蜘蛛の少女
清く澄んだ空気の中を、一人の少女が歩んでいる。ランプの灯りをしたためて、暗んだ路地を進んでいる。辺りは闇に染まって静まり返り、街は眠ったように動きを失っていた。
少女は手に息を吐き、悴んだ手を温めた。暖かい息は白く解けていき、世界のどこかに流されていった。少女はもう一度手の感覚を確かめて、顔を上げて坂を見つめた。その眼差しは期待に照らされていて、そして、小さな輝きに芯を光らせていた。
少女は随分と小柄だった。華奢な体は子供のようで、深紅のローブに身を包んでいる。フードの隙間から見える金髪は流れるように美しく、揃えられた前髪の下からはエメラルドの瞳が覗いている。ローブの端から伸びた指先は人形のようにしなやかで、端正な顔立ちは希望に満ちた笑顔で彩られていた。
少女は次第に歩幅を縮め、石畳を踏んで駆けていった。小さな足音は静かな街によく響き、朝の知らせとなり広がっていった。少女はもう一度行く末を確かめて、ランプを抑えて速度を上げた。坂は少女を歓迎し、距離を縮めて流れていった。
坂の上には一軒の民宿が佇んでいた。決して大きくはない、小さな民宿。しかし十分に整っていて、奇知に富んだ装飾をしている。少女はその民宿に駆け寄っていくと、扉を押して沓摺を跨いだ。踏み出した足は木床を押し、形を歪めて軋みを上げた。
「おはようございます」
少女は元気よく声を響かせて、フードの下から笑顔を向けた。笑顔は元気を乗せて流れていき、店は灯りを灯して生き返っていった。
「おはようございます。イリスさん」
店の奥から挨拶が返ってきて、イリスと呼ばれた少女は小さく微笑んだ。彼女は手に持っていた灯りを消すと、酒場のカウンターに駆けて行った。カウンターの裏には白い影が動いており、なにやら俯いて作業をしている。
「オメロさん」イリスは白い影に向かって言った。「準備は間に合いました?」
オメロと呼ばれた白い影は言った。「ええ、何とか間に合いました。言われていた通り、揃っていますよ」
オメロは腰を上げて、カウンターの下から顔を覗かせた。アルビノの肌に真っ赤な瞳。円形の耳に尖った鼻。寸胴な体を短い脚で器用に支えた、その”ハツカネズミ”は、緑のお洒落なハンチング帽を被りなおすと、イリスに向かって優しく微笑んだ。
「トマトにじゃがいもに牛肉。すべてピークの一級品です。バターはヴァンドールから取り寄せましたし、サワークリームも新しくしておきました。これだけあれば、きっと美味しい料理ができると思います」
「ありがとうございます、オメロさん」
「いえ、お金をいただいているので、礼を言われることではありません」オメロはイリスの荷物を見た。「それにしても、今日も早いですね。今から作り始めるのですか?」
「いえ、今朝は着替えを持ってきたんです。あの子の目が覚める前に、変えておこうと思って」
「なるほど」オメロは頷いた。「でしたら、鍵を渡しておきます」オメロはポケットから鍵を取り出し、イリスに渡した。イリスは笑顔でそれを受け取り、オメロに感謝を述べた。
オメロは言った。「目が覚めるのは、今日なんですよね?」
「ええ、今日か明日か、遅くても明後日までには目が覚めるはずです」
「それは楽しみですね。一体どんな人なのか、私も気になります」
「きっと良い人です。私には確信があります。では——」
イリスは目線で合図をして、荷物を抱えて離れていった。オメロは小さく微笑んで、店の作業に戻っていった。イリスは軽快な足取りで階段を上っていき、少年のいる部屋へ一直線に向かって行った。その足取りは羽の様に軽く、見ているだけで幸せになれるほど幸福に満ちていた。
「アラン様。お着替えの時間ですよー?」
イリスは伺うような声色とともに、部屋の扉を開いた。数えきれないほど手を付けた、いつもの扉を。イリスはいつの間にかその作業に幸福を感じ、口端から笑みをこぼして忍んでいった。部屋は暗く見通しが悪かったが、彼女は手慣れた手つきで灯りに手を伸ばした。灯りはゆっくりと光を広げていき、暗んだ部屋は白く染まっていった。
「え?」
部屋の様子が目に入ってきた時、イリスは思わず固まってしまった。少年が眠っていたはずのいつものベッドは、しわを残してもぬけの殻となっている。
「ええー!?いない!?なんで!?」
イリスは大きな声を上げて、慌ててベッドに駆け寄った。ベッドはやはり熱を失い冷えていて、周囲の物陰にもそれらしき影はない。イリスは冷たい感覚に背筋を震わせると、事態の深刻さをゆっくりと飲み込んだ。
「どこに行っちゃったんですか!?」
イリスは叫び声とともに大きく息を吐いた。息は鼻先で白く濁り、風に揺られて流されていった。イリスは流れる冷気を肌で感じて、異変を悟って顔を上げた。冷気が向かってくる先、バルコニーへ続く掃き出し窓が、僅かにずれて開いている。
イリスはすぐさま窓に駆け寄り、勢いよくバルコニーに飛び出した。飛び出したバルコニーに人影はなかったが、その手すりには縄の様に結び付けられたシーツが垂れ下がっていた。垂れ下がったシーツは階下の路地に伸びていて、そして十分な長さを確保している。
「ここから出ていったんだ!」
イリスは確信し、そして叫んだ。彼女は事態を把握すると、その重大さに覚悟を決めた。イリスにとって少年の安全の確保は最優先事項。決して疎かにすることのできない、身を焦がすほどの不文律だ。イリスはそっと目を閉じた。
本気を出します——。
イリスは心の中でそう呟くと、小さな体を震わせた。震えた体は大気を揺らし、溢れ出る光となって彼女の体を包み込んでいく。
彼女の変化は目を見張るものだった。一度金髪を揺らしたかと思うと、まるで意思を持ったかのように宙を舞い、金の触手となって夜空を這った。そしてゆっくりと壁を伝って、小さな体を持ち上げると、お互いに絡まりあって器用に形を変えていった。ローブの内側は金の繭に包まれ、絡んだ触手は図太い手足となって細い手すりを曲げていった。あっという間に膨れ上がったその姿は、まるで蜘蛛のように奇怪で、そして、悪魔のように恐ろしい姿に変貌していた。
イリスは巨体を操って街に身を向けると、閉じていた瞳をゆっくりと開いた。優しい目尻に支えられた、作り物のような小さな瞳。しかし、晒された瞳はその繊細さを無くし、真っ赤に染まって夜空に爛々と輝いていた。以前までの綺麗な緑からは想像もつかない——重く輝く赤。白眼の部分も黒く染まり、その様子はまるで、漆黒の夜に浮かぶ深紅の月のようだった。
「すぐにお迎えに上がります、アラン様!」
イリスは大きく叫ぶと、髪を奮って跳躍した。跳んだ巨体は大気を揺らし、闇を裂いて唸りを上げた。少女は巨体に似合わない可憐な声を響かせながら、静かな夜に溶け込んでいった。
イリスが大きな声を上げていた頃、少年アランは夜の街を彷徨っていた。静まり返った夜の街を、たった一人で。沈んだ街に人影はなく、凍った静けさは少年の心をじっくりと見つめている。
「誰もいないのか?」
アランは息を上げて、鼓動を抑えながら小さくぼやいた。夜の街は何も答えず。ぼやいた言葉は消えていった。アランは目先の坂を見据えると、歩幅を緩めて息をこぼした。こぼした息は流れていき、夜風に混ざって消えていった。
戻ったほうがいいか?
アランは少しだけ振り返り、そして迷った。勢いで飛び出してしまったけれど、よくよく考えてみると自分がやっていることはかなり無茶だ。急に知らない街に飛び出して、この身一つでどうにかしようとするのは、あまり賢い選択ではない。
しかし、アランは宿で起こった出来事を思い出し、すぐにその考えを振り払った。それ程までに宿で起こった出来事は異質で、少年にそう考えさせてしまうほど、酷く恐ろしい光景だった。
アランが目を覚ました時、彼は酷い悪夢にうなされていた。緑の瞳の、恐ろしい悪夢。決して夢とは思えない、照りつけたような現実。その恐ろしい現実はアランの脳をたっぷりと焼き、最悪な寝覚めと共に彼の心を抉っていた。
そして、悪夢はそれだけではなかった。ベッドに身を落ち着けたアランは、すぐに部屋の外から話し声が聞こえてくるのに気が付いた。話し声は大人の声で、何やらぼそぼそと会話をしている。アランは声の調子が危険そうでないことを確認すると、少しだけ扉を開いて声の主を確認した。
声の主はタコのような姿をしていた。アランの二回りもある大きい体躯に、長く伸びた土色の触手。大きな頭は風船のようで、透けた頭部の中には人間の顔の様なものが浮かんでいる。その姿はまさに、空想上のタコの宇宙人といった様相で、少年の心で捉えるにはあまりにも恐ろしすぎた。
アランは声を押し殺して部屋に戻り、すぐに身の危険を察して宿の外に飛び出した。幸いにも宿は背が低く、シーツを伸ばすだけで簡単に出ていくことができた。アランは息を殺して走っていき、こうして今も不気味な夜を彷徨っている。
やっぱり、戻るのはやめておこう。
アランはもう一度考えを改め、坂に向かって走っていった。坂の先は道が開けていて、高台のように見通しが良くなっている。アランは周囲の景色が見れることを期待して、足を奮って駆けていった。視界は次第に開けていき、すぐに街の景色が目に飛び込んできた。
街は、不思議な黒と青で満ちていた。全てを覆い隠す夜の黒と、そこから溢れ出す幻想的な光の青。その両者はそれぞれ主張しあって、陰影の中で幻想的な景色を作っていた。まさに、現実離れした異界の街。街は巨大な柱が並んで立体的で、上下に広がる街灯りは夜空の奥まで広がっている。家は柱に埋め込まれるように建築されていて、とても普通に建てられたようには見えない。あいにく細部は夜に埋もれて輪郭を消してしまっていたが、それでも十分異質さが伝わるほど、街は不思議な気配に溢れていた。
「いったいどこなんだ?ここは——」
アランはさらに不安が募り、胸を擦って鼓動を抑えた。全く知らない、不思議な街。ろくに行く当てもなく、手がかりすらない。そしてこういう状況に陥った時、焦って取り乱したら事態はさらに悪化する。アランは努めて冷静さを取り戻すと、もう一度胸を擦って、震えた足に力を込めた。足はぎこちなく力を伝い、怯えた心を繋ぎとめた。
ひそひそ——と。
ふいに気配を感じて、アランは背後を振り返った。誰かが囁く声。それも複数。まさに不意打ちのように飛び込んできたその声は、握り締めた手の感触と共に、脈々と肌を通して伝わってくる。その気配は決して目には見えなかったが、しかし間違いなく、はっきりと闇の中に存在していた。アランは堪らず恐ろしくなり、逃れるように背を向けた。
アランは再び走り出し、坂を下って駆けていった。吸い込んだ冷気は胸を締め付け、怯えた背筋は夜風に晒され冷えていった。アランは大きな柱を回り込むように駆けていき、静かな街にゆっくりと溶け込んでいった。
しばらく走っていると、また奇妙な気配を感じた。今度は一つだけだったが、やはりその感触に嘘はない。アランは唾を飲み込むと、闇を見定めて気配に備えた。気配は真っ直ぐ進んだ先、路地の一角から伝わってくる。アランは手を握りしめて、慎重に足を運んだ。闇は次第に姿を現し、不気味な輪郭を作っていった。
気配の正体は、一度宿で見たタコの怪物だった。アランの二回りもある大きい体躯に、長く伸びた土色の触手。大きく膨らんだ頭部は風船のようで、その中には人間の顔のようなものが怪しげに浮かんでいる。幸いにも、タコはこちらには気がついていないようで、仮面を下に向けながら、一心不乱に手元で何かをいじっている。
アランはタコの姿を凝視し、危険を悟って身を潜めた。やはり宿で見た光景は夢ではなく、こうして目の前にはっきりと存在している。そして、その恐ろしさも間違いなく本物で、どう見ても人間に対して友好的とは思えない。
やっぱり——無理だ。
アランは逃げる様に目を背けると、走ってきた道筋を確認し、別の道へと駆けて行った。今の自分にできることがあるとするなら、それは一刻も早く信用できる人間を探すことだ。決して、タコに話しかけることではない。アランは決意を固めた。
狭い路地を進んでいくと、アランは再び大きな通りに飛び出した。飛び出した通りは今までで一番大きく、柱に埋まった民家がずらりと並んでいる。アランはその並びに添うように進んでいき、人の気配を慎重に探っていった。大きな通りは白い民家が立ち並び、不気味な静けさの中に、僅かな死の気配を滲ませている。
アランはさらに進んでいくと、大きな十字路の前で再び足を止めた。肌をなぞる気配がまた一つ、道の先から近づいてくる。アランはその感触に意識を寄せると、その異質さに息を飲んだ。今度の気配は刺すように鋭く、今までと比べ物にならないほど太く大きい。
アランは急いで物陰に身を潜めると、迫り来る気配に備えて息を殺した。気配は十字路のすぐ先、建物の裏から、空気を漏らすような音と共にやってくる。アランは物陰から視線だけを残して、闇の中に目を凝らした。影はゆっくりと姿を現し、しぶきを鳴らしてそびえ立った。
その影は、アランの何倍も大きかった。全長はトラックよりも一回り大きく、大きな体は全身が黒光りする金属の鎧に包まれている。突き出た頭部は戦闘機のように鋭く尖り、振り絞られた腕は戦艦のように分厚い鉄を重ねている。背中には排熱口のような背びれが立ち並び、そこから吹き出す白い蒸気は、黒く染まった夜を溶かしながら、巨人の雄姿を燦然と闇の中に讃えていた。
アランは慌てて頭を下げて、巨人の姿から身を隠した。まさに蒸気の巨人と呼ぶべきその恐ろしい姿は、鈍い足音を大地に轟かせながら、アランの頭上をゆっくりと横切って、街道を辿って流れていった。アランはその間必死に口を押さえて、自分の気配を殺していた。
アランは巨人の後ろ姿を目で追いながら、改めて恐ろしい体験に身を震わせていた。これはきっと、タコや巨人だけではない。この街には恐ろしい存在がまだまだいる。アランは確信し、一刻も早く人間を探す事を心に誓った。誓った心は震えた足に息を吹き込み、少年の体は自然と暗がりへと流れていった。
アランは静かに裏路地に潜り込み、一心不乱に闇の中を駆けて行った。裏路地は表よりも光が薄く、僅かな音も感じられない。アランは自らの心臓の鼓動を感じながら、五感を頼りに進んでいった。裏路地は少しだけ道が入り組んでいて、どうにも視界が悪い。
折れた配管をなぞって、薄暗い角を曲がった時、アランは宙を漂う一本の光の糸とすれ違った。まるで妖精のような、黄金の輝きを放っている、淡い一筋の光。その光は透けた景色をぼかしながら、少しずつ形を変えて、悠然と夜の海を泳いでいる。その姿はどこか幻想的で、まるで物語の魔法のように、どこか遠いところに存在しているかの様に見えた。
「なんだこれ?」
アランは小さく呟き、光の糸に目を凝らした。光はアランの視線に答えることなく、悠然と夜の海を泳いでいる。アランは光の感触に興味を惹かれて、光に向かって手を伸ばした。しかし、光は溶ける様に形を崩して、夜の隙間に消えていった。
なんだったんだ?
アランは仕方なく息をつき、宙を見つめて残念に思っていると、どこからかぼそぼそと会話をするような声が聞こえてきた。その声は高台で耳にしたものと同じように、空間を跨ぐように伝いながら、アランの心を脅かしてくる。アランは堪らず背を向けて、足を振るって駆けて行った。少年の心はいつのまにか、闇の中にどっぷりと浸かってしまっていた。
闇の中を潜りぬけて、裏路地から身を乗り出すと、アランは簡素な通りに躍り出た。並び立った民家は大通りの物よりも明らかに小さく、そのほとんどが大きな柱に飲み込まれている。アランはその様子を眺めながら慎重に通りを進んでいくと、一軒の民家の前に小さな気配が佇んでいるのを感じた。気配はすぐそばに立っており、そして人間に近い感触をしている。アランは顔色を明るくして、足を奮って駆けて行った。気配は影に変わり、人間の輪郭を象って、アランのことを歓迎している。
「あの!」
声に振り向いた影は、背の低い老人だった。少しだけ目が虚ろで痩せこけていたが、確かに人間の形をしていて、じょうろを片手に寂れた花壇に水をやっている。
「ちょっといいですか?」
老人はアランの声に少しだけ目を向けたが、姿を確認すると、何も言わずに水やりを再開した。アランは少しだけムキになって、語気を強めて言った。
「ここがどこなのか教えてもらえませんか?気が付いたらここにいて、場所が分からないんです」
アランは素直に質問した。今は変なプライドは捨てて、正直に情報を探ってみる事のほうが大事だ。老人は相槌こそ打たなかったが、少し間を置いてから唸るように答えた。
「ここがどこなのかという質問は、正しくない。正しく言うならここは何処でもなく、基準を語ることに意味はない。それでも正しさを求めるというのなら、それはつまり探しているのであって、お前の居場所を作っているに過ぎない。そう、それが正しい。いや、正しくない?いや、正しい正しい正しい正しい正しい——」
老人は自分の言葉に頷きながら、ぼそぼそと自分の世界に入ってしまった。アランはその様子に肝を冷やしながらも、もう一度身を乗り出して、声を張って言った。
「正しいとか正しくないとかじゃなくて、ぼくはここがどこなのかを聞いているんです。あなたの妄想じゃなくて、地図でいう場所のことです。ここはどこの街——いや、どこの国なんですか?」
「どこの国なのかという質問は、正しくない。正しく言うならここは国ではなく心だ。心だから一つではないし、一つではないから何者にもなれる。そう、それが正しい。いや、正しくない?いや、正しい正しい正しい正しい正しい——」
アランは溜息を落とし、老人の頭のおかしさに絶望した。せっかく人を見つけたのに、これではなんの助けにもならない。
「だったら、正しい質問をします」アランはもう少しだけ粘ってみることにした。「ぼくはアランと言います。あなたの名前は?」
「わしはダンガン。それが正しい名前で、それがこの場所の名前。しかし答えはそれだけでは足りない。正しく言うならわしは亜人で、さらに言うならマナの塊。それが答えで、これが因果。因果はめぐって意味を成し、わしという亜人を成立させている。そう、それが正しい。いや、正しくない?いや、正しい正しい正しい正しい正しい——」
アランはやはり意味不明な老人に顔をしかめたが、その答えの中には気になる言葉もあった。アランは意地を見せて質問した。
「その、亜人って何ですか?」
「亜人とは何かという質問は、正しくない。正しく言うなら場所を問うべきであって、その価値を問うならそれは人間に問うべきだ。つまり価値とは人間が決めるもので、亜人の意味はその中にある。そう、それが正しい。いや、正しくない?いや、正しい正しい正しい正しい正しい——」
「人間が決める?僕たちが何を決めるんですか?」
「その質問は正しくない。お前は人間ではないし、何事も決める権利を持たない。権利を持たないものはマナを従えることができず、居場所を作ることもできない。そう、それが正しい。いや、正しくない?いや、正しい正しい正しい正しい正しい——」
「僕は人間です」
「いや違う。それは正しくない。お前はそれを証明する術を持たないし、証明したとしてももう遅い。だからそれでも正しいと思うなら、お前に必要なのはそれを信じてくれる何者かだ。何があっても裏切らない、大切な仲間。お前が正しさを求めるのなら、方法はそれしかない。でなければ、物語は始まらない。そう、それが正しい。いや、正しくない?いや、正しい正しい正しい正しい正しい——」
アランはついに唸りを上げ、大きくため息をついて肩を落とした。やっぱりこの老人は、頭がおかしい。
「じゃあ、最後の質問です。どこか安全な場所を知っていませんか?」
「その質問は正しくない。安全とは場所ではなく身に着けるものだ。だからお前が行くべき場所はここではない。本当に行くべき場所は、無知を救い、運命のという名の居場所を作ることができる場所。つまりは、大英図書館だ。そう、それが正しい。いや、正しくない?いや、正しい正しい正しい正しい正しい——」
アランは老人の言葉に目を見張った。大英図書館といえばイギリスにある有名な図書館だ。もし本当なら、まともな人間に出会えるかもしれない。
「大英図書館があるんですか!?どこに!?」
老人はアランの質問に答えることなく歩いていき、扉を開けて家の中に入っていった。アランはじれったさを抑えられずについて行って、老人の背中に向かって叫んだ。
「教えてください!どこにあるんですか!?大英図書館があるのなら、ここはイギリスなんですよね!?」
老人は答えなかった。彼はアランの言葉を無視して黒電話の前に立つと、受話器をとってダイヤルを回し始めた。
「どこにかけてるんです?」アランは目を細めた。
「警察だ」老人ははっきりと答えた。「お前は怪しい。記憶が改竄されているということは、危険な使命を背負っている可能性がある。そして危険な奴は、警察に突き出すのが正しい行いだ。そう、それが正しい。いや、正しくない?いや、正しい正しい正しい正しい正しい——」
アランは背筋を凍らせ、思わず後ろに身を引いた。ここまで逃げてきたのに、警察に突き出されるなんて、堪ったものではない。もちろん犯罪に身を染めた覚えはなかったが、こんな化け物だらけの場所で捕まったら、一体どんな目に合わされるのかも分からない。
アランは身を翻して家から飛び出し、闇に向かって走って行った。老人は電話に向かって声を荒げ、必死にアランのことを訴えていた。アランは目もくれずに走っていき、夜はそんな少年の姿を嘲笑っていた。
闇雲に走っていると、アランはいつの間にか大通りに戻って来ていた。通りには蒸気の巨人の姿はなかったが、いくつかの家に小さな灯りが灯っていた。アランはその灯りを横目に進んでいくと、正面に見知った形をした建物が見えてきた。船のような大きな建物に、それに連なる堅固な建築。特徴的なキングスクロス駅こそ姿が見えなかったが、その出で立ちは見間違うことなく、大英図書館の姿だ。
あれだ!
アランは確信し、笑顔を抱えて駆けて行った。ようやく見つけた、馴染み深い姿。アランは逸る気持ちに背を押されながら、一直線に図書館に向かって行った。
図書館は船の形こそ見覚えがあったものの、後ろ側が大きな柱に飲み込まれていたり、周囲の建物が変わっていたりと、アランの記憶とは様子が違っていた。アランは滲み出してきた不安から目を背けると、周囲を探って入れる場所を探した。早朝のせいか正門は閉じられていたが、試しに触ってみると、扉は大人しく開いた。アランは少しだけ躊躇したが、すぐに思い直して足を進めた。どうせ警察を呼ばれているのだ。今さら躊躇しても、大した意味はないだろう。
中の広場には人の気配がなく、夜に埋もれて閑散としていた。アランは慎重にその中を進んでいくと、正面の円形の建物の中から光が漏れているのが見えた。アランは駆け足で近寄っていき、大きな扉に手をかけた。
建物は扉が開いており、すんなりと中に入ることができた。館内に人の気配は感じられず、耳に障る音もない。アランは手探りでホールを進んで行くと、円形の建物の内側に出た。中にはずらりと本棚が並んでいて、円を成して綺麗な模様を描いている。その蔵書数はかなりのもので、図書館としてみてもかなり大きい。
あれ?ここ、大英図書館じゃない?
アランは目の前の矛盾に顔をしかめた。この円形の建物は大英博物館のもので、大英図書館のものではない。理由はわからないが、この場所は二つの場所が組み合わさって存在しているようだ。アランは小さく背筋を震わせた。
室内は薄暗かったが、中央のカウンターにはランプの灯りが灯っているのが見えた。アランは人の痕跡を期待して、駆け足でランプの灯りに近寄っていくと、灯りの向こうから巨大な球体が浮かび上がってきた。球体は一見すると大きな地球儀のようにも見えるが、どうにも様子がおかしい。
その地球儀は壊れていた。丸く整っていた球体は四方に砕かれ、砕かれた体は力なく四方に身を投げ出している。割れた地表からは真っ赤なマグマが吹き出て、その姿はまるで血を流しているようだ。アメリカ大陸があった場所には大きな窪みだけが残っており、黒い泥のようなものを残してその姿を消してしまっていた。一番酷いのが南半球で、なんと月らしき球体が大地を割って突き刺さっている。まるで湯船に浸かったかのように埋まりこんでいるその月は、海を伝って黒い泥を垂れ流しており、その泥で地球を侵食しているかのように見えた。
「なんだこれ——」
アランは割れた地球儀をのぞき込み、その姿に目を見張った。自分が知っている姿とはかけ離れた、歪な姿。その姿は地球と呼ぶにはあまりにも壊れすぎていて、そして、少年の常識で受け止めるにはあまりにも複雑すぎた。
ふと地球儀の下に目を向けると、そこにはこの球体の名前が書かれてあった。名前は英語で書かれてあって、綺麗な筆記体でノーマンズランド全景と刻まれている。
ノーマンズランド?
アランは眉をひそめて、その意味に首を傾げた。知らない街の、知らない単語。次から次へと出てくる新たな謎に、アランの頭はすでに一杯だった。
解けない謎を前に溜息をつき、しかたなく視線を区切ると、机の上にコーヒーが置かれているのが目に入った。コーヒーは小さく湯気を立てており、人の痕跡を物語っている。
誰かいるんだ。
アランは期待を寄せて、周囲に目を向けた。今まで通り気配を探って、闇の中を暴こうとした。しかし、闇の中の気配を察知する前に、闇はつんざくような悲鳴を上げた。
「そこにいるのは誰!?」
室内に大きな声が響き渡り、アランは思わず身を固くした。まさに、研ぎ澄まされた刃物のような、背を突き刺す声。アランは堪らず背後に目を向けると、そこには細身の小さな影があった。
影は女性だった。吊り上がった目尻に栗色の髪。新緑のローブに薄金のネックレス。本を抱えて知的な雰囲気をまとったその女性は、暗がりの中で藍色の瞳を光らせて、黙ってアランのことを睨みつけている。女性は鋭い視線でアランの動きを牽制すると、ゆっくりと灯りの前に歩み出て、頭部についた犬の耳を小刻みに揺らした。人間にはありえないはずの、大きく尖った犬の耳。アランは目を丸くした。
「動かないで」
犬の女性は言葉で釘を刺すと、右手をゆっくりと持ち上げた。するとその動きに合わせるように、懐から金の短剣が飛び出した。豪華な装飾を光らせた、肉厚の短剣。その短剣は女性の前で弧を描くと、意思を持ったかのように宙を舞い、刃先を揃えてアランを見据えた。アランは息を呑んだ。
「ニュルンベルクの短剣よ。あなたが人の行いに悖る行動をとれば、即座にあなたを攻撃するわ」
アランは状況に頭を白く飛ばしながらも、しっかりと身の危険を感じ取っていた。短剣の切っ先は間違いなく本物で、女性の声色も真実を語っている。今までの全てが夢であったとしても、今向けられている敵意だけは——夢じゃない。
「では質問するわ。どうやって入ってきたの?ここは閉ざされていたはずよ?」
女性の咎めるような物言いに、アランは眩んだ意識を引き戻した。どうやら、今の自分は問い詰められているようで、宙に浮いている短剣はその答えを待っている。一体どういう理屈でそうなっているのかは分からないけれど、目の前の状況はアランの理解を待ってはくれなさそうだ。アランは仕方なく自分の立場を受け入れて、ゆっくりと口を割った。
「いや、どうやってって言われても——」アランは女性を見つめた。「ここへは——普通に、正面から入ってきました。扉が、開いていたので」
アランのたどたどしい言葉を聞き取った女性は、黙って短剣を見据えた。短剣は音もなく答え、真実を語っている。
「ふむ——おかしいわね」
女性は短剣の動きを見据えて、眉を寄せていた。どうやら何かしらの不都合があったようだが、アランにはその意図が分からない。女性は十分に短剣の動きを観察すると、アランに目を移して、冷たい声で言った。
「まあいいわ。では、何をしにここへ来たの?」
女性の新たな質問に、アランは慎重に言葉を選んで、ゆっくりと答えた。
「安全な場所を探して、ここに来ました。図書館に行けって、言われたから」
アランの回答に、短剣はまたしても動かなかった。黙ってアランのことを見据えて、嘘を待っている。
「盗みに来たわけではないようね。では、あなたの使命は?」
「使命?」
アランは眉を寄せて質問の意味を探った。使命なんて言われても、答えられるようなものは何もない。何もなければ語ることもないが、嘘を語るわけにもいかないだろう。アランは正直に口を動かした。
「使命って、何ですか?」
「は?」
女性は大きく目を見開いて、言葉を失っていた。アランは攻撃される可能性を恐れて、汗ばんだ手を握りしめた。女性はアランの様子にもう一度だけ目を凝らすと、ゆっくりと振り返って、短剣の動きに目を見張った。しかし短剣は微動だにせず、沈黙の中で真実を語っている。
「本気で言っているの?」
女性は驚きと共にアランを見据えて、瞳の中の真実を窺っていた。アランの瞳は真っ直ぐに女性を捉えて、剣の刃先に怯えている。
「もう一度聞くわ」女性は声を尖らせた。「あなたの使命は何?答えて」
アランは再び飛んできた質問に記憶をなぞった。しかし、やはり答えは見つからず、思い起こされるものは何もない。
「分かりません。本当です」
アランの答えに、女性は訝しみ、短剣の動きを見張っていた。短剣はやはり微動だにせず、アランの無実を語っている。女性は仕方なく短剣から目を離すと、もう一度アランに向き直って、瞳の中の真実を探った。少年の瞳は不安に揺れて、恐怖の色に染まっている。女性は息を吐いた。
「まさか、あなた——」女性は声をすぼめた。「どうやら、腰を据えて話す必要がありそうね」
女性はそう言うと、机の上のコーヒーに向かって手をかざした。するとコーヒーは音もなく浮かび上がり、女性に向かって流れていった。アランは堪らず悲鳴を上げて、大きく後ろに下がって、空飛ぶコーヒーから距離をとった。コーヒーは当たり前のように女性の手の平に収まり、小さな水面を揺らしながら、白い湯気をほんのりと揺らしている。
レベッカは言った。「そんなに、空飛ぶコーヒーが珍しいかしら?」
アランはぎこちなく答えた。「はい」
レベッカは小さく笑った。「ふふ、あなた、本当に何も知らないのね」
女性はそう言うと、机に歩み寄って、僅かに腰を乗せた。アランは少しずつ後ろに下がって、異質な魔法使いから距離を取った。女性はアランの様子を見つめながら、コーヒーを少しだけ啜った。その様子は落ち着きを取り戻していて、朗らかな雰囲気を醸し出している。
女性は言った。「あなたも飲む?」
アランは顔をしかめた。「今は——そんな気分じゃありません」
「そう」女性は短剣を見つめた。短剣は動かない。「本当にいらないようね。美味しいのに」
アランは息をついて、試すように言った。「今のは——魔法?」
「いいえ」女性は首を振った。「こんなことを魔法と言ってしまうのだから、あなたは確かに変人ね。全く、使命を自覚できないほどには」
アランは眉をひそめた。「答えに——なっていません」
「いいえ」女性はきっぱりと言った。「これで答えになっているの。その意味が分からないのなら、あなたはまだこの世界のことを何も知らないだけ。だから——」女性はアランを見据えた。「自己紹介から始めましょうか。私はレベッカ。あなたの名前は?」
アランはゆっくりと口を開いた。「アランです」
レベッカは少しだけ目を光らせた。短剣は動かない。
「アラン君ね。あなた、見たところこの場所に疎いようだけど、どこから来たの?出身は?」
「出身?」アランは眉を寄せた。「えっと、ヨークシャーです——あ、その、イングランドの」
レベッカは目を見開いて短剣に顔を向けた。しかし、やはり短剣は動かない。
「ずいぶんと、記憶の改竄を受けているようね。あなたは信じ切っているみたいだけど、その名前も出身も、きっとでたらめよ?重すぎる使命に、歪まされたのね」
レベッカは少しだけ悲しそうな目を向けて、言葉を続けた。
「アラン君。自分の過去を思い出せる?両親の名前は?昨日まで何してた?」
レベッカは一気に質問を浴びせ、アランはその質問に記憶をなぞった。しかし記憶は意味を繋げず、霧のように白く濁っていった。
「あれ?思い出せるはずなのに、思い出せない。どういうこと?」
「それが呪いよ。記憶とは役割に与えられるものであって、自由のために与えられるものではない。特にこの世界ではね」
レベッカはそう言うと、少しだけコーヒーを啜った。啜ったコーヒーは音もなく流れ、白い煙を散らしていった。
「でも、気に病む必要はないわ。記憶なんてなくてもみんな楽しくやってるし、亜人はその対価を受け取っている」
レベッカは少しだけ微笑んでアランのことを見つめていた。アランは眉を寄せた。
「その、亜人ってなんですか?僕たち人間とは違うんですか?」
「はあ?」
レベッカはアランの言葉に大きな声を上げて、眉を寄せて困惑していた。アランはレベッカの反応に息を呑んで、彼女の変化を見守っていた。レベッカはたっぷりと沈黙を味わうと、観念したように息を吐いて、短剣を手に取って柄を抑えた。そしてアランの瞳を正面から見据えると、ゆっくりと唇を動かした。
「アラン君、心して、答えてほしいのだけど——」レベッカは喉を鳴らした。「あなたは——人間なの?」
レベッカは自分の言葉に息を呑み、アランの様子を窺っていた。アランは汗を垂らした。
「はい——僕は人間です」
レベッカはすぐさま手元に目を落とし、短剣の動きを見張った。短剣は重く押し黙り、真実を語っている。レベッカは状況に眉を寄せて、おもむろに短剣を手放すと、短剣は何事もなかったかのように宙に浮かんだ。そして刃先をアランに向けると、静かに嘘を待っていた。
「噓でしょ?」
レベッカは驚きに目を見開き、短剣とアランを見比べていた。その焦りぶりに嘘はなく、彼女は心の底から驚いている。
「どうしましょう。壊れちゃったのかしら?まだローンが残っているのに」レベッカは泣きそうな声を漏らした。
アランはレベッカの様子に疑問が溢れ、ついにこちらから質問した。「どういうことですか?この短剣は、意味がなかったってこと?」
「いいえ」レベッカは首を振った。「決して、意味がなかったわけではないわ。少なくとも、あなたが特別なことは十分に分かった」
レベッカはそう言うと、おもむろに手をかざして、短剣の切っ先を少しだけ下げた。そして手に持っていたコーヒーを机に置くと、アランに向き直って言った。
「可能性はね、三つ——いえ、四つあるの。でもそれを説明するには——そうね、どうしたものかしら——」
レベッカは自分の言葉に唸りを上げると、口元に手を当てて、しばらくの間押し黙った。どうやら事情はかなり複雑なようで、レベッカは唇を擦りながら、必死に頭を巡らせている。アランは答えが導かれるのを期待して、その回答を辛抱強く待った。レベッカは十分に考えを巡らせると、おもむろに顔を上げて、冷たい声で言った。
「アラン君。君の記憶は、戦争以前の人間の記憶で再生されている。つまり、人間として果たすべき使命を持った、強力な存在ってこと。だから、今から私が教えることは少しだけショックかもしれないけれど——でも、心して聞いて。あなたの今後に関わる、大切なことだから」
レベッカはそう言うと、机から腰を上げて、正面からアランに向き直った。アランは話の流れが変わるのを感じて、汗ばんだ喉元を拭った。レベッカは少しだけ壊れた地球儀に目を向けると、アランと見比べて、鋭く眼を走らせた。いつの間にか、辺りの空気は凍ったように固まっていて、彼女はその静けさの中で、瞳の芯を青く光らせている。アランは息を呑んだ。
レベッカは言った。「アラン君。あなたは——人類が消えた後の世界って、想像したことある?」
「は?」アランは予想外の質問に面食らった。「人類が消えた後の世界?」
「ええ」レベッカは真剣な顔で言った。「小説や映画でたくさん出てきたと思うけれど、大抵は核戦争や伝染病で社会が崩壊して、ゆっくりと死を迎える。そんな結末が描かれるものでしょう?けれど——実際はそうじゃなかった」
レベッカはそう言うと、机に置かれていたランプに手をかざした。するとランプは宙に浮かび上がり、レベッカの頭上で壊れた地球儀を照らし出した。バラバラに四方に砕けた、どうしようもなく壊れた姿。アランはその姿を目で追いながら、脳裏によぎった可能性に息を呑んだ。
「まさか——」
「ふふ、気が付いたみたいね」レベッカはアランの様子を見て、いたずらっぽく笑った。「そうよアラン君。地球はね——壊れちゃったの。ご覧の通り、バラバラになって、崩れちゃった。だからもう、この世界に人間なんていない。あなたたちを支えていた物理法則は、とっくの昔に死んでしまったの」
レベッカは澄ました顔でそう言い放ち、アランの瞳を見つめていた。アランは飛び込んできた言葉を喉に詰まらせて、何も言い返すことが出来なかった。レベッカはアランの様子を見届けると、口元を押さえて小さく笑った。彼女は少しだけ、この状況を楽しんでいるようだ。
「いや——何を言っているんですか?」アランはレベッカを睨んだ。「地球が壊れた?人間が消えた?そんなこと——あるはずがない。だってぼくは——ここにいる。確かに生きて、両の足で立っている」
「それはどうかしら?」レベッカは不敵に笑った。「立っているからと言って、地球が今でも丸いとは限らない。この短剣が浮いているのと同じように、あなたも途切れた大地に浮いているだけなのかもしれない」
「は?途切れた大地に浮いている?」アランは大きな声を出した。
レベッカは笑った。「だってそうでしょう?あなたはこの世界のことを何も知らないのに、どうして世界の果てを語ることが出来るのかしら?見たことがないものに、確信を持つ手段はないわ」
アランはレベッカの言葉に黙り込んだ。この夜に出会ってからと言うもの、分からないことばかりがどんどんと増えていく。アランは顔を上げた。
「じゃあ、なんで地球は壊れたって言うんですか?その、白い隕石のせい?」アランは壊れた地球儀の下に埋まっている、月のような物体を見つめた。
「隕石——というか、これは月よ?あなたもよく知っているでしょう?」
「月——」アランは言葉をなぞった。「なんで、月が刺さって——」アランは月を睨み、言葉を失っていった。
「戦争があったのよ」レベッカはしたたかに言った。「今から三百年くらい前かしら。この地球の運命を巡って、大きな戦争があったの。それこそ、大地が裂けて、月がめり込むような、大きな戦争よ?」
レベッカは口元に微笑を蓄えながら、余裕を持って語っていた。アランは手を握った。
「その戦争で、あなたたち人類は、別の世界から来た侵略者と戦ったの。その侵略者たちは強力な軍隊と、魔法のような力を持っていて、まるで神様のような恐ろしい姿を再現していた。結果、戦争の規模は途方もないものになって、貧弱な物理法則の上でしか成り立っていなかった地球は、粉々に砕けて使い物にならなくなった。だから必要になったのよ。新しい世界が。新たなルールで成り立つ、現実を超えた世界がね」
「待って——待ってください」アランは声を振り絞った。「侵略者?新しい世界?いったい何を言って——」
「結論を言うわ、アラン君」レベッカは容赦なく言葉を突き立てた。「今のこの世界はね、あなたたちが作ったの。壊れた世界を繋ぐ際に、あなたたち人間が神様になって、この世界のルールを作った。だからこの世界は今も矛盾なく成立していて、砕けた現実の上で、こうして魔法が生きている。つまりは、この地球はね、もう昔の地球ではないの。半分が現実で、半分が幻想。今は名前を変えて、ノーマンズランドと呼ばれている」
アランはレベッカの言葉に息を呑み、告げられた現実に肩を震わせた。人間が神様になって、作り上げた世界?半分が現実で、半分が幻想?彼女はいったい——何を言っているんだ?
「待って——おかしいですよ」アランは震える声で言った。「人間が神様になって、世界を作っただって?そんなことを言われて、こんなものを見せられて、秩序も何も、あったもんじゃない。あなたの言っていることは全部、どう考えたっておかしいですよ」
アランは癇癪のように言葉を繰り返し、心の矛盾を吐き出していた。レベッカは黙ってその様子を見つめて、アランの変化を見守っていた。アランは自分の言葉に熱を上げて、さらに声を荒げていった。
「そうだ、おかしいことはまだまだある」アランはレベッカを睨んだ。「あなたは、地球が壊れたとか言っていたけれど、だったら何で、地球はこの状態で留まっているんですか?バラバラに砕けたのなら、破片は宇宙のどこかに散らばっていくはずだ」
アランの訴えに、レベッカは冷ややかに答えた。「そうね。確かにあなたの言う通り、この状態で地球が留まっているのはおかしいわね」レベッカは小気味良く笑った。「だからこの世界には、その隙間を埋めるための力が働いているのよ。あなたが小説や映画に馴染みのある人間なら、どういうものが必要か分かるでしょう?」
「必要って——」レベッカの問いに、アランはゆっくりと意味をなぞった。「そんな、地球をどうにかするような、大きな力——それってつまり、”魔法”って、言いたいんですか?」
「正解」レベッカは不敵に笑った。
「馬鹿げてる」アランは吐き捨てた。
レベッカは笑った。「だったら、砕けた地球を説明するだけの根拠を、あなたは提示できるのかしら?もしそれが叶うのなら、物理法則の復権を認めてあげてもいいけど」
レベッカの試すような視線に、アランは瞳を伏せて、息をひそめる様に黙っていった。目の前のすべてを説明するだけの根拠なんて、今のアランには——当然、思い当たらない。
「そうよね?君の沈黙の通り、あなたたちの大好きな常識とは、現実を説明するための論理よ」
アランはレベッカの冷たい声を頭の中で泳がせながら、流れ込んでくる言葉を必死に飲み込んでいた。確かに彼女の言う通り、ここに来るまでに見てきたものは、アランの知らない、おかしなものばかりだった。その全てが魔法によってできていたことだとするのなら、おかしい話には少しだけ意味が宿る。幻想の物語として、現実を超えたどこかで、物語のような筋道を立てる。アランは恐ろしい怪物の姿と、おかしな老人の言葉を思い出しながら、ゆっくりと顔を上げた。
レベッカはアランが言葉を飲み込んだのを確認すると、前に歩み出て、アランの目の前に立った。そしてランプの灯りで自分の姿を照らすと、後ろを振り返って小さな尻尾を見せつけた。
「見て」レベッカは尻尾を振りながら言った。「私たちは亜人というの。半分が現実で、半分が幻想の生き物。あなたたちが作って、そして残していった、ノーマンズランドの住人よ」
アランはぼんやりと、小さな尻尾を見つめた。レベッカの尻尾はどこかで見た、馴染み深い形をしていた。アランは意識の流されるままに言った。
「あなたは——犬なの?」
「正解」レベッカは微笑んだ。「最も、私は人間に近づきすぎて、犬の要素は薄くなっているけれどね。それでも、私はまだ従順さを失ってはいないわ。毎朝早くに書庫に来て、こうして司書の仕事を全うしている。なんでしたっけ、こう言うのを、社畜って言うんでしたっけ?」
レベッカは自分で言ったことに笑って、口元に手を当てていた。アランは震える声を抑えながら、目の前の光景に対して呟いた。
「これは——夢じゃないの?」
レベッカはもう一度笑った。「夢かどうかという話は、難しいところね。何を持って現実とするかはあなたたちが決めることだし、私たちにその決定権はない。そもそもその境目が曖昧になっているこの世界で、夢を語って目の前のことを否定する意味が、それほどの価値を持つとは私には思えない」
レベッカはそう言うと、アランにもう一度向き直り、真剣な顔で言った。
「アラン君。もし君が正しく人間なら、それはつまり、神の復活を意味しているの。この閉ざされたノーマンズランドに蘇った、ただ一人の人間。その価値は何よりも重く、何よりも尊い。だから気をつけて。軽い気持ちで人を名乗れば、その代償は君に災いとなって降りかかってくる。この世界はね、あなた達の作ったルールせいで、単純ではないの」
アランはレベッカの言葉に意識を奪われて、口を動かすことができなかった。人間がいなくなった土地で、唯一残ったただ一人の人間。もしそれが本当なら、アランはこの先、一体どうすれば良いのだろうか?
レベッカは言葉を続けた。「君は、自分の価値を自覚するべきだわ。この世界は、あなたたち人間が作った。だからあなたがその一端なら、あなたの行動には途方もない意味が宿る。不用意に剣を握れば、神の名のもとに新たな戦乱を生む可能性があるし、悪意を持って死を願えば、それは翻って、神の天罰にすらなり得る。あなたはまだ実感できていないかもしれないけれど、この世界はね、そういう風に出来ているの。あなたたち人間が作った絶対のルール、”人の呪い”は、今も正常に動作しているわ。だから私は、あなたの処遇に慎重になっている。アラン君。私の言っていることが、分かるかしら?」
レベッカは一気に捲し立てると、アランの瞳をじっくりと覗き込んだ。アランはゆっくりと言葉を飲み込んで、自分が言うべき言葉を探していった。
「いや、分かりません」アランは正直に、心の中を吐き出した。「あなたの言っていることは、すごく難しい。いくら丁寧に言われたって、ぼくには——どうしても分からない」
アランは息を吐いた。目の前のことを脳みそが理解していても、心が納得してくれなかった。少年の中にある十六年という人生が、アランの瞳を揺らしていた。
「でも——感じていることはあります」アランは自分の心を見つめながら言った。「ここがぼくの知っている場所ではなくて、どこか、遠いところなんだってことは、なんとなく、理解しました。ここに来るまでに見てきたものは、全部何かがおかしかったし、今肌で感じているものも、どう考えても普通じゃない。ぼくが知っている世界には、こんなものはなかったはずだ」
「そうね」レベッカは頷いた。「あなたの言う通り、この世界はもはや、普通じゃない。あなたの普通が常識なら、常識は遥か彼方に消えてしまったわ」
レベッカの言葉に、アランはどんどんと落ち込んでいった。自分がいつもの場所にいないという体験は、少年が想像していたよりもずっと心細いものだった。アランは瞳を落としていった。
「ごめんね。少し、脅かしすぎてしまったようね」レベッカはそんなアランを見て優しく言った。「色々と怖いことを言ってしまったけれど、実はね、そんなに焦る必要はないの。あなたみたいな亜人はたまにいるし、あなたは危険な思想を持っているわけでもなさそうだしね。だから大人しくしていれば、私がしかるべき対処をしてあげる。私はこれでもそれなりの立場の、それなりの亜人なのよ?」
アランは少しだけ顔を明るくした。「いいんですか?」
「ええ、もちろん」レベッカは微笑んだ。「私は保護や観察に造詣があるし、あなたに必要なものも大体見えてる。あなたが私の言葉に大人しく従ってくれるのなら、そんなに嫌な思いはしないはずよ?」
レベッカの優しい言葉に、アランは思わず息をついた。恐ろしい言葉の連続で、少しだけ自暴自棄になっていたけれど、こうして案内してくれる人がいるのなら、明るい未来も望めそうだ。アランは顔を上げた。
「本当に、助けてくれるんですか?」
「ええ、そう言ったはずよ?」
「ぼくのこと、騙したりしない?」
レベッカはアランを睨んだ。「あなた、ちょっと失礼ね。私がそんな風に見えるかしら?」
「いえ——すみません」アランは口をつぐんだ。
アランはレベッカの提案と、今の自分の状況を見比べて、取るべき選択肢を考えていった。今の自分には何もなく、お金もなければ、記憶すらない。こんな状況でいくらプライドを振りかざしたところで、得られるものは何もないだろう。アランは自分を諫めていった。
「レベッカさん」アランは言った。「色々と生意気なことを言って——すみませんでした。ぼくは——すぐには役に立てないと思うけれど、良くしてもらえるなら、助かります」
「ふふ——まあ、別に謝る必要はないわよ?」レベッカは笑みをこぼしながら言った。「あなたの置かれている状況は、十分に同情の余地があるし、私も面白くなって、少しだけ意地悪をしてしまったから。そういう意味ではお互い様ね」
レベッカの優しい言葉の数々に、アランはだんだんと心を許していった。目の前の不思議な女性は少しだけ言葉が強いけれど、決してアランに攻撃的ではない。それどころか彼女は好意的で、この世界のことを良く知っている。
レベッカは言った。「とりあえず、あなたは大支柱に行って、オモイカネ様の判断を仰ぐべきだわ」
「オモイカネ様?」アランは首を傾げた。
「この街の代表者よ。七つの仮面を持つ、悠久の愚者。あの人の力を使えば君の知りたいことも分かるだろうし、この街での身の振り方も教えてくれると思う。もし仮に、居場所が見つからなかったとしても、私が宿を紹介してあげるし、しばらくの面倒は見てあげるわ」
アランはレベッカの心遣いに感激した。「ありがとうございます、レベッカさん。そこまで案内してもらえるなら、ぼくも色々と準備ができるし、この先もきっと——何とかなりそうだ。でも——」アランは少しだけ顔を曇らせた。「ごめんなさい。ぼく、お金を持っていないんです。宿を借りたりとかは、出来ないかも」
レベッカは大きく笑った。「まさか、あなたからお金を頂こうだなんて、考えてはいないわ。全く、生意気なことを言わないで。あなたが納得できないのなら教えておくけれど、亜人はね、使命というもので動いているの。そして私の使命は、あなたを助けることでメリットがある。だからお金は必要ないわ。あなたの将来はきっと、私のためにもなるから」
アランは少しだけ安心した。理由は教えてもらえなかったが、レベッカが得をする何かがあるのなら、少しだけ心が軽くなる。
「えっと、それなら、よかったです」アランは息を吐いた。
「ええ、それに——」レベッカはアランの顔を睨んだ。「あなた、顔は結構好みだし。少し幼すぎるけれど、生意気そうな目つきはすごくいい感じだわ」
「え?」
アランは少しだけ面食らったが、レベッカのいたずらな表情と、言葉の意味をたどって、顔をしかめた。
「もしかして、馬鹿にしてます?」
レベッカは笑った。「うんうん、その小さなプライドを振りかざすところとか、堪らないわね」
アランは押し黙って、レベッカの言葉に不貞腐れた。どうやら目の前の亜人は、アランのことを子ども扱いしているようだ。
「それじゃあ早速向かいましょうか。日が昇る前に図書館を出れば、すぐにオモイカネ様に会えるはずだから」
アランはレベッカの言葉に頷き、解けた空気に肩を落とした。いつの間にかずいぶんと話し込んでしまっていたようで、緊張した筋肉は溜め息と共に解けていった。アランは来たときよりも明るい表情を浮かべながら、再び夜に繰り出す覚悟を決めた。
しかし、不意に感じ取ったざらざらとした感触に、アランは顔をしかめた。背筋を撫でるような、脳を直接揺するような、黒い舌触りの不愉快な感触。その感触はアランの五感を刺すようになじり、暗い恐怖を蓄えながら、真っ直ぐにこちらに向かって来る。
「レベッカさん。魔法って、気配も感じられるの?」
「え?」レベッカは眉を寄せた。「そうね、そういうものもあるけれど、一体どうしたの?」
「何かを感じます」アランは声色を強くした。「何かが、こちらに向かってきています。黒い感触が、空を飛んでやって来る」
「なんですって?」
レベッカはアランの言葉に声を低くし、眉を寄せていた。アランは確信を持って振り返り、そして叫んだ。
「ランプを消してください。急いで!」
レベッカは驚きながらも手を動かし、ランプを引き寄せて灯りを消した。アランは急いで隠れる場所を探し、机の裏に回り込んだ。黒い気配はすぐに大きくなり、ホールの中に入ってくるのを感じた。アランはレベッカの手を引いて身を潜め、ホールにつながる扉を睨んだ。
レベッカは小声で言った。「何が見えているの?」
「ぼくにも、よく分かりません」アランは焦る気持ちを抑えながら言った。「ですが、ここに来るまでも、ずっと変な気配を感じていたんです。色んな色の、色んな気配を感じていた。この世界が魔法でできているのなら、これは、そういう魔法なのかも」
アランは自分を納得させるようにそう言い切り、歯を食いしばって気配を追った。レベッカはアランの言葉に眉を寄せて、その内に秘められた意味を探っていた。
「もしかしたら、それが人間の能力なのかもね。気配を感じられるっていう、そういう力。だとしたら使命も読めてくるし、君は、重宝するかも」
レベッカは口に手を当てながら考えを巡らせていたが、アランはその言葉に頭を回している余裕はなかった。こうしている間にも気配はすぐそこまで迫って来ており、舌を痺れさせるような、不快な感触を伝えてくる。
「来ます」
アランが呟くのと同時に、図書室の入り口から黒い気配が割って出た。影は溶け込むように闇に身を潜めていたが、アランはその異質な姿を見逃さなかった。
黒い影は大きかった。しなだれた漆黒のフードに、闇を抱えた翼。体は馬のようにしなり、足は折れた樫の木のように歪んでいる。ぼろぼろのローブは泥に荒み、そこから伸びた歪な首は、邪悪な黄色い目玉に支配されていた。
アランは思わず息を呑み、その姿を見て固まってしまった。歪な姿は遠目に見てもおぞましく、溢れ出るような死の気配を垂れ流している。アランはその気配から思わず目を背けると、隣にいるレベッカの表情を確かめた。レベッカは焦りに瞳を揺らしていて、黒い影の動きに目を見張っている。
アランは堪らず質問した。「あれは何?」
レベッカは焦ってアランの口を塞いだ。〔馬鹿!音に出すな!バレるでしょう!〕
レベッカの声は脳内に直接響き、音を介さずに伝わっていた。アランは状況に置いていかれながらも小声で言った。「それ、どうやるの?」
〔ああ、もう!常識がないのって、なんて不便なのかしら!〕レベッカは苛立っていた。〔相手の心に伝わるように念じるの!特別な事なんて何にもない。簡単よ!〕
アランは言われるがままに心で念じた。〔こう?〕
〔そうよ。やればできるじゃない〕レベッカは少しだけ微笑んだ。〔見て〕
レベッカに言われて、アランは揃って顔を覗かせた。黒い影は入り口で首を伸ばして、室内の様子に目を這わしている。その姿はぎこちなく作り物のようだったが、どこか動物的な特徴を残していた。
〔あれはカラスよ〕レベッカは言った。
〔カラス?〕アランは眉を寄せた。
〔ええ〕レベッカは頷いた。〔あなたは知らないかもしれないけれど、ノーマンズランドでは、カラスは恐怖の対象なの。黒い翼で夜を駆け、強力な呪いが付与されたエストックで喉元を突いてくる、不死の怪物。それがカラスよ〕
アランはレベッカの言葉に息を呑み、カラスの姿を目で追った。カラスは本棚の上で翼を揺らし、爪を鳴らして闊歩している。その姿は邪悪極まりなく、視線を向けることすらおぞましい。
アランは言った。〔不死って——まさか、生き返るってこと?〕
〔ええ〕レベッカは震える声で言った。〔あいつの首元を見て〕
レベッカの言葉に従い、アランはカラスの首元を見た。そこには十字架のネックレスがたくさんぶら下がっており、互いに音を鳴らして揺れている。
〔十字架がたくさんぶら下がってるでしょう?あれが連中の不死の正体。カラスは十字架の数だけ、生き返ることができるの〕
アランは息を呑み、カラスの首元を目で追った。十字架は十個以上はぶら下がっていて、カラスの強さを静かに物語っている。
〔ぼくが知っているカラスとは、だいぶ違う〕アランは無意識にぼやいた。
〔それはそうよ。長い年月で変化して、昔持っていた意味は薄れかかっている。動物というよりは悪魔に近く、命の意味すら失った邪悪な存在。カラスは、世界一の嫌われ者よ〕
アランは自分の置かれた状況をゆっくりと飲み込み、危険な匂いに顔をしかめた。レベッカがここまで言うということは、カラスはアランが騒いでどうにかなる相手ではないだろう。その証拠に、肌を通して伝わる死の感触もだんだんと強くなり、アランの背筋をこれでもかと脅かしてくる。
〔アラン君〕レベッカは汗を垂らしながら言った。〔少しずつ回り込んで、出口から逃げましょう。カラスに見つかったら、二人とも終わりだと思って〕
アランはレベッカの言葉に静かに頷き、彼女の後に続いて、慎重に床を這っていった。這わした手はぎこちなく震えて恐怖を伝えていたが、アランは指先に力を込めて、むりやり恐怖を抑えた。レベッカは淀みなく床を進んでいき、アランを本棚の裏へと誘導した。アランは息を殺してついて行き、二人は少しずつカラスの死角に回り込んでいった。
二人が本棚の裏に身を潜めた次の瞬間、カラスは急にこちらに向き直り、翼を鳴らして宙に舞った。そして天井を擦るように羽を叩くと、壊れた地球儀の上に音を立てて降り立った。アランは思わず身を固くした。カラスは本棚のすぐ後ろ、アランたちから五分もない所に立っており、ひしゃげた首を伸ばしながら、黄色い目玉を振りまいている。
〔息を殺して——〕
レベッカの訴えに、アランは必死に息を殺した。二人は揃って身を固くして、永遠のような時の中を、身を凍らせて待ち尽くした。カラスは十分に時間を使って、周囲に人影がないことを確認すると、地球儀に爪を立てて、ひしゃげた首を机に伸ばした。机の上には飲みかけのコーヒーが置かれており、わずかに湯気を立てながら、人の痕跡を物語っている。
〔しまった〕レベッカは顔を青くした。〔コーヒーが飲みかけだったわ。最悪!〕
カラスはコーヒーの湯気を確認すると、顔を上げて、黄色い目玉を全体に振り撒いた。二人は本棚の裏で凍えながら、誰とも知れない神に祈りを捧げていた。
〔バレたかな?〕アランは言った。
〔いや、まだ大丈夫だと思う。位置まではバレていないはず〕
〔どうします?〕アランは汗を垂らした。
〔どうしようもない。落ち着いたら、慎重に出口に向かうしかないわ〕
レベッカはそう言いながら、瞳の奥を揺らしていた。本当は恐怖で震えているのを、必死に隠しているような瞳だ。アランはその瞳に晒されて、自分の中で小さな覚悟が出来上がっていくのを感じた。
〔ちょっと待って〕レベッカがアランを見て言った。〔あなたの胸元、何か光っていない?〕
レベッカに言われて胸元に目を向けてみると、服の下から青い光がぼんやりと浮かび上がっていた。まるで人肌のような、不思議な暖かさを感じる、青い光。アランは服の中を覗き込んだ。
〔これ、十字架だ〕
青い光の正体は、チェーンにぶら下げられた十字架だった。ちょうどカラスがぶら下げているものと同じように、胸元で揺れて、闇に浸かった二人の瞳を照らしている。
〔あなた、十字架を持っていたのね〕レベッカは驚いていた。
〔これ、カラスが持っているのと同じやつ?〕
〔いえ、似ているけれど、込められているマナが違うわね〕レベッカは十字架の中心についている宝石に目を凝らした。〔きっと、誰かがあなたの命を守るために首に掛けたのよ。十字架には強力な再生の力と共に、強力な加護の力があるから。でも、今この状況では、かえって危険ね〕レベッカは顔をしかめた。〔カラスは十字架に対して、強い執着心があるの。もしかしたら、あのカラスはこの十字架を狙って、ここに来たのかも〕
〔じゃあ、これを手放せばいいのでは?〕アランは十字架を見つめながら言った。
レベッカは口元に手を当てた。〔どうかしら。この十字架があなたの使命と大きく関わりを持っていたら、その選択は悪手になる。けれど——〕レベッカは言葉を繋ぎながら、カラスの姿に目を向けた。〔今はそんな悠長なことを言っている暇はなさそうね。アラン君。もしあなたが襲われたら、その十字架を投げ捨てて全力で走りなさい。カラスは十字架の呪いに囚われているから、十字架の価値を見過ごすことができない。囮にすることができるわ〕
レベッカの提案にアランは素直に頷いた。たとえこの十字架が貴重なものだったとしても、今を生き残ることができなければ持っている意味はない。アランはゆっくりと顔を上げて、カラスの姿を目で追った。カラスは少しだけ羽を揺らしながら、後ろを向いて、大きな物音を鳴らしている。アランは好機を悟った。
〔行きましょう〕
レベッカの声に続いて、アランは再び地面を這った。二人は反時計回りで本棚の裏を回り込んでいくと、出口の近くの机の下に潜り込んだ。アランはその隙間から瞳だけ覗かせつつ、カラスの姿を目で追った。カラスは羽を撒き散らしながら大きく翼を鳴らし、鋭い鉤爪で壊れた地球儀を握りしめている。その姿はまるで新たな地球の支配者のようで、歪な姿と相舞って、この世界の変化をその身を持って証明していた。
アランがカラスから視線を戻すと、目の前で揺れている奇妙な影が目に入った。レベッカのお尻から生えたその奇妙な何かは、机の端から先っぽを覗かせながら、上に向かってぴょこぴょこと跳ねている。アランは慌ててその先を掴んで、机の下に押し戻した。
〔ひ!?〕
レベッカは声にならない悲鳴を上げ、体を捩って背筋を曲げた。
〔ちょっと!急に尻尾を掴まないで!声が出ちゃうとこだったじゃない!〕
レベッカは声を荒げつつも、しっかりと念話は続けていた。アランは慌てつつも、異議を申し立てた。
〔だって、尻尾がはみ出していたから!〕
レベッカはアランを睨みつけた。〔だからって、いきなり掴むことはないでしょう!?あなたには、デリカシーってものがないの!?〕
〔いや、そっちが——〕
アランは思わず口答えしたくなったが、すんでのところで踏みとどまって、口を噤んだ。もしここで喧嘩でもしてカラスに見つかってしまったら、あまりにも情けなさ過ぎる。アランは大人になった。
レベッカはアランに対して大きく溜息をつくと、こちらに向き直って、真剣な顔を取り戻して言った。
〔いい?ここからは、カラスが後ろを向いたタイミングを見計らって、一気に外まで駆け抜けるの。外に出たら騎士隊のところに行って、後は何とかしてもらう。私が合図をしたら、音を殺して全力で走って。分かった?〕
〔分かった〕
アランは不安を隠して返事をし、ホールに続く道筋を目で追った。ホールまではそれなりに距離があり、やはり全力で走る必要がありそうだ。
レベッカはカラスに目を向けて、チャンスが来るのをじっくりと待った。カラスは黄色い瞳を図書館の奥に向け、本棚の裏を探っている。アランはその様子を見つめながら、声がかかる瞬間が近いことを悟った。
〔今よ!〕
レベッカの掛け声とともに、アランは音を殺して駆けていった。レベッカも並ぶように走っていき、二人は好調なスタートを切ったかのように見えた。
しかし、カラスはまるで分かっていたかのようにこちらに顔を向け、翼を鳴らして宙に舞った。そして一直線にこちらに向かってくると、大きな爪を光らせた。
〔バレてるぞ!?〕
アランの叫びと共に、レベッカは足を止めて振り返った。彼女は手を振って短剣をカラスに向けると、声を張って大きく叫んだ。
「十字架の神秘を冒すのは、人の行いに反するわ!攻撃して!」
レベッカの声に反応して、短剣は金の軌跡を残して消えた。カラスはその軌跡を目で追うまでもなく短剣に貫かれ、顔を割って落ちていった。
「やった!」アランは思わず歓声を上げた。
「だからやってない!すぐに生き返るんだから、早く走って!」
レベッカに叱られ、アランは慌てて足を動かした。レベッカも短剣を呼び戻しながら、必死にアランの後ろを追いかけてくる。
二人は揃って扉を跳ね除けると、白いホールに飛び出した。飛び出したホールは少しだけ灯りを残し、朝日に照らされた外の景色を覗かせている。二人は勢いよく階段を飛び降り、吸い込まれるように出口に向かって行くと、頭上から復活したカラスが降ってきた。カラスは二人の前に立ちはだかり、翼を広げて行く手を阻んでくる。アランはその復活の速さに驚きつつも、絶望的な状況に頭を白く飛ばしていた。
レベッカは叫んだ。「ニュルンベルク!奴の喉を裂いて!」
短剣は金の軌跡と共に舞い、カラスの喉元に吸い込まれていった。カラスは短剣を突き立てられ、少しだけ体勢を崩したが、すぐに足を踏ん張り持ち直した。その胸元は十字架の光に青く照らされていて、新たな命を脈々と吸っている。
カラスはそのままアランの姿を見定めると、胸元の十字架の裏から白い腕を伸ばした。黒い翼とは全く別の、白く病的な細身の腕。カラスはその”第三の腕”を真っ直ぐにアランに向けると、無骨な黒い塊を視界に揺らした。その揺れた塊は間違いなくアランの記憶にも存在していて、そして、その威力も心の内でよく知っている。そう——銃だ。
「アラン君!」
レベッカの叫び声と共に、意識を飛ばす怒砲が鳴り響いた。衝撃は音となって空気を伝い、アランの鼓膜を焼き付けた。アランは横から飛び込んできた衝撃に押し出され、四肢を投げ出して床に転がった。カラスは黄色い瞳を歪ませて、愉悦の心に浸っていた。
アランは痛みに気を向ける間もなく、起こったことに意識を向けた。カラスが銃を鳴らしたのは間違いなかったが、撃たれた痛みは流れてこない。アランはすかさず顔を上げると、周囲の状況に目を凝らした。
目を凝らした先には、真っ赤な色が広がっていた。見たものを恐怖に陥れる、悲劇の象徴の、真っ赤な色。レベッカはその赤色の中に身を埋めて、痛みに顔を引き攣らせている。アランは悲鳴を上げた。
「レベッカさん!」
アランはすかさず駆け寄って、レベッカの傷口を確かめた。傷口は肩を赤く染め上げていて、止まることなく血を溢れさせている。その光景は少年の心で受け止めるにはあまりにも恐ろしく、鮮やかな赤色は怯えた心を掻き乱した。
アランは出血を抑えようとレベッカに手を伸ばしたが、カラスはそれを待たなかった。カラスは再び腕を伸ばして銃を向けると、アランの体に照準を合わせた。アランはすかさず胸元に手を這わせ、十字架を握った。カラスは思惑を悟って瞳を歪め、思い通りの状況に笑い声を漏らした。
「アラン様!」
急に降ってきた黄色い影に、カラスは押されて吹き飛んでいった。光を割って現れたその影は、金色の触手をなびかせて、真っ赤な瞳でカラスを睨みつけていた。流れるような金髪に、燃えるような真紅の瞳。絡まった四肢は蜘蛛のように奇怪で、大きく膨れ上がった体は悪魔のように恐ろしい。しかし、感じ取れる気配は不思議と人間の感触に近く、アランの心に暖かく触れていた。
「あなたは下がっていてください!」
黄色い影は触手でカラスを押さえつけると、その何本かを束ねて大きな槍を作った。槍は鋭く螺旋を描いていて、金の光を迸らせている。黄色い影はその槍を高く掲げると、カラスの喉元に何度も突き刺していった。カラスはそのたびに命を散らし、十字架は一つずつ砕けていった。
しかし、カラスも抵抗を続けていた。カラスは鉤爪で槍を強引に受け止めると、白い腕を伸ばして黄色い影の中心に向けた。影の中心には少女の頭が覗いていて、銃口はその眉間に向けられている。カラスは容赦なく引き金を引き、銃弾は少女の眉間に吸い込まれていった。少女の頭は音と共に後ろに弾け、煙を上げて反響していた。
「そんなもの——私には効きませんよ」
少女は不敵に笑うと、真っ赤な瞳を光らせた。そして触手を伸ばして白い腕を捻じ曲げると、槍を振るって殺していった。カラスは成す術なく命を散らしていき、体を崩して死んでいった。少女の髪は赤く染まっていき、槍は血を舐めて滴っていた。
アランはその光景に目を見張り、あまりの衝撃に脳を震わせていた。目の前で起こっていることは、もはや人間が介入できるものではない。化け物同士の、血を混ぜた戦闘だった。アランは黙って成り行きを見守り、十字架を握って震えていた。
金の少女はたっぷりとカラスを殺すと、髪をほどいて姿を縮ませていった。カラスはすでに体を崩して小さくなり、白い砂に変わり果てている。少女はその様子を確認すると、瞳を戻して笑顔を作った。アランはその笑顔の前で十字架を握り、止まった時の中で言葉を失っていた。
「もう大丈夫です」
少女は透き通るような声を響かせながら、アランに向かって優しい微笑みを浮かべていた。アランは朝日に照らされた少女の姿を見つめながら、天使と悪魔の両方の姿をその身に重ねていた。少女はアランの無事を確認すると、レベッカに駆け寄って容態を確かめた。アランは何もできずに固まって、事の成り行きを見守っていた。
「安心してください、アラン様。命に別状はありません。亜人は、この程度では死にませんから」
少女はそう言うと、微笑みを作ってアランの心配を拭った。アランは少女の笑顔に胸を撫で下ろして、張り詰めた緊張の糸を少しずつ解いていった。
「アラン君」レベッカは声を震わせながら言った。「ごめんね。銃くらいなら、大丈夫だと思ったんだけど——私は、平気だから」
レベッカの言葉に、アランは拳を握った。レベッカの傷は、どう見ても浅くはない。しかし、目の前で繰り広げられていた戦闘を見るに、亜人というのはアランよりも何倍も強いのだろう。アランはレベッカの言葉を自分の心に言い聞かせて、溢れ出す不安から目を背けていった。
少女は言った。「とにかく、騎士隊のところまで行きましょう。話はそれからです」
少女は金髪でレベッカを包み込むと、器用にバランスをとりながら立ち上がった。アランはその様子を見つめながら、悴んだ手に力を込めた。あまりにも衝撃的な体験が続いたせいで、どうにも心が浮き足立ってしまっていた。アランは不思議な浮遊感を抱えたまま、少女の背中についていった。少女はそんなアランに気を使い、様子を確かめながら扉を押していった。
広場は少しだけ朝日に照らされて、綺麗な色を取り戻していた。幻想的な青い日差しと、現実的な広場の光景。二つの要素は幻想と現実の中で折り重なり、一つの世界となって息をしていた。アランはその光景に音もなく息をつくと、ゆっくりと運ばれてくる朝の空気に心を預けていった。どうにも、さっきから夢の中に迷い込んだかのように、強い眠たさを感じる。アランは重く垂れ下がってくるまぶたを擦ると、澄み切った朝の空気を吸い込んだ。吸い込んだ空気は肺を伝い、アランの意識を少しだけ引き戻してくれた。引き戻された意識は周囲の空間を伝い、まるでアランの油断を咎める様に、不吉な気配を知らせてきた。
頭上に舞い散る黒い羽根と共に、不死身の気配は現れた。今度は三つ。それぞれ交互に翼を交えながら、朝日を奪って舞い降りてくる。アランは息を呑み、少女に叫んで気配を伝えた。少女は空を見上げて、黒い姿に歯を嚙んだ。
しかし、黒い翼たちは一瞬にして地に落ちていった。朝日に隠されて、その姿を見定める間もなく、光の中に貫かれていった。アランはその様子を目で追っていたが、捉えたときにはすでに状況は終わっていた。
カラスたちは地に落ち、灰色の剣の前にひれ伏していた。黒い羽根が舞い落ちる中、髭を生やした大きな亜人が、黒い翼に剣を突き立てている。
「よう。久しぶりだな、アラン」
髭の亜人は低く轟く声で、アランの名前を呼んでいた。大柄な体躯に灰色の髭。曲がった鎧に紺色のチュニック。背に抱えられた大剣は無骨に佇み、窪んだ瞳は眼鏡の裏で経験の深さを物語っている。まさに歴戦の老剣士といった様相のその亜人は、黒い翼を転がしながら、余裕を持った表情でこちらを見つめていた。
「ふん、無事なようだな。安心したぜ」
髭の亜人は喋りながら腕を動かし、地べたのカラスの息の根を止めた。カラスは弱々しく動きをなくし、剣の威力に眠っていった。
アランが髭の亜人の姿に呆けていると、新たな亜人が塀越しに降ってきた。降ってきた姿は二つ。その姿はどこかで見た恐ろしい姿だったが、今は朝日に照らされて頼もしく見えた。
一人は、タコの姿をした化け物だった。宿や街中で見た姿と同じ、宇宙人のような見た目の、不思議な亜人。彼は剣と盾を持っていて、カラスに近寄ると、盾で抑えて息の根を止めた。
もう一人は、蒸気の巨人だった。街中ですれ違った、機械の鎧の大きな亜人。彼は巨大な斧を大きく振りかぶると、動けないカラスの首を容赦なく跳ねた。カラスはなす術なく首を転がして、戻した傍から死んでいった。
その光景を目で追いながら、金髪の少女が声を上げた。「みなさん、どうしてここに?」
髭の亜人が言った。「通報があったんだ。頭のおかしい爺さんから。人間を名乗る少年が、街を彷徨ってるってな」
少女は髭の亜人の言葉に頷いて、笑顔を作っていた。アランは流れ込んでくる言葉を耳に入れながら、ぼんやりと状況を追っていた。髭の亜人はそんなアランを心配したのか、剣をしまいながら、大股でこちらにやってきた。
「大丈夫か?」髭の亜人は言った。
「あ、ああ——大丈夫」アランは震えた脳みそを起こしながら言った。
「アラン、俺のことを覚えているか?」
「え?」
アランは言葉の意味を辿って、目の前の大きな亜人を見上げた。その姿は間違いなく初対面のはずなのに、どことなく焦がれるような懐かしさを感じる。アランは記憶をたどって、その感覚の正体を探った。しかし、いくら記憶の底を探ってみても、やはりそれらしい姿は記憶に無かった。アランは正直に言った。
「いや——覚えていないな」
「そうか——」髭の亜人は少しだけ、寂しそうな顔をした。「まあ、仕方がないかもしれんな。こうして無事に出会えただけでも、良しとしよう」
髭の亜人はそう言うと、寂しそうな顔を隠して、アランに対して穏やかな雰囲気を作った。その様子はやはり懐かしい感覚に満たされていて、裏にそびえる過去を感じさせている。アランはもう一度記憶を探って、その意味に瞳を揺らしていると、塀の外からまた別の亜人が降ってきた。今度はウサギの耳をつけた女性の亜人で、赤と白のスリムなスーツに身を包んでいる。
「後は任せて、イリスちゃん」
ウサギの亜人はそう言うと、金髪の少女からレベッカを抱きかかえて、そのまま大きく跳ねていった。少女はその様子を微笑みながら見届けて、ウサギの後ろ姿に手を振っていた。
少女はアランに向き直って言った。「アラン様。嵐は過ぎましたし、一足先に宿に戻りませんか?シャワーを浴びて、朝食をとりましょう」
アランに向けられた少女の言葉に、髭の亜人が反応した。「お嬢、だったらアランに事情を説明しておけ。俺は片付けが終わってからいく。いいな?アラン」
二人は黙って目を向けて、アランの反応を待っていた。アランは何となく頷いて、事の成り行きに従っていった。
アランは連れられるままに少女の後を追い、図書館の門をくぐっていった。大きな門は青い日差しに照らされて、黒い壁面に水の波紋を揺らしている。アランはその様子を追いながらぼんやりと進んでいくと、水の波紋の向こうから、朝日に照らされた街の全容が目に飛び込んできた。
街は、青く輝いていた。青い太陽は街全体を照らし、黒い空はその光を水面のように反射している。視界一杯に広がる街は色に溢れ、珊瑚色の柱と、その柱に埋まるように建てられた西洋風の建物。建物は白い石造りで丸みを帯び、その周りは遊びに満ちた装飾で彩られている。光の粒が立ち並んだ街道は、柱を伝って縦横無尽に走り巡らされ、まるで脳細胞の様に立体的な街並みを作り出している。中でも目に付くのは宙に浮いている光の糸で、糸は七色に輝きながら、街の中を魚のように泳ぎ回っている。どこか幻想的で、どこか未来的でもある美しい景色を前に、アランは静かに息を呑み、ゆっくりとその景色に浸っていた。
少女は言った。「これが私たちの街、コーラルシティです」
アランは振り返った。街の名前を知って、少女の言葉を追った。
「やっぱり、待ちきれませんね」少女は笑った。
「改めて、自己紹介をさせていただきます。私は造顔師イリス。あなた達の神話を信じ、あなたの帰還を待ち望んでいたものです」
イリスはそう言うと少しだけ前に歩み出て、胸に手を当て、首を傾げて微笑みを浮かべた。
「おかえりなさいませ、アラン様」
アランはその微笑みに懐かしい何かを感じ、口をついて言葉を繋いだ。
「ただいま——イリス」
イリスは満面の笑みで少年を迎えていた。
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