2-3

 秋の声で、目が覚めた。初めに目に入ったのは、見慣れない天井で、その次に髪がしっとりと濡れている秋の姿。イグサの香りに紛れるようにして、シャンプーの甘い香りがした。

「お、ふ、ろ。入ってから寝たら?」

 秋が首をかしげながら言う。

「あ……ん」

 ぼんやりとした頭で頷き、着替えを持って風呂場に行く。風呂場は秋の言った通り広かった。平均的な男子高校生が足を伸ばせるくらい、湯船が広かった。

 自然とため息が漏れた。疲れの溜まったため息は、ゆっくりとじんわりと、空間に馴染んでいく。

「あー気持ちぃ……」

 幸せな時間を三十分ほど楽しんだあと、俺はお風呂から出た。疲れが取れて、程よい眠気が体を包んでいる。俺は家から持ってきた寝間着を身に纏う。

 部屋に戻ると、秋が和室の机にお菓子とジュースを並べていた。

「浴衣?」

 今更気がついた。秋はホテルで貸し出している浴衣を着ていた。色はシンプルな白で、帯は薄い水色だ。

「いや、おっそ」

 秋が驚いた様子で突っ込んだ。いや、こればかりは寝起きだったので仕方ないんです。見逃してください。

 秋はすっと立ち上がり、笑う。

「どうだ?可愛いだろ?ん?」

 秋が見せびらかすようにくるりと回る。俺はとりあえず軽く手をたたきながら、適当にあしらう。

「あーはいはい。可愛いよー」

 すると秋はムッとした表情となって呟く。

「ほんとに君は健全な高校生かい? もっと面白い反応待ってたんだけど?」

 んなこと知るか。てか勝手に期待されても困る。俺はそんな事を思いながら、机の上に並べられているお菓子を指差す。

「これ何?」

「お菓子ー。下のコンビニで買ってきた!」

 嬉しそうに秋は言う。俺はちらりと時計を見る。時刻は8時半。

「この時間に食べたら太るぞ」

「ダイジョーブ。私、太らない体質だから」

 秋はそう言い訳をして、ポテチの袋を開ける。小気味のいい音が部屋に響いた。

「あ、のりしおだからね」

 秋がどうでもいい情報を伝えてくる。ちなみに俺はそこまで味に頓着しない。だって、全部美味しいんだから。秋がパクリとポテチを食べる。ジャンキーな音を奏でながら、秋は何枚も食べ進める。

「……いる?」

 秋が袋の口を見せながら俺に聞いてきた。袋の中には桃源郷があったと言っても過言ではない。

「いります。食べさせてください」

 しょうもない茶番を挟み、俺はポテチを一枚頬張る。罪悪感からくるものなのか、いつも以上に美味かった。多分今までで一番美味い。

「ほいほい、旦那。コーラもありますぜ」

 ドラマの悪役のような口調で秋は紙コップに入ったコーラを俺に向けて差し出す。

「君は悪者だ」

 本当にこいつは悪だ。俺を太らせようとでもしてんのかよ。俺はポテチを食べてコーラで流し込む。炭酸が喉を駆け巡り、より一層ポテチの良さを引き出しているような気がする。秋も同じようにポテチを食べていた。その顔はとても幸せそうだった。

「なあ」

 俺は紙コップを机の上に置いて、秋に声を掛ける。

「ん?」

 秋は口の中にポテチを放り込んだ。

「この旅行の目的とか理由ってあるの?」

 ずっと俺の頭の片隅に残っていたものだ。秋は困ったように笑いながら言う。

「そうだなー。ま、ポテチを食べたりして……」

「ごまかすな」

 俺が指摘すると、秋はますます困ったように笑みを深める。

「え? ……ま、そんなもんどうでもいいじゃん? 楽しめればいいじゃん!」

 秋は勢いよく言う。秋の癖だ。勢いで誤魔化して有耶無耶にする。

「……そんなもんか」

 俺は折れた。だって、誰よりも知っていたから。秋の頑固さを。

「なんか……秋って感じだな。その理由」

 俺はポテチを食べる。

「私……って感じ?」

「そう。お前らしい。お前が考えそうだなって」

 俺はポテチを飲み込んでから、そう言った。すると、秋は小さく何かを呟いた。が、それは俺には聞こえなかった。

「なんか言った?」

「いーや、なにも。ま、そんなことよりさ……」

 また、勢いで誤魔化された気がする。俺はかすかな不満と違和感を抱きながらコーラを飲む。コーラの炭酸がその不満と違和感を炭酸とともに弾けさせるような、そんな気がした。あまり気持ちのいいものではなかったけど。

 結局、それきり実りのある会話もなく、時間が過ぎていった。たいてい、「コーラ取って」とか「新しいお菓子開封するわ」とか、そんな一過性のものが多かった。お菓子を全部食べ終わる頃にはいつの間にか日付が変わっていた。

 秋が大きなあくびをしながら言った。

「明日、早く出てくよ」

 当たり前かのように言われて、俺は思わず「もっと早く言えよ……」と、嘆いてしまった。明日早く起きるんだったら、お菓子なんて食べずに寝たのに。

「ごめんごめん」

 秋はえへへ、と笑いながら俺に謝る。

「じゃあ、寝ますか」

 俺はそう言って立ち上がる。秋が入り口に近いほうのベッドを占拠しており、必然的に俺が和室側になっていた。俺はベッドに座る。秋はなにも考えてなさそうな声を上げながら、ぱたんとベッドに埋もれていた。下に着ているキャミソールの肩紐がズレたのか戻しながら「じゃ、おやすみ」と、埋まりながら言った。

「布団かけろよ……」

 俺が小さく注意してもそれが聞こえないくらいに疲れているのか、はたまた聞いていないのか、返事はなかった。

 俺は和室と洋室の電気を消し、かわりにベッドサイドランプをつけた。さっきまでの強い人工的な光とは打って変わって、こちらは溶けていくような優しい人工的な光を放っていた。隣で秋がごそごそと動き、布団の中に潜っていた。暑そうだけど大丈夫だろうか。

 コーラやらポテチやらを寝る前に食べてしまったお陰で眠気が飛んでいってしまった。お陰で寝れそうもない。隣で秋が布団から頭を出した。なにも考えてなさそうな顔が薄く照らされる。寝顔だけ見たら大人しそうな高校生、といった印象だ。本性は周りをいつも振り回す奴だけど。

 はあ、疲れた。本当だったら今頃、家でゲームしてるんだろうな。まあ、でも。

「旅行来て良かった……かな?」

 こんなこと恥ずかしくて秋の前では言えないけど。俺は隣で寝息を立てている秋を見ながら思った。

「はあ。寝れねえ」

 徹夜コース、入りますか。俺が小さな決意を固めたとき、隣から小さく声が聞こえた。何度も何度も何度も、繰り返し、うわ言のように声が紡がれる。

 新幹線で秋が言った寝言とと同じ言葉を。

「――ぃえたい

 ――ぃ……たい」

 消えたい。

 逃げたい。

 そう、呟いているように聞こえてしまって心が凍りついたかのような感触になる。

 きっと、これは夢だ。まだ、あの幻のような町に囚われているんだ。あの町で感じた、秋が儚く、消えてしまうような錯覚に、まだ囚われているんだ。だから、きっとあれは俺の聞き間違いなんだ。そんな事を考えているうちに、俺が固めたはずの小さな決意が粉々に崩れ去っていった。

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