第三部「when white dies」
3-1
耳障りな電子音がなる。少しして、秋の眠そうな声が部屋に響く。そして「さ……く起きて」と、眠そうな声が聞こえた。
俺はまるで水泳の後のように大きく息を吸った。
まだ辺りは暗かった。太陽がまだ上がっていない。気温もいつもよりも何段階か下がっているように感じられた。秋がベッドサイドランプをつけると、それはまるで蝋燭のように部屋を照らす。俺はぐっと腕に力を入れて上半身を起こした。急に動いたからかパキパキと骨が鳴った。秋は隣でぐっと、腕を伸ばしていた。
「……おはよ」
俺は秋に向かって言い、欠伸をする。秋は寝起きだと言うのにハキハキとした声で「おはよ」と、言った。元気だ。
秋はベッドから降りて、和室の方まで歩いていく。何度か物に当たりながら、畳の上を歩き、壁にはめ込まれている窓を全開にした。冷たい凛とした風が秋の髪を揺らす。ライトでぼんやりと照らされた秋はまるで浮世絵に描かれている人のように思えた。
「気持ちい」
小さく秋が呟く。少しずつ冷たい風が部屋を満たしていく。十分ほどそうしていただろうか。秋は窓を閉め、スタスタとベッドまで歩いてきて、笑顔で言った。
「温泉、行こ」
「やってるの?今の時間に?」
俺が聞くと秋はうなずいた。だったら行ったほうがいいだろう。なにせこの県の温泉は有名だ。一回くらい体験しておきたい。
「ここ、二十四時間風呂開いてるからさ、どうせなら朝焼けでも見よっかなって。最後にそれくらいはしてみたいじゃん?」
ああ、そうか。今日で今年が終わるのか。秋の最後の一言で、今更俺は思い出した。
「二〇二二年の最後の綺麗な朝焼け見ますかね」
俺はそう言ってベットから降りる。
「あ、あーそうそう……」
秋は感情の読めない、淡々とした声を出す。秋がなぜか一人で考え込む。なにかあったのだろうか。
「どうした?」
俺は秋に向かって手を振る。すると秋は思い出したように、笑顔になって振り返してきた。朝だからだろうか。秋が時々秋じゃないように感じられたのは。さっき、呟いたのがまるで別人のように思えたのは、何だったんだろうか。それか、ただ単に俺の考え過ぎか。昨日の寝言を未だに引きずっているのかもしれない。所詮、現実には関係の無いものだ。
俺は頭を振って思考を断ち切る。頭の中に水銀が入っているかのように、じわじわと痛みが心臓の鼓動と呼応する。
俺は着替えとホテルで支給されるタオルを袋に入れて、ホテルの中専用のスリッパを履いて外に出る。
外に出ると人工的な光が目を攻撃してくる。そして頭の中の毒を消毒してくれる。最期の抵抗のようにずきりと痛くなったあと、毒は消えた。秋が違和感のあるリズムでぱたぱたとスリッパを鳴らしながらご機嫌に歩く。
エレベーターに乗って、一階まで降り、ロビーを横切って温泉へ向かう。温泉の目の前にある自販機の前で立ち止まり、秋は言った。
「じゃあ、一時間後にこの場所集合。露天風呂で朝焼けを堪能してきてください。以上」
秋は言い切ると、急ぎ足で暖簾をくぐって行った。よほど温泉が楽しみだったらしい。俺は欠伸をしながら男と書かれた暖簾をくぐる。暖簾の先には温泉独特の匂いが充満していた。俺は肺を慣らすように、大きく深呼吸をする。
脱衣所には人影はなく、浴場からも人のいる音は聞こえないので貸し切り状態のようだ。とりあえず服を脱いで浴場に足を踏み入れる。
入り口の右横にはかけ湯をするための小さなお風呂のようなものが置いてあり、左側には十人ほどが一気に入れるくらいの洗い場が設置されていた。
俺はかけ湯をして、辺りを見渡す。一つ大きなお風呂が奥に設置されていて、その横には水風呂があった。俺は迷わず湯に浸かる。声も出せない。それほど安心しきっていたと言うことでもあるんだろうけど、ただただ気持ちいい、ということだけが頭に染みこむ。頭の中が徐々に溶けていくかのような感覚だった。思考が融けて、空気と頭の中で混ざって、今の感情が言語化できない様になってしまった。
「はー幸せ」
結局絞り出せたのは、普遍的な言葉だけだった。俺は目をつぶって、体の力を抜く。そのまま溶けていけるように。
水風呂があるんだったら、サウナもあるんだろうか。俺はくるりと見渡す。すると丁度水風呂の隣にサウナがあった。その横には外に続く扉が。きっと露天風呂に続いているのだろう。
露天風呂は後に取っておく。ただサウナに入ってみたかった。何気に、生まれてからサウナに入った覚えがなかったから。ただ、なんとなく一回隣の水風呂に足をつける。
「つっめた」
まるで氷か雪解け水だ。俺は早々に切り上げて、サウナに入る。もちろん、体の水分はできる限り落として。腰に巻いたタオルを落ちないように手で抑えながら、熱に身を投じる。むわっとした熱の籠もった空気が全身を舐め回すように纏わりつく。そして次に来たのは俺の予想していなかったものだった。
