呪い物語

榎屋

プロローグ

 雨露が染み込んだ樫の木を背に、少女は空を見上げて、白い吐息を漏らした。冷たく閉ざされた夜の空に向かって、密やかに捧げる様に。当てつけた吐息は緩やかな風に晒されて、世界のどこかに流されていった。少女はその様子を見つめながら、人の温かさを思い出していた。

「まだかな——」

 セナがこの森に身を潜めてから、すでに数時間が経過していた。その間セナは木陰で雨露を凌ぎながら、身を固くして仲間の連絡を待っていた。全てが予定通りに進んでいるのなら、そろそろ何かしらの連絡があってもいいはずだ。セナは溢れ出す期待に身を焦がしながら、静まり返った闇の中で息を潜めていた。

〔セナ——〕

 誰かが呼ぶ声を感じ取り、セナは反射的に顔を上げた。静まり返った闇の中で、確かに聞こえた微かな声。セナは目深に被っていたフードを押し上げると、真っ黒な闇に向かって目を凝らした。闇は次第に姿を割って、小さな人影を現していった。

「セナ、私よ」

 木々の合間から現れたのは、セナの良く知る、馴染み深い姿だった。小柄な体躯に深紅のローブ。フードの隙間から見える金髪は流れる様に美しく、揃えられた前髪の下からはエメラルドの瞳が覗いている。まるで双子のような、自分とそっくりな顔をした少女の姿に、セナは思わず口端から笑みをこぼした。リアもそれに応える様に笑い返し、二人の間に一瞬の安らぎが訪れる。

「リア——無事でよかった」

 セナはリアに向かって優しく声をかけると、体を寄せて、樫の木の下に小さな場所を作った。リアは小走りでその場所に収まり、二人はまるでお揃いの人形の様に、隣り合わせで身を寄せ合った。

「どうだった?」セナはリアの瞳を追った。

「最悪ね。追ってきている連中の中に、黒翁がいるわ。私、アルタの谷まで行ったんだけど、宵の切れ目に、確かに見たの。大きな黒い翼の化け物が、亜人の喉を串刺しにしているのをこの目で見た。あれは——あの恐ろしい姿は間違いない。月の盗人、黒翁だったわ」

 リアの言葉に、セナは思わず息を呑んだ。覚悟はしていたつもりだったけれど、いざその名前を聞くと、どうしても心が委縮してしまう。

 黒翁。今もセナたちを追っている、恐ろしい敵。黒い翼で夜を駆け、強力な呪いが付与されたエストックで喉元を突いてくる、不死の怪物。セナの仲間たちの命をいくつも奪い取ってきた、因縁因果の宿敵だ。

「どうする?」セナは震える声で言った。

 リアは瞳を落とした。「こうなったら予定を変更して、北に向かうしかないわね。少し危険な道筋になるけれど、月明りの丘を越えて、ミッドランドに添うように進めば、連中も簡単には手出しできないはず。仲間と合流することはできなくなるけれど、このまま谷に向かうよりはましだし、最低限、使命も果たせる。どうかしら?」

 リアの提案に、セナは返事を返すことができなかった。ここから北に向かう道筋は、決して安全では無い。谷に向かうよりはましだと言っても、どちらにせよ生き残れる可能性は限りなく低い。セナは自分たちの置かれた状況を悟って、静かに瞳を揺らしていった。

「やっぱり、それしかないのかな」セナは震える声で言った。

「仕方がないわ。黒翁は強力で、どうしようもない化け物よ。このままここで手をこまねいていても、囲まれて身動きがとれなくなってしまうだけだし、谷を迂回しても、連中の数の暴力には抗えない。だったら、進路を大きく変えて、奴らの監視から逃れるしかないわ」

「そうだよね、でも——」

 セナは声を小さくしながら、そのまま俯いて黙り込んでしまった。リアはそんなセナを見つめて、優しく言った。

「セナ、十字架を出してくれる?」

「十字架?いいけど——」

 リアの言葉に従って、セナは胸元から十字架を取り出した。十字架は音もなく輝き、その内に強力な力を溜め込んでいる。

「ほら——思い出して、セナ。私たちの使命は、この十字架を守ることよ?そのために命を懸けて戦ってきたし、たくさんの想いを背負ってきた。私たちが今、こうして一緒にいられるのは、その小さな積み重ねがあったからなのよ?それなのにあなたは、その全てをここで捨ててしまうつもり?」

 リアの言葉に、セナは黙って俯いた。彼女の言葉は正しかったが、今のセナには少しだけ煩わしく思えた。セナは自分の心の声に罪悪感を感じて、口元を小さく結んだ。リアの言葉に苛立ってしまうなんて、自分はなんて臆病なのだろう。

 リアはさらに言葉を続けた。「だからもう少しだけ、頑張ってみましょう?私たちが最後まで頑張れば、きっと神様だって、私たちの努力を認めて、力を貸してくれるはずだわ。それにいつだったか、ママも似たようなことを言っていたでしょう?世界はきっと、そういう風に出来ているはずだからって。そう思えば、頑張る気にならない?」

 リアはそう言うと、瞳の中に小さな光を宿しながら、セナの反応を待っていた。セナはその光に当てられながら、ぼやくように言った。

「リアの言っていることは分かるよ。私だって、頑張りたいとは思っている。けれど——」セナは顔を上げた。「結局さ——そこまでして、私たちが頑張る必要って、本当にあるのかな?黒翁はこうしている間にもどんどん力をつけているし、”彼”が目を覚ましても、黒翁に勝てる保証はない——」

 セナの言葉に、リアは目を見開いた。「セナ、あなたまだ——”彼”を疑っているの?」

 セナはリアの反応に声を尖らせた。「だって、私はもっと、筋肉がムキムキの、逞しい男の人が来ると思っていたから。それなのに、”彼”はどう見ても子供だったし、ムキムキでもなかった」

 セナの言葉に、リアは呆れ果てた目を向けた。「出たわね。セナの筋肉好き」

 セナはリアを睨みつけた。「だってそうでしょう?あんなに細い腕で、どうやって剣を振るうの?あんなに細かったら、黒翁にちょっと踏まれただけで、骨が折れてしまいそう。とても、化け物に勝つなんて無理よ」

 セナの言葉にリアは溜め息をつくと、声を尖らせて言った。「あのねぇ、”彼”の力が本物だってことは、ママが実際に目で見て確認しているし、”彼”が子供なのは、まだ可能性が未知数だっていう証拠なの。だからこの先、”彼”が目を覚まして、剣の修行を重ねたら、きっと強力な力を発揮して、黒翁たちをボッコボコのギッタンギッタンにしてくれるわ」

 リアは力強く言葉を重ねながら、セナの瞳に勇気を送っていた。セナはその瞳に当てられて、ぼんやりと答えた。

「そうなのかな——」

「ええ、きっとそうよ」

 リアはそう言うと、手をついて立ち上がり、セナに正面から向き直った。

「だから信じましょう?”彼”の——人間の力を。人間っていうのはね、いつだって可能性の塊で、私たちが想像もつかないことをやってきたんだから。だからきっと、今回だって間違いがないわ」リアは拳を握って、自信満々に語った。「それに、最初に頑張ろうって言い出したのは——セナ、あなたよ?十字架を託してくれた仲間のためにも、最後まで諦めずに頑張ろうって、そう言ったのは——あなたなのよ?私、あの時すっごく感動したんだから。これから何があっても、あなたのために最後まで頑張ろうって、本気でそう思ったのよ?」リアはそう言うと、セナに向かって手を差し伸べて、優しい笑みを作った。「だからもう一度、私に勇気をくれる?セナ。あなたが頑張るって言ってくれたら、私も最後まで頑張るから」

 セナは差し伸べられた手を見つめて、ゆっくりと息を吐いた。確かにリアの言う通り、最初に頑張ろうと言い出したのはセナだった。託された十字架のために、仲間の想いに応えるために頑張る。信頼してくれた友達のために、支えてくれた家族のために頑張る。臆病な性格のセナにとって、そういった誰かのために頑張るという気持ちは、自分の弱い心を奮い立たせるための、たった一つの手段でもあった。

「そうだね——リアの言う通りかも」セナはゆっくりと顔を上げた。「私、いつの間にかずいぶんと弱気になっていたみたい。夜の闇に当てられて、心細くなっていたのかな。けれど、そんなことを言っている場合じゃないよね。この十字架を受け取ったからには、最後まで頑張らないと」セナはリアの手を握って、足に力を込めて立ち上がった。「それに、もしかしたら”彼”が筋トレ好きで、すっごいムキムキになってくれるかもしれないし、希望を捨てるには、まだ早いよね」

 セナはそう言うと、リアに向かって満面の笑みを返した。リアはその笑顔につられて、小さく笑った。

「ふふ、立ち直ってくれたのは嬉しいけれど——あなたは少し、筋肉から離れた方がいいわね。”彼”が、かわいそうだから」

 リアの突っ込みともとれる切り返しに、セナも小さく笑った。二人はお互いの心を分かち合うと、握った手の平に力を込めた。二人の友情は黄金の糸となって姿を現し、静かな夜に昇っていった。

「じゃあ、早速向かいましょう。時間が惜しいわ」

 リアの言葉に従って、セナは足に力を込めた。ミッドランドに向かうなら、月明かりの丘を越えて、それなりに走る必要がある。二人は目線で合図を交わすと、夜の森に向かって走り出した。

 しかし、走り出して間もなく、セナは急に強い目眩に襲われて足を止めた。唐突に襲ってきたその目眩は、眩んでいる間にも見る見るうちに大きくなり、セナの瞳を覆ってくる。そして一度身を潜めたかと思うと、緑の大きな光となってセナの心を覗いてきた。セナは堪らず悲鳴を上げて、顔を覆ってその場にうずくまった。

「セナ!?」

 リアが異変に気づいて足を止めた。セナの悲鳴に驚いて、目を見開きながらこちらに走ってくる。

「どうしたの!?」

 セナは声を振り絞った。「何か——大きな緑の光が、私を見てる!」

「緑の光?」リアは眉を寄せた。

「ええ——光よ。緑の、大きな光。いや、これはたぶん、光ではなくて瞳だわ。照らしつけるような溶けた緑と、そこに宿る歪な欲望。これは、まちがいなく——」

 セナの唯ならない様子に、リアは慌てて近寄ってきた。セナは危険を悟って、大きな声を上げた。

「触らないで!」セナは片手で制して、リアから距離をとった。「これが奴の呪いなら、黒翁はきっと——私を狙ってきている。私の心が弱いから、こうやってつけ込もうとしているんだ。だから——」

 セナが言葉を言い終える前に、リアは素早く近寄って、セナの頭に両手を回してきた。セナは驚いて顔を上げると、そこには優しく微笑んだリアの顔があった。

「大丈夫よ、セナ。私たちは今まで、たくさん頑張ってきたでしょう?色々なことを乗り越えて、心を強く育ててきた。そんな私たちの心は、少し脅かされた程度で、そう簡単に明け渡せるものではないわ。だから、心を強くもって、私を見て。奴の呪いになんか、かかっちゃだめ」リアは言葉に祈りを込めると、顔を近付けて、セナの額におでこを当てた。「それに、私は知っているわ。あなたが本当は心が強くて、誰よりも仲間を大切に思っていることを。私は、あなたのそんなところが大好きなんだから」

 リアの溢れた感情にセナは勇気をもらうと、もう一度心を静めて自分の意識に集中した。もしこれが黒翁の呪いだとしたら、確かにリアの言う通り心を強く持たないとだめだ。セナはゆっくりと目を閉じると、記憶の中にある仲間たちとの時間をなぞるように見つめていった。小さな思い出は少しだけ力になって、掴まれたセナの心をゆっくりと解放していった。思い出の中の人影はぼやけた現実と重なって、リアの笑顔を視界に迎えてきた。

「うまくいった?」リアは笑顔を向けた。

「なんとか——なったと思う。ありがとう、リア。今のは少し——危なかった」

 セナが笑顔を作って感謝を伝えると、リアは笑顔でそれを祝福してくれた。やっぱりリアは、どこまでも優しく励ましてくれる。どんなに辛いことがあっても、ここまで戦ってこれたのはリアのおかげだ。セナは彼女の笑顔を通して、親友というものの暖かさを噛み締めていた。

 セナは片膝をついた足を持ち上げると、頭を振って、再び走れることをリアに告げた。そして目の前に広がる闇に目を向けると、崩れた心に勇気を込めた。

 しかし、見据えた先の闇の中で、セナは小さな影が揺らめいているのを感じた。それは黒く塗りつぶされた夜の中でも一際黒く、浮かび上がるような存在感を放つ漆黒の羽根。セナはその舞い落ちる不吉の予兆に思わず身を固くして、そして叫んだ。

「リア!」

 叫んだ時には、もう遅かった。リアが反応するのと同時に、彼女の喉元から銀の光が迸った。セナは思わず悲鳴を上げた。生まれたときから何度も教えられてきたセナたちにとって、この銀の揺らめきは見間違うはずもなかった。仲間たちの命をいくつも奪い取ってきた忌まわしき銀色。黒翁の得物、死のエストックの輝きに間違いない。

 セナは咄嗟にリアの手を引こうとした。しかし、リアの背後の闇の中から悠然と割って出てくる存在感に、思わず手を止めた。この感じ、この存在感は間違いなかった。普く勇気を打ち砕き、友への友情も、家族への愛も、須らく一笑に付してしまうような絶対の黒。この大陸でもっとも邪悪な存在、黒翁の圧倒的な存在感を前に、セナの五感は痛いほどの警鐘を鳴らしていた。

 セナの体は動かなかった。本当は今すぐリアを抱きしめて、全力で逃げなければいけないはずなのに、まるで張り付けられてしまったかのように体が言うことを聞かない。揺らいだ視界は広がる闇に染まっていき、霞んだ意識は成す術なく闇の底に沈んでいった。セナは息が詰まって胸を抑え、自分の運命がここで終わってしまうことを確信した。

 しかし、そんなぼやけた視界の先で、リアがこちらに向けて何かを言っているのが目に映った。彼女は突き出た刃を抑えつつ、セナに向かって何かを必死に訴えている。

「走って!セナ!」

 リアは大きく叫ぶと、そのままうずくまって、喉元から突き出た刃を握りしめた。そして瞳の奥を青く輝かせると、全身を黄金のオーラで包み込み、体を結晶の様に変化させていった。その変化はまさに魔法のようで、奇跡と呼ぶにふさわしい。リアはゆっくりと顔を上げた。

「大丈夫——絶対に放さないから」

 セナは驚きのあまり、リアを見た。セナには彼女が言っていること、やりたいことがすぐに分かった。リアは、間違いなくこう言っている。私が魔法で抑えている間に、早く走って逃げろと、こう言っているのだ。

 無理だよリア、私にはできない。

 セナは手に取った十字架を握りしめて、目の前の現実に、突きつけられた選択肢に絶望していた。リアの喉元から突き出た刃は、覆すことのできない死の力で満たされており、彼女が使っている魔法は、命を賭して叶えられる最後の魔法だ。目の前の全てが夢でないのなら、すがることの出来ない運命の分岐路に、セナは立っている。

 今、セナが取れる選択肢は——たった二つしかない。

 勇気を言い訳に目の前の死に向かって行くか。

 信頼を言い訳に背後の闇に逃げ去って行くか。

 二つに一つだ。

 セナはもう一度十字架を握りしめると、リアの姿を目で追った。彼女は小さな体を震わせながら、黒い気配に臆することなく、必死に刃を握りしめている。その瞳は決意に青く輝いていて、そして、その口元はセナに向かって優しく微笑んでいた。

 リアは——私の事を信じている。

 セナは自分の心に鞭を打ち、固まっていた足に力を込めた。そして視線を区切る様に後ろを向くと、背後の闇に向かって走り出した。涙だけが尾を引くように後ろに流れて行ったが、セナの決意は全力で彼女の足を動かした。信頼を大切にする少女、セナの仲間を想う優しさは、彼女を闇に向かって推し進めた。

 リア——ごめん。

 セナは暗く淀んだ森の中を、一心不乱に走った。森の闇は彼女の選択を笑い、不安となって襲ってきた。セナは涙と一緒にその不安を拭い去ると、リアの瞳を思い出して、意識の中に力を込めた。もう——後戻りすることはできない。今はリアのことを信じて、全力で足を動かすしかない。

 セナが決意を固めてすぐに、前方から小さな羽音が迫って来るのを感じた。セナは腰に下げていた短剣を手に取ると、一呼吸して腰だめに構えた。

 やはり、手下を連れて来ていた。

 こうなったら、やるしかない。

 セナは闇に目を凝らして敵意を向けると、握った短剣に力を込めた。彼女の決意は魔法となって刃を伝い、小さな剣に力を与えた。

 枝葉の隙間を潜り抜ける様に、暗がりから黒い影が飛び出した。セナは器用に木々を盾にしてその攻撃を掻い潜ると、羽ばたく影に向かって短剣を撫でつけた。研ぎ澄まされた集中力から繰り出された一線は、正確に襲い来る影を斬り付けると、次々と新たな脅威を撃ち払っていく。セナは自分の意識がかつてないほど高揚しているのを感じた。窮地に追い込まれることによって生まれた強力な意志は、セナの体を限界を超えて突き動かした。

 来るなら来い。全部切り刻んでやる!

 一体どれほどの敵を斬り伏せたのだろうか。闇の中を我武者羅に突き進んだ結果、セナはいつの間にか森を抜けて、真っ赤な月明かりの広がる平原へと足を進めていた。背後から迫り来る脅威に背中を押されつつも、月に照らされた美しい景色に、彼女の歩幅は自然と緩やかになった。

 なんとか、ここまで来ることができた。この平原を抜けて、廃墟の広がる丘さえ越えれば、そこにはもうミッドランドが広がっている。ミッドランドに近づいてさえしまえば、黒翁の追撃もある程度は収まるだろう。もちろん安心するにはまだ早かったが、セナはリアのことを思い出して、誇らしい気持ちが抑えