよ!」

 秋は俺の返答を聞かずに、手首を掴んで引っ張る。俺は流れに任せて体を動かす。

 店の中に入ると、まだお昼時ではないのに半分くらい席が埋まっていた。もう少し遅かったらどうなっていたことか。俺達は二人席に座ってメニューを見る。きつねうどんや素うどんなどのメニューが並んでいる。……素うどんってなんだ?聞いたことあるけど何気に食べた事無い気がする。

 お冷が置かれたのがスタートの合図だったかのように秋が話始める。

「私は天ぷらうどんにしよっかな。たまの贅沢で。朔は素うどんでいい?」

「素うどんってなに?」

 俺が聞くと秋は驚いたように中途半端に口を開けて固まった。え? なに? 怖いんだけど。

「私達の地方ではかけうどんって言われてるんですけれど」

 そんなこと知らないわ。

「あ、じゃあそれで」

 なんかしょうもないところでここが俺達の住んでいる土地とは違うことを認識される。景色以外にも言葉にも。秋は手を上げて店員を呼んで、詰まることなく注文する。

「天ぷらうどん一つと素うどん一つ。両方並みで」

 その一瞬、俺は手持ち無沙汰になり、お冷で喉を潤す。秋は注文が終わると、俺と同じようにお冷に手を伸ばした。一口流しこんで「うん、おいしい」と呟く。俺には水の良し悪しなんてわからないけどきっと美味しいんだろう。一回不味い水というものも飲んでみたいものだ。

「まずい水飲んだことあるの?」

 なんとなく、聞いてみた。すると秋は当たり前かのように頷いた。

「うん。なんかね変だった。味が変だった」

「水に味なんて無いだろ」

「飲んだらわかる。いつも飲んでる水とぜんぜん違うから」

 そこまで言われると逆に飲みたくなってきた。雑談に花を咲かせていると、店員がうどんを持ってきた。秋は机に備え付けられていた割り箸を取る。俺はその間にうどんを受け取って机に置いておく。

「ありがと」

「こちらこそ」

 俺は秋から割り箸を受け取って割り箸を割る。綺麗に割れたのを確認してうどんを見た。だしの色はかけうどんよりも若干薄いだろうか。それ以外は特に変わらない。うどんにだしがかかっていて、かまぼことねぎと天かすが入っている。うどん本来の味を最大限活かそうとしているような淡白さだ。

 一口、出汁を飲む。やっぱり味が違う気がする。さっぱりとした、しつこくない味わい。いつも食べているかけうどんよりも味が優しい気がする。昆布の風味がするから昆布が使われているのだろう。秋がさくりと音を立てて海老天を食べている。秋のうどんの上には海老天の他にも芋天やちくわ天が乗っていた。

 俺の視線に気がついたのか秋は言った。

「たまに贅沢は必要だって」

「お前の場合はたまにの贅沢がやけに多い気がする」

「気のせいじゃない? さっさと食べたら」

 秋は話を切り上げてうどんを食べる。俺は秋のことを軽く睨んでからうどんをすする。うどんは有名というだけあってもちもちとした食感で美味しかった。

 大体二十分ほどかけて、ゆっくりと味わい、平らげた。

「満足満足」

 秋が机に備え付けられていた紙ナプキンで口元を拭きながら幸せそうに言った。

「幸せそうでなにより」

 俺が言うと、秋は紙ナプキンを綺麗に折りながら言った。

「そりゃね。美味しいものは幸せになれるから」

「わかる」

 しょうもない会話をしながらお冷を消費する。

「で、これからどうするの?」

 俺は聞く。帰りの電車のこともあるし、できる限りこれからの予定を詰めていきたいものだ。秋は小さく唸ってから口を開く。

「いやー言ってもさ、もう行くところ無いんだよね。あとは海くらい? 海行ってあの夏を取り戻しに行く?」

 秋は茶化すように言う。確かにホテルの近くには海があった。だからここからホテルまでだと大四十分。そこから海まで歩いてゆっくり行っても五分だろうか。海でゆっくりして、そこから駅またバスに乗って駅まで行って終了、という感じになるだろうか。

「でも、流石にそれじゃ味気ないよね」

「あーじゃあ、秋の好きなところに行くとかは? 例えばカフェとかでコーヒー飲むとかさ。で、時間あったら海に行けばいい」

 俺がそう言うと秋は笑顔で「コーヒー飲みたい!」と言った。どうやら決まったようだ。カフェに行って、秋と二度目の海に行くことが。お冷を飲み干し、会計をする。当たり前かのように秋がお金を出したのでちょっと肩身が狭くなってきた。

 俺達は並んでバス停に向かう。

「さっきのお金、返すよ」

 俺がどれだけ言っても、秋は

「大丈夫だって。朔が出世払いしてくれたらいいって」

 と笑い飛ばすだけだった。こちらとしては全然笑えないんだけど、秋はなかなか意見を曲げてくれない。結局いつも俺が折れることになるんだ。

 バスに乗ってホテルの近くまで向かう。潮の香りの満ちた町で、冬だと言うのに何故か暖かいように感じられた。

「この近くにある海が暖流だから暖かいんだって」

 秋がそう呟く。

 俺達はスマホで調べながらカフェに向かった。カフェは洋風で、海の近くだからか爽やかな外観だった。そこで秋はマンデリンというコーヒーを飲んで、俺はちまちまとココアを楽しんだ。秋から一口コーヒーを貰ったが、俺の記憶よりも何倍も苦いもので思わず顔をしかめてしまった。そんな様子を見て、秋は楽しそうに笑っていた。聞いた話によるとマンデリンは酸味が少なく苦い部類に入るコーヒーらしい。

 俺達はぐたぐたと話しながら時間を潰す。話の途中でさっき買った組紐のブレスレットを渡した。すると、秋は嬉しそうに「ありがとー」と言った。

 実りのない会話をしているといつの間にか太陽が傾き始めていた。時間を見れば三時三十八分だった。冬はどうにも日が落ちるのが早い。何回か追加注文をしたので今回はそこそこ値段はしたが、今回は俺が払った。もうほとんど意地みたいなものだ。それから俺達はゆっくりと海に向かった。神社に居たときはは冗談で行く気はなかったけどカフェでゆっくりしていると、旅行の終わりが見えてきてしまって、悲しくなったのだ。だから、最後の思い出として、海を行くことを選んだ。潮の香りが頬を撫で、肌に薄い塩の膜が張る。髪は少しベタつき始めて不快感がやってくる。海に住むと景色以外いいことは無さそうだ、なんて考えながら堤防から海を見た。

 堤防の下には夕焼け色に染まった浜辺があって、浜辺釣りを楽しんでいる人が数人居た。水面はキラキラと太陽の光を反射して世界を明るくさせる。視界の下では汀線に沿って白い泡が描かれていた。秋は砂浜に向かって歩き出した。その歩みはふらふらとしていて、まるで海に魅せられたようだった。

「秋」

 俺は思わず声を出してしまう。秋が髪をたなびかせながら振り向いた。背後の景色と相まってとても綺麗で、見蕩れてしまうそうだった。

「ねえ、朔」

 秋が波音に溶かすように言う。

「どうした」

 なんとなく、嫌な空気がした。

「ごめんね」

 謝罪だった。

 秋はなぜか俺に謝った。理由はわからない。できれば知りたくない。だってそれは明らかに悲しげな謝罪で、あまり前向きなこととは思えなかった。

「……どうした」

 俺はさっきと同じ言葉を返した。それしか、出来なかった。秋は感情の読めない目で言った。

「旅行連れてきてごめん」

 何を言ってるんだろうか。声、姿、仕草、すべて俺の知っている秋のはずなのに、どこか違和感があった。

「なんで謝るんだよ」

 詰まりそうな声で俺は言った。秋はキョトンとした顔になって、スラスラと言葉を紡ぐ。

「だって、嫌だったでしょ? 強制的に連れてこられて。

 だって楽しくなかったでしょ? 幼馴染に振り回されて」

 秋はそう機械的に言った。いや、機械的と言うよりもそれが用意された言葉のように言った。

「嫌じゃなかった」

 俺が心の底から言った言葉は秋に届くだろうか。そんな疑問を持ちながら秋に言葉をかける。

「嫌じゃなかったよ。楽しかったよ。だって秋が居たから。秋に振り回されたから」

「本当に?」

 秋は俺に問う。

「本当に」

 俺は力強くうなずく。秋はそんな俺を見る。一度視線を外し、おもむろに財布を取り出して、中から未満切符を取り出した。そしてそれを破いた。

「何……してんだよ」

 小波にかき消されそうなほど小さな声が漏れた。秋は震えるように、なにかに取り憑かれたように首を振った。

「朔、私は楽しくなかったんだよ。嫌だったんだよ。私に連れてこられて、振り回されて」

 秋は髪を掻きむしりながら言った。

「わたしは私のことが嫌いなんだよ。わたしは、ああやって誰かを巻き込んで騒ぐのが嫌だった。嫌いだった。担任の先生にいたずらすることも、友達の後をつけることも、幼馴染の意見を聞かずに行動するところも」

 なぜ目の前の人は秋をそこまで否定するんだろうか。

「なんで、そこまで」

「私は消えたかった。誰にも迷惑をかけたくなかった。

 そしてわたしは私から逃げたかった。私という亡者から」

 少女は否定し続ける。俺の幼馴染のことを。波音の中、少女は呟いた。

「ねえ、私らしいって何?

 わたしってなに?」

 きっと今、秋の、少女の頭の中には波の音以外にも自分の事を否定し続ける声が、うるさいほどしているんだろう。他の人間なら、その否定を受け入れたり武器にしたりするものを秋は、少女は受け入れられなかったんだ。枷になっていたんだ。秋らしいことなんていくらでも言える。でも、今の俺にはそれを言える資格が無いような気がして、ただ無言で見つめるだけだった。

「朔にわからないならわたしがわかるわけないよね」

 そう言って、少女は俺の横を通り過ぎていった。

「どこ行くんだよ」

「知り合いのところ」

 昨日言っていたネットの人だろうか。

「家には帰らないのか」

「もちろん。もう、戻らない」

「なんで?」

「そこに私がいるから」

「……学校は、どうするんだよ」

「やめる。そこにわたしの居場所はないから」

 俺はなにも言えなくてただ黙った。少女の足音は少しずつ遠くなっていく。頭の中を秋の笑顔が、秋の楽しそうな声が飽和する。

「ごめん。朔は優しいから」

 少女は最期にそう言って俺から去っていった。そこに俺の知っている秋の姿はなくて。

「君は、悪くないから」

 俺がそう小さく呟いた言葉は彼女に届いただろうか。届かなくてもいい気がした。

 悪いのは俺だ。

 俺が秋を、幼馴染を殺したんだ。

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