光の朝

「おはようございます、アラン様」

 少女の包み込むような囁きと共に、アランは目を覚ました。朝の日差しの中で、ゆっくりと。夢に溶け込んだ意識はどんよりと重く、熱に悴んだ手足はじんわりと現実を伝えている。アランは呻き声をあげて身を捩ると、固まった筋肉はすじを伸ばして悲鳴を上げた。どうやら、ずいぶんと長く眠ってしまっていたらしい。

 重いまぶたを擦り、ベッドの横に目を向けると、そこには微笑みを浮かべた少女が座っていた。小柄な体躯に深紅のローブ。フードの隙間から見える金髪は流れるように美しく、揃えられた前髪の下からはエメラルドの瞳が覗いている。その瞳は希望に満ちた輝きに彩られていて、慈愛に満ちた微笑みと共に、アランの心を光の中に迎えていた。

「えっと——おはよう」

 アランのぎこちない挨拶に、イリスは満面の笑みを浮かべた。全く隙を見せない、人を安心させるための笑顔。その心根は完璧な笑顔に閉ざされて、伏せられた真実を垣間見ることは叶わない。

 アランはゆっくりと体を起こして、辺りを見渡した。見渡した部屋はそれなりに広く、綺麗な家具で満たされていた。上品な丸テーブルに、供えられた藍色の花。リネンのタペストリーは鮮やかに部屋を彩り、朝日に照らされたカーテンは白と緑の模様で波打っている。開かれた室内は穏やかな風に包まれ、夜の記憶に残る不気味な影は、光の中に消えてしまっていた。

「体の調子はどうですか?」

 イリスが尋ねて、アランは自分の体に意識を向けた。体はぎこちなく凝り固まっていたが、特に騒ぎ立てるような異常は見られない。アランは意識を奮って、自分の調子をぼんやりと伝えると、イリスは笑顔でアランの無事を祝福した。どうやら、目の前の不思議な少女は、アランの看病をしてくれていたらしい。

 アランは目の前の光景から目を伏せると、ゆっくりと記憶をたどって、現実の感触を探った。微睡んだ朝の記憶と、恐ろしい夜の記憶。これが夢でないのなら、図書館での騒ぎも夢ではない。アランはこめかみを抑えて、記憶の底を探っていくと、霧の中からぼやけた記憶が蘇ってきた。疲れ果て、倒れ様にイリスに支えられた、夢と現実の境目の記憶だ。

「ぼくは——どれくらい眠っていたの?」

 イリスは落ち着いた声で答えた。「だいたい丸二日ですね。図書館から出た後、倒れる様に眠ってしまって、私がここに運んだんです。ずいぶんと体力を消耗していましたから、眠たくなるのも無理はありません。一応、医療班に体を見てもらいましたが、特に異常は見られなかったそうなので、安心してください」

 アランはイリスの言葉を耳に入れながら、ふわふわとした感覚に浸っていた。夢と現実の境目にいるような、落ち着きようのない、奇妙な感覚。アランはその感覚に頭を揺すると、張り付いた記憶は真っ赤な悪夢を蘇らせてきた。アランは顔を上げた。

「そうだ——レベッカさんは?」

 イリスは笑顔を作った。「安心してください。彼女はすでに治療を終えて、特に後遺症もなくピンピンしています。少しだけカラスに腹を立てて、暴言を吐いていましたが、あえて言うならそれくらいで、命に別状はありません」

 アランは胸を撫で下ろした。「よかった。無事なんだね」

「ええ、みんな無事です。あの夜は特に犠牲者もなく、事件はすでに解決しています」

 イリスの落ち着いた声色に、アランは心から息をつき、夢のような記憶に決着をつけた。色々と衝撃的な体験が続いていたが、今ここでみんなが無事に居られるのなら、それに越したことはないだろう。

「そうだ」アランは大切なことを思い出して、イリスに顔を向けた。「あの時は、助けてくれてありがとう。君が来てくれなかったら、ぼくは間違いなく死んでいたよ」

「いえ、とんでもありません」イリスは首を振った。「あなたを守るのが、私の使命でもあります。むしろ危険な目に遭わせてしまったことを、私が謝らなければなりません。アラン様、申し訳ありませんでした」

 イリスは声を低くして、胸に手を当てて頭を下げた。アランは慌てて言った。

「謝る必要なんてないよ。ぼくが勝手に死にかけただけだから。君は何も悪くない」

「いいえ」イリスは首を振った。「そもそも、そういう状況を作ってしまったこと自体が、私の落ち度なのです。ですから、あの事件は私の責任でもあります。本当に申し訳ありませんでした」

 イリスは頑なに言葉を重ねて、真剣な顔で反省をしていた。アランはいたたまれない気持ちになって、何か言葉をかけようとしたが、イリスの深刻な雰囲気を前に、かける言葉を見つけられなかった。

「アラン様」アランが黙り込んでいると、イリスが伺う様な目をこちらに向けてきた。「あの、重ね重ね申し訳ないんですけれど、一つだけ、確認をしてもいいですか?」

「何?」アランは眉を寄せた。

「えっと、私は、特にしなくてもいい質問だとは思うんですけれど、これは周りを納得させるための質問と言いますか、私が声にツヤを乗せるための質問と言いますか、つまり、その——」

 イリスはだんだんと声を小さくしていき、俯いて黙り込んでしまった。アランは気を使って、自分から声をかけた。

「何が言いたいの?助けてもらったし、なんでも答えるよ」

「ありがとうございます」イリスは少しだけ笑顔を取り戻した。「では——少しだけ、失礼させていただきますね」

 イリスはそう言うと、宝石のような瞳を輝かせて、双眸の色を変化させていった。透き通るような緑から、血のような赤へ。その変化はあの夜に見た変化と同じもので、イリスの優しい雰囲気からは想像もできない、恐ろしい変化だった。アランは息を呑んだ。

「アラン様」イリスは冷たい声で言った。「あなたは——人間ですよね?」

 イリスは真っ赤な瞳と共に問いかけ、アランの心の中を伺っていた。アランはなんとなくその意味を悟って、真剣な顔で答えた。これはきっと、大切な確認だ。

「ぼくは——人間だよ」

 イリスはアランの言葉を赤い瞳で追いながら、言葉の中の真実を確かめていた。赤い瞳はアランの内側を見定め、不釣り合いな嘘を暴き出していく。

「やっぱり——嘘は言っていない!」

 イリスは感激し、手を合わせて喜んでいた。アランは緊張した肩を下ろし、少女の反応に息をついた。これはきっと、レベッカの時と同じだ。イリスの目には、嘘を見破る何かがある。アランは今までのことを通して、魔法の存在を身近なものに感じ始めていた。

「アラン様。改めて自己紹介をさせていただきますね。私はイリス。あなた達の神話を信じ、あなたのお世話を買って出たものです」

 イリスはそう言うと、胸に手を当てて首を傾げた。アランは丁寧な挨拶に委縮して、慌てて口を開いた。

「こちらこそ、よろしく。イリス」

「ええ、よろしくお願いします」イリスは満面の笑みで答えた。「ではアラン様。色々とお話しをする前に、まずは朝食を取りませんか?たっぷりと寝ていたので、栄養を取らないと体を壊してしまいます」

 イリスの言葉にアランはお腹をさすり、空腹を思い出した。よく考えてみれば、この世界で目が覚めてから、まだ一度も食事を口にしていない。アランはイリスに空腹を伝えた。

 イリスはアランの返事を確認すると、席を立って朝食の準備を始めた。寄せられた台車の中には暖かい料理が敷き詰められてあり、白い湯気を立てながら、香ばしい匂いをしたためている。アランはその匂いにお腹を鳴らして、イリスの準備を浮き足立ちながら待った。イリスはテキパキと準備を進めて、丸テーブルはあっという間に温かい料理で埋まっていった。

 イリスは手を動かしながら言った。「お腹に優しい料理を選びました。パンは焦がしていないので、千切ってスープに浸けられます。お肉は十分に解しましたし、人参も柔らかくなっているはずです。果物はこれから切り分けますので、お皿のほうから召し上がってください」

 イリスはまるで当たり前のようにお皿を並べ、朝食の準備に勤しんでいた。アランはそんなイリスの様子を眺めながら、改めて目の前の少女の姿に疑問を持っていた。図書館の一件では命を助けられ、目が覚めてからも手厚い奉仕を捧げてくれる。彼女たちは使命という言葉を使っていたけれど、何か特別な意味でもあるのだろうか?アランはゆっくりと疑問を口にした。

「イリスはさ——なんでそんなに親身になってくれるの?」

 アランは真剣な声で呟いて、イリスの横顔を見つめていた。イリスはそんなアランの眼差しに晒されて、ゆっくりと手を止めた。

「それは——」イリスはアランに向き直った。「一言で答えるのは、難しいですね。私は運命と答えたいのですが、それは失礼に当たる可能性があります。ですから、今はあなたの可能性に惹かれているから、と答えさせてください」

 アランはなんとなく意味を悟りつつも、言葉を返した。「可能性?」

「はい」イリスは真剣な顔で答えた。「レベッカさんからある程度の話は聞いていると思いますが、人間とはつまり、神話の存在なんです。この世界を賭けて戦い、神の如き宿敵を討ち滅ぼした、神を超えた存在。ですから、この世界に生まれたあなたの可能性は、とても私の想像で測り切れるものではありません。人の呪いは、価値のあるものに容赦なく力を与えますから、あなたの存在は神の再現に他ならないのです」

 イリスは淡々と途方もない話を繰り出し、アランの瞳を見つめていた。アランは話の規模に気圧されて、思わず視線を逸らしてしまった。やはり、彼女はレベッカと同じように、途方もないスケールで話をしている。きっとおそらく、この世界には何かしらのルールのようなものがあって、彼女たちはそのルールに従って喋っている。アランはその中でも特別な立ち位置に存在しているようで、彼女たちはそんなアランに大きな期待を寄せているようだ。アランはあの夜の自分の無力さを思い出して、小さな声で言った。

「いや——ぼくに、そんな力があるとは思えないよ。図書館でだって、ぼくは何もできなかった。だから、こんな風に良くされると、申し訳ない気持ちにもなってくる」

 アランの塞ぎ込んだ様子に、イリスは優しい笑みを浮かべた。「そう思うあなたの気持ちはわかります。ですがそれは、私が事実を伝え、あなたが意味を理解すれば、きっと拭うことができます。ですからしばらくの間は、私のことはそういう使命を持った亜人だと理解していてください。これから世界を見て回って、呪いの本質を理解できるようになれば、きっと私の奉仕の意味にも納得していただけるはずです。故に、あなたが委縮する必要は、全くありません」

 イリスの優しい言葉に、アランは顔を上げた。「それでいいのかな?」

「ええ、それでよいのです」イリスは笑顔を作った。「それに、もし奉仕されること自体が不愉快だということであれば、私は潔く身を引くつもりです。元々、私はそこまで価値のある亜人ではありませんので、その末路を問うような事がなければ、私は自分を壊す覚悟もできているつもりです」

「自分を壊す?」アランは声を大きくした。「何を言っているの?自分を壊すだなんて。ぼくは、そんなことを望んだりはしないよ」

「ありがとうございます。ですが」イリスは真面目な顔を崩さなかった。「人間の中には、こういった奉仕を嫌う人が、ある程度存在したと聞きます。平等を好み、分かたれた可能性に価値を感じる人達がいたと、私はしっかりと記憶しています。ですから、あなたが私の行いを嫌うのであれば、私の存在意義は限りなく薄くなります。私が自分を壊すと言うのは、そう言う意味で申し上げました」

 アランはイリスの口から飛び出した難しい価値観に唸りを上げて、言葉を探して黙り込んでいった。このどうしようもない、圧倒的な価値観の違いからくる意見のすれ違いは、レベッカや老人に会った時にも感じたものだ。やはり亜人というのは、どこか人間とは違った価値観で生きている。アランはその分厚い壁に押し出されて、少女の姿が遠く見えてしまった。

「ごめんなさい」イリスは黙り込んだアランを見て、申し訳なさそうに言った。「少し、困らせるような事を言ってしまったのかもしれません。私たち亜人は平等という概念に疎いので、あなたが何を考えているのか、私も不安だったのです」

 イリスは自嘲気味に笑い、口元に手を当てて困り顔を浮かべていた。アランは彼女の困った顔を見つめて、逆に申し訳なく思った。

「ごめん。ぼくの方こそ、よく考えていなかった。なんとなく、こんなに美味しそうなご飯をもらっていいのかなって、そう思っただけなんだ」

 イリスは顔を明るくした。「それなら、遠慮なく食べてください。あなたのために作った料理です。あなたが食べなかったら、価値を失って、無駄になってしまいます」

 アランは机に並べられた料理に目を戻し、立ち上る湯気に涎を溜めていった。色々と考えることが多くて忘れてしまっていたけれど、お腹の方はすでに限界だった。

「じゃあ、いただきます」

 アランは息をかけてスプーンを握り、目の前のご馳走にありついていった。並べられた料理はどれも美味しく、アランの手は止まらなかった。イリスはそんなアランの姿を忍ぶように見つめ、慈愛に満ちた表情を浮かべていた。アランはその視線に少しだけ緊張してしまったが、限界を超えた空腹は食事の方を優先させた。

 イリスは言った。「美味しいですか?」

 アランは深く頷いた。「美味しいよ。生き返った気分だ」

 イリスは手を合わせて喜んだ。「それはよかったです。たくさん準備をした甲斐がありました」

 イリスの料理はどれも一級品で、口を挟む隙が無かった。アランは手を止めることなく料理を流し込み、埋まったお皿は瞬く間に空になっていった。イリスはその様子を見つめながら、幸せそうに頬を緩ませていた。

「アラン様」イリスは言った。「リンゴがむけました。口を開けてください」

「え?」

 イリスの言葉に顔を向けてみると、彼女はリンゴを持ってアランの反応を待っていた。アランは眉をひそめた。

「いや、自分で食べられるよ。ぼくは子供じゃない」

「いえ、子供です」イリスははっきりと言った。「あなたはまだ幼い。その体躯は、どう見ても子供です。一目見れば、誰にだって分かります」

 アランは反抗的な目を向けた。「それは、君が言えた台詞か?」アランはイリスの小柄な体を見た。

「私は亜人です。こう見えて、百年以上は生きています」

「え!?」アランは大きな声を上げた。「嘘でしょ?」

「本当です」イリスは淡々と言った。「だから庇護されるべきなのは、あなたなのです。人の呪いに嘘がないとするなら、わがままを言っているのはあなたになります」

 イリスはそう言うと、アランの口元にリンゴを突きつけてきた。アランは悲鳴を上げた。

「だから自分で食べられるって!リンゴを置いてくれ!」

 イリスは悲しそうな顔をした。「アラン様。お願いですから、わがままを言うのはやめてください。暴れないで——」

「何やってんだ?お前ら」

 低い唸り声と共に、扉を開けて立っていたのは、図書館で出会った髭の亜人だった。大柄な体躯に灰色の髭。曲がった鎧に灰色のチュニック。背に抱えられた大剣は無骨に佇み、窪んだ瞳は眼鏡の裏で経験の深さを物語っている。

「ウィリアム様、遅いですよ?」イリスは言った。

「悪い、少し手間取ってな」髭の亜人はイリスに謝ると、アランに顔を向けた。「よう、アラン。元気そうだな」

 髭の亜人はそう言うと、少しだけ息をついて、アランに小さく微笑んだ。アランはその微笑みに不思議な既視感を感じて、言葉を詰まらせた。

「ふむ、一応自己紹介もしておくか。俺はウィリアムだ。よろしくな、アラン」

 アランはウィリアムの言葉を耳に入れながら、その姿に自分の記憶をたどっていた。彼の姿からはやはり、懐かしさのような、暖かい既視感を感じる。しかし、初めて出会った時もそうだったように、いくら記憶をあさっても、彼に関する記憶は全く見当たらない。アランは仕方なく顔を上げて、素直に返事を返した。

「えっと——よろしく、ウィリアム」

 アランは言葉の中に少しだけ信頼を込めて、ウィリアムに綴った。記憶の中に彼の姿はなかったが、彼の気配から感じ取れる暖かい感触は、間違いなく本物だ。もしかしたらアランが忘れているだけで、彼とは昔馴染みなのかもしれない。

「もしかしてさ——ウィリアムはぼくと会った事がある?」

 アランの質問に、ウィリアムは小さく笑って、唸るように答えた。「さあ——どうだろうな。それに関しては、少し事情が複雑でな。実は、かくいう俺にもよく分からんのだ」

 アランは眉を寄せた。「よく分からないって、どう言うこと?だってこの前、ひさしぶりって言っていたよね?」

「ああ、確かにそう言ったがな」ウィリアムは髭を擦った。「その辺の事情を語るには、今のお前はあまりにもこの世界のことを知らなすぎる。それこそ、記憶の底を探りたいのだったら、もっと勉強してからでないとな」

 ウィリアムはそう言うと、部屋が窮屈だったのか、壁に背を預けながらドアの横に座り込んだ。大柄な背丈は腰を折ってもアランよりも大きく、壁は悲鳴を上げながら彼の体重を支えていた。ウィリアムは落ち着いた拍子に喉を鳴らすと、そのままイリスに視線を送った。イリスは意図を理解していたのか、何も言わずにアランに向き直って、変わらない笑顔を作った。

「ではアラン様。早速ですが、私がこの世界の事を少しだけ教えて差し上げます。これを見てください」

 イリスはそう言うと、扉の傍に掛けてあったランプに手を伸ばして、その中から一筋の光の糸を手繰り寄せた。まるで妖精のような、黄金の輝きを放っている、淡い一筋の光。あの夜にアランが見たものと同じような、不思議な気配を持った光だ。

「それって——」

 イリスはその光を手繰り寄せると、両手で囲って、少しだけ力を込めた。すると光はたちまち変化して、黄色い蝶の姿に形を変えた。アランは目を丸くした。

「これが世界を壊した力。世界をつくり直した力。人呼んで——マナの力です。触れてみてください」

 イリスの言葉に合わせるように、蝶は手元から飛び立つと、ひらひらとアランの目の前に舞い込んできた。まさに魔法のような、幻想的な光の瞬き。アランはその瞬きに魅入られて、吸い寄せられるように手を伸ばし、マナの力に触れていった。

 力は、小さな記憶に宿っていた。初めて見るものに対する好奇心。尊敬と意欲。その価値に敬意を表して力を巡らせていた。その姿はまるでおとぎ話に魅入る少年のように純粋で、そして、遠く離れた神のように、はっきりと力の壁を主張していた。

「暖かい——」アランは呟くように感想をこぼした。

「マナとは」イリスは声を張って言った。「情報価値に力を与えるエネルギー生命体。因果によって繋がれた、物語を紡ぐ力。私たちはこの力のことを、”呪い”という風に呼んでいますが、そうですね——あなたが知るのなら、純粋に魔法の力と呼んだ方が良いのでしょうか」イリスはもう一つ蝶を作り、指先に留めながら言った。「マナの力は純粋なんです。その者の価値を測り、あるべき姿に変えてしまう。しかも、その変化には際限がなくて、制限すらない。つまり、理由さえ作れれば、天使にもなれるし、悪魔にもなれる。地球を壊すことだってできるし、新たな世界を作ることだってできる。まさに人知を超えた、世界を一変させてしまうほどの神秘の力。それがマナです」

 アランは手元で溶けていく蝶の軌跡を追いながら、改めて目の前の魔法の力に息を呑んだ。その者の価値を測り、あるべき姿に変えてしまう力。天使にも悪魔にもなれる、世界を一変させてしまうほどの神秘の力。イリスの言っている事が本当なら、それは——とんでもない力だ。

「マナの力——」アランは言葉をたどった。「これが——この力が、魔法の正体?」

 イリスは微笑んだ。「ええ、そう捉えてもらっても、良いと思います」

 イリスの返答に、アランは目を落として、改めてマナの力に触れていった。マナの作り出す光の波紋は、いままでに感じたことのない、悴むような暖かさに包まれている。アランは息を漏らした。

「よく分かったよ」アランは心の底から語った。「これは、確かに魔法のようだ。いままでに感じたことのない、不思議な感覚に包まれている」アランはゆっくりと言葉を重ねて、自分の心を確かめていった。「やっぱり、ぼくがあの夜に見たものは——全部、夢じゃなかったんだ。タコの姿も、蒸気の巨人も、カラスの恐ろしい姿も——全部、夢じゃなかった。つまり、レベッカさんの言っていたことも、全部本当だったってことだよね?」

「ええ、本当です」イリスは笑顔で頷いた。

 アランはその笑顔に目を細めた。「じゃあ、君の——恐ろしい蜘蛛のような姿も、本当だったってこと?」

「ええ、確かにあれは私でしたが——」イリスは乾いた笑いを浮かべた。「それにしても、蜘蛛——ですか?私、そんな風に見えました?」

 二人のやり取りに、ウィリアムは大きく笑った。「がははは、蜘蛛とは——全く、鋭い指摘をするじゃないか、アラン。確かにお嬢は、蜘蛛の亜人だからな」

「ちょっと!ウィリアム様!?いい加減なことを言わないでください!」イリスが大きな声を上げた。「私が蜘蛛なわけないでしょう!?アラン様が勘違いしてしまったら、どうするんですか!?」

「いや、そうは言ってもな——」ウィリアムは笑いを押し殺しながら言った。「お嬢は実際に、そう見える部分があるだろう。どうやら、本人は全く自覚がないようだが、お嬢の言葉は——どうにも堕落を誘うきらいがある」ウィリアムはアランに目を向けた。「だから気をつけろよ、アラン。目の前の蜘蛛の女は、甘い言葉で誘惑し、堕落という名の糸でお前を絡めとるつもりなんだからな」

「ウィリアム様!」イリスはウィリアムを睨みつけて、大きな声で言った。「私の奉仕は堕落ではありません!その価値を労う、正当な報酬!つまり、純粋な愛なのです!蜘蛛の捕食と、一緒にしないでください!」

 イリスはたっぷりとウィリアムを睨みつけると、翻って、アランに完璧な笑顔を見せつけた。「アラン様。私は人形の亜人です。決して蜘蛛ではありません。これを見てください」

 イリスはそう言うと、自分の首を持ち上げて宙に浮かせた。首は皮をつなげておらず、中のゴム一本で繋ぎ止められている。アランは目を丸くした。

「ふふ、この体はとある人間が作ってくれた、オーダーメイドの一品。限りなく人間に近づけた、究極のビスクドール。つまり、私は芸術品なのです」

 アランは息をつきながら言った。「本当に人間そっくりだね。全く分からなかった」

 イリスは笑った。「それは仕方がないかもしれませんね。私は元々かなり人間に似ていますし、長い年月をかけて、より人間らしく変化していますから」イリスは首を戻した。「つまり私は、あなた達によって作り出された、あなた達のための亜人なんです。ですので、もし必要なことがあれば、遠慮なく私に申しつけてください。その要求は、私の価値を高めてくれます」イリスはそう言うと、ウィリアムに渋い目を向けた。「因みにアラン様。隣の髭のおじさんは、嘘の亜人です」