「一人だなんて珍しい」
髭を生やした男が居た。年齢は三十代だろうか。髭の生えた口から発せられた低い声は、優しさと驚きを伴っていた。髪は男にしては長めの方で後ろ髪が肩にかかるくらいで、前髪は汗でべたりと額に張り付いている。
「あ……えっと」
俺は突然のことで言葉に詰まった。だって人が居ないと思っていたから。男はそんな俺のことをじっと見ながら、手で熱風を顔に送りながら言った。
「まあ、気にすんな。座って話そうぜ」
男がそう言って、隣を指す。流石に年上には逆らえなかったというか、声の低さや髪型も相まって敵役のように思えてしまって、俺は大人しく隣に座った。
「兄ちゃん、一人かい?それとも誰かと来たのか?」
男は汗を流しながら聞いてきた。俺はそれに正直に答える。いつもなら答えないだろうけど、サウナの熱に侵されてか、自然と口が動いた。相手もそうなのかもしれない。
「幼馴染と」
俺が答えると男は興味深そうに声を漏らした。
「おーいいじゃねーか。青春だな」
男はそう言ってあはは、と笑った。
「俺は一人で来たんだよ。だからなそういうのが羨ましいんだよ。大人になったらそんなこと出来なくなるからな。まあ、大切にしろよ、この時間と可愛い幼馴染をな」
きっと男も熱に侵されているのだろう。サウナの熱で頭が狂ってしまったのかもしれない。タオルに小さな染みをいくつも作りながら男は一人で話を進める。
「いつの間にか大人になって人が恋しくなっちまったんだよ」
「独り身なんですか」
「独り身じゃなかったらこんな身なりしてないな」
そう言って男は笑った。
「似合ってますよ」
俺は男を見て言った。嘘ではない。言葉の節々から感じる荒々しさと風貌がいい感じにマッチしてとても似合っている。ただ、男にはその思いは届かなかったようで、「あんがとよ」と笑いながら返されるだけだった。
「幼馴染とは仲いいのか?」
男が前髪をかきあげながら言った。
「どうでしょうか? まあ、仲悪くはないと思いますよ。可もなく、不可もなくといった感じですかね」
俺は天井を見上げて言う。もうそろそろ頭がぼんやりとしてきた。少し喉も乾いてきた気もする。水分摂っておけばよかった。
「じゃなかったら旅行なんて来ないか。当たり前か」
男は当たり前のことに気がついて笑った。男は急に立ち上がって、俺に向かって言った。
「もうそろそろ日が昇るぜ」
と、渋い優しい声で。
サウナから出る。一瞬、涼しいと思ってしまうくらいにはサウナに入り浸っていたようだ。露天風呂に続く扉を開けると、冷たい外気が肌に触れる。下手をすれば風邪を引いてしまいそうだ。
まだ、日が昇っていないからか異様に寒く感じる。もしかしたらサウナに入っていたからかもしれない。吐いた息がうっすらと白を帯びる。
湯に浸かるとあまりの気持ちよさに息が漏れる。まるで体の中にお湯が入ってくるかのような温もりがやってくる。俺の隣で男は心の底から気持ちよさそうに声を出した。
日が昇る。徐々に空が明るくなり、水面の端が白く染まる。空の色も白から朱に薄くグラデーションになっていく。ゆっくりと時間をかけて日が空を色づかせる。
「綺麗だな」
男が冷たい空気に声を溶かすように言った。
「……ですね」
思わず俺もそう言った。水面にまるで道のように伸びる太陽の陽が、凛とした空気の中に咲く火の玉がとても綺麗だったから。
きっと秋も見ているだろう。空が見知った色になった頃、男は俺の方に向き直って言う。
「兄ちゃん、ありがとよ。付き合ってくれて」
男は俺に向かってひらりと手を上げた。
「いえいえ。こちらもお話聞けて楽しかったですよ」
俺が心の中からそう言うと、男はまたお世辞だと思ったのか「兄ちゃんは優しいな」と、笑いながら言った。それからぽつぽつと二人で話した。どこから来たのかとか、大人の素晴らしさと子供の素晴らしさだとか、未満切符についてだとか。未満切符のことを話すと男は「俺もそれ使いたかった」と嘆いていた。
それから少しして、男は露天風呂から上がっていった。日の出が目的だったのだろう。俺はまだ集合時間まで時間があったので残る事にした。露天風呂にお湯を注ぐ音と俺の心音だけがあった。
湯気がたち、空に消えていく。それを俺はぼーっと眺めていた。まるで頭の中に水が侵入してきたかのような、ぼんやりとした感覚になり始めたので流石に出た。
頭と体を洗う。いつもと違うシャンプーとボディソープを堪能しながら、俺は大きく息を吐いた。最後に体の汗を落とすように水風呂に入る。
「あーっつっめた」
今度こそ一人になった温泉で大きな声を出した。
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