「おい」ウィリアムは突っ込んだ。「アラン、おれは嘘の亜人じゃない。おれは、オオカミの亜人だ」

 ウィリアムはそう言うと、右手を差し出して力を込めた。すると右手は内側から変形し、分厚いナイフのような、鋭い爪を走らせた。皮を裂き、筋を断つための、獣の爪。その様子は正しく、狼のそれだ。

「アラン様」目を丸くしているアランに対して、イリスが言った。「ウィリアム様はこう見えて、この世界で一番の剣士です。とんでもなく強いので、危ないことは全部彼に任せてください。それが嘘つきに対する報いになります」

「相変わらず、辛辣だなあ」ウィリアムはぼやいた。「まあ、お嬢の言い草はともかく、言っていることは事実だ。お前の運命には敵が多いだろうから、その道を妨げるような敵が出てきた時は、俺が背中の剣で切り伏せることになる。それが俺の、使命だからな」

 ウィリアムの言葉に、アランは眉を寄せた。「その——使命って言葉、レベッカさんも使っていたけれど、それって一体どういう意味なの?聞いている限りだと、ぼくが知っている意味とは少し違う気がするけれど」

「使命の意味か——」ウィリアムは渋い顔をした。「まあ、平たく言うなら、運命によって定められた、亜人の行動原理ってことになるが、その意味に関しては、亜人によって異なるとされているからな。一概にこうと決めつけるのは——どうにも難しい。少なくとも俺にとっては、自分自身を作るための、大切なルールのようなものだな。俺たち戦士の——離れた心を繋ぎとめるための、たったひとつの約束のことだ」

「私もその通りだと思います」ウィリアムの言葉に、イリスも続いた。「私たちにとっての使命とは、大きな運命を祝福するために捧げられる、最も尊い法です。あなたたち人間が残してくれた、最後の希望なのです」

「約束に、希望——」アランは二人の言葉をたどった。

 ウィリアムは言った。「俺の使命は、お前の運命を導くことだ。そして——」

 イリスは言った。「私の使命は、あなたの価値を守ることです」

 二人は揃って使命を語ると、微笑みを浮かべて、アランに暖かい眼差しを送っていた。アランはその眼差しに当てられて、少しだけ口端を綻ばせた。

 イリスは言った。「そういう訳なので、アラン様。この私、人形の亜人イリスと、嘘の亜人ウィリアムは——」

「おい」ウィリアムがすかさず突っ込みを入れた。イリスは無視した。

「私たち二人は、人間の——あなたのサポートのために、ここに存在しています。ですので、その使命を果たすためにも、この世界を見て回る際は、是非とも私たちの力をお使いください。至らない点は多々あるかと思いますが、最善の努力をもって、きっと——あなたの運命の一助となることを、ここに誓います」

 二人の言葉は決して嘘ではなく、はっきりとした信頼に裏打ちされて、アランの瞳に送られていた。アランは身に余る待遇に、だんだんと後ろめたい気持ちを強くして、虚空に瞳を映していった。亜人と使命の関係性については、レベッカと話した時からずっと気になっていたけれど、いざこうしてその関係性に踏み込んでみると、人間のアランには少しだけ重い話に感じられた。アランは自分の気持ちに正直になって、不器用に言葉を漏らした。

「なんか、どう答えたらいいのか分からないけれど——」アランはゆっくりと顔を上げた。「とりあえず、色々と教えてくれることに関しては、すごく助かってるよ。ぼくはこの世界に不慣れだし、知りたいことがいっぱいあるから。でも——」アランは言葉の下に影を落とした。「君たちの好意は、ぼくには少し勿体無い気がするな。ぼくは君たちが思っているほど、大した人間じゃないから」

「いえ、勿体ないだなんて——とんでもありません」イリスは言った。「これは謂わば、受け取って然るべき、当然の報酬です。なぜならあなたたち人間は神で、あなたはその最後の生き残りなのですよ?」

「いや、そうはいってもな——」

 アランは語気を落として、イリスの言葉を誤魔化していった。こうして彼女の熱意に触れれば触れるほど、アランは大きな壁を感じて、自信をなくしてしまっていた。アランは俯いたまま、小さい声で言った。

「まあ、色々と疑問はあるけれど、とにかく今は、この世界のことをもっと知りたいよ。ぼくは未熟で、君たちの言葉に答えたくても、答えるための知識がない」

「だったら、俺から一つ提案がある」ウィリアムが言った。「とりあえずお前は、お嬢と出掛けて、街を見て回ってこい。俺は用があって付き合えないが、カラスの方はすでに手を打ってあるし、お嬢がいれば万に一つもない。街の変化を見てまわれば、マナの使い方も分かるだろうし、呪いの本質にも近づけるだろう」

「いいですね、それ」ウィリアムの提案に、イリスも賛成した。「マナの真価を確かめるなら、実際に目で見て、触ってみるのが一番早いです。私がご案内しますから、一緒に街を見てまわりましょう。きっと楽しいはずです」

 二人の言葉に、アランは顔を明るくした。「それは——すごく助かるよ。街の景色を目にしてから、僕はずっと気になっていたから。それに——」アランは少しだけ真剣な顔を作った。「街に行くんだったら、もう一度レベッカさんに会って、お礼を言いたいな。あの時は感謝の気持ちを伝えることができなかったから」

「分かりました」アランの言葉に、イリスはしっかりと頷いた。「そういうことでしたら、まずはレベッカさんに会いに行きましょう。きっと彼女も喜ぶと思います」

「そうだね」アランは笑顔で頷いた。「じゃあ——よろしく頼むよ、イリス」

 イリスは微笑んだ。「ええ、こちらこそよろしくお願いします」

「よし、決まりだな」二人の合意に、ウィリアムも息を鳴らした。「そうとなれば、アラン。街に出る前に、こいつをおまえに渡しておこう」

 ウィリアムはそう言うと、懐に手を伸ばして、中から銀色の物体を取り出した。鋼を熱で溶かしたような、真球の、銀の物体。その物体はウィリアムの手の平に落ち着くと、溶けるように形を変えて、ぐにぐにと生き物のように動き回っている。

「ポーカー、出番だぞ」

 ウィリアムの言葉に反応したのか、銀の液体は動きを止めると、アランに向かって大きく跳躍した。そして空中で何度も回転すると、四方から短い手足を生やして、アランの目の前に着地した。アランは思わず悲鳴を上げた。

「うわ!」

 銀の物体は形を変えて、まるで生き物のように机を張っていた。短い手足に、ちらつく尻尾。目のない顔に、液状の皮膚。まるで、銀のトカゲのように姿を変えたその物体は、四つん這いで机の上を駆け回ると、アランの傍ににじり寄って、のっぺりとした顔でこちらを見つめてきた。アランはまたもや悲鳴を上げた。

「何だこいつ!?」

 イリスは笑いながら言った。「あら、アラン様。こいつ呼ばわりは失礼ですよ?この子の名前はポーカー。こう見えて、この子も歴とした亜人の一人なんですから」

 ポーカーはイリスに喉を鳴らすと、そのまま二足歩行で立ち上がり、前足を揺らしながら大きく姿を変えていった。寸胴だった体は細くまとめられ、平たい頭はモデルのように整い、その上には何とシルクハットのような帽子まで乗っかっている。それこそ、小さな紳士のように姿を変えたポーカーは、頭の上のシルクハットを持ち上げると、腰を折って恭しくお辞儀をした。

 アランは目の前の光景に対して何も反応ができず、黙ってその様子を見つめていた。そして静まり返った場の空気にようやく気がつくと、「どうも」と一言だけ挨拶を返した。ポーカーはそれで満足だったらしく、アランに向かってサムズアップを決めると、吊り上がるようなスマイルをこぼした。アランは思わず目頭を押さえつけた。

 ウィリアムが言った。「こいつは護衛だ。どうしても危険な時は、お前の身を守ってくれる。ポケットに入れておけば、ここぞという時に助けてくれるから、肌身離さず持ち歩いておけ」

 ポーカーはウィリアムの言葉を聞き入れると、そのまま流れるようにアランの懐に滑り込み、胸元のポケットの中に収まった。ポケットの中はずいぶんと居心地が良かったらしく、ポーカーは大きく喉を鳴らすと、形を崩して溶け込んでいった。

「アラン。最後に一つだけ、俺から大切な忠告がある」

 ウィリアムはどぎまぎするアランを差し置いて、真剣な面持ちを浮かべていた。彼の様子は今までとは明らかに違っていて、深刻な雰囲気に身を包んでいる。アランは緊張して、慌てて居住まいを正した。

 ウィリアムは轟く声で言った。「いいか?そこの甘やかし人形は、お前にとって都合のいい台詞ばかり並べ立てていただろうが、今のノーマンズランドは、そんなに甘い世界ではない。お前も見てきた通り、確かに昔に比べて、この世界は大きく変化した。だが、人間を楔として作り上げられた世界のルールは、愛も変わらず容赦ない結果を突きつけてくる。怠惰には罰を、無知には無力を、そして神の力には神の責任を。その全てが矛盾なく成立しているから、この世界は今も存在しているんだ。だから、お前がどう取り繕おうが、マナは決してお前を自由にはしない。その内に込められた責任を、容赦なく突きつけてくる。アラン——俺の言っていることが分かるか?」

 アランはウィリアムの厳しい言葉を飲み込みながら、その意味を脳内で嚙み砕いていた。これは、図書館でレベッカが言っていたことと同じだ。この世界にはきっと、残酷なルールも存在している。だからレベッカは慎重に言葉を手繰って、アランにその恐ろしさを伝えようとしていた。そして実際に、彼女はそのルールに従って——血を流した。アランはレベッカの流した血の色を思い出しながら、自分の覚悟を語っていった。

「ああ、分かっているよ」アランはゆっくりと顔を上げた。「レベッカさんも言っていたんだ。人間の僕には価値があって、その価値がどうしようもなく力になってしまうって。だから僕はこうして助けてもらったし、こうして良くもしてもらってる。そのくらいのことは、僕にだって分かっているさ」

 アランは気持ちを込めて語り、ウィリアムの瞳に視線を送った。ウィリアムはその内に宿る覚悟を受け取ったようで、ゆっくりと息を吐くと、アランに対して笑みをこぼした。

「ふん、分かっているならそれでいいさ」ウィリアムは鼻を鳴らした。「正直、まだまだ言いたいことは山ほどあるが、兎に角、今はしまっておこう。お前の言葉を信じることも、俺たちに必要なことだからな。期待しているぞ、アラン」

 ウィリアムはそう言うと、ゆっくりと立ち上がった。イリスは二人の会話が終わったのを見届けると、アランに顔を寄せて、念話で言った。

〔アラン様。気負う必要はありません。ウィリアム様は、少し厳しい方なのです。今の忠告は、彼の性分だと思ってください〕

 イリスはそう言いながら、リンゴをアランの口元に差し出してきた。アランは自分の手でそれを掴み取り、口に運んだ。ウィリアムはその様子を横目で見ていたようで、ドアに手をかけながら大きくため息をついた。

「なあ、どうも気がかりなんだが」ウィリアムは渋い顔を向けた。「お前ら、少し浮かれてやしないか?緊張感が足りないように見えるんだが」

 イリスは驚いた顔で言った。「そんなことないですよ?私は至って真面目です」

 ウィリアムは渋い顔を崩さなかった。「本当か?俺の目にはずいぶんと弛んでいるように見えるが」ウィリアムはアランに目を向けた。「アラン。くどい様だが、お嬢の好意に甘えすぎるなよ?お前が浮ついた気持ちで遊び耽る様な事をすれば、人類の運命は豚の運命を辿ることになる。つまりお前の一存が、世界の運命を変えてしまうかもしれんのだ。だからくれぐれも油断はするな。残された時間は、有限なものだと思え。いいな?」

 ウィリアムは最後に大きな忠告を残し、扉を開けて去っていった。残されたアランたちはその忠告に自分たちの振る舞いを重ねて、少しだけ気まずい空気を流していた。

 イリスは小さく咳払いをすると、声を密かにして言った。「アラン様。ウィリアム様はああ言って脅かしてきますが、そんなに怯える必要はありません。私はあなたのために、たくさん時間を用意しました。お金だってたくさん稼ぎましたし、お家だってたくさん持っています。ですから、慌てる必要なんてないのです。しばらくはゆっくりと街を見て回って、それから考えても遅くはありません」

 イリスはそう言うと、完璧な笑顔を決めた。アランは仕方なく乾いた笑いを浮かべて、やんわりと言葉を返した。「それはありがたいけれど、そんなに甘やかされたら、僕はだめ人間になってしまうよ。それこそ堕落して、豚になってしまうかも」

 アランの言葉に、イリスは少しだけ瞳を輝かせた。「別に、私はそれでも構わないですよ?目の前の運命から目を背けて、怠惰な生活に身を埋める。それはそれで、人間らしくてとても良いと思います。もしそうなったとしても、私はお傍を離れませんし、何だったら、体を泥のように変化させて、共に幸福の中に溶けていくというのも悪くはありません」

 イリスは臆することなくそう言い切り、アランに変わらない笑顔を向けてきた。その瞳はエメラルドの中に少しだけ赤を混じらせて、アランの心の中をじっくりと覗いてくる。アランはその姿に亜人の恐ろしさの片鱗を見た気がして、小さく背筋を震わせた。

 アランはイリスの言葉をゆっくりと飲み込むと、大きなため息を漏らした。こんなことを言う少女を前に、アランが返せる言葉なんてほとんどない。アランは仕方なく俯いて、欠けたリンゴに目をかけたまま、静かにぼやいた。

「イリス。やっぱり君は、蜘蛛の亜人かも——」

「え?」イリスは目を見開いた。「それって——どういう意味ですか?」イリスは首を傾げていた。

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呪い物語 榎屋 @enokiya

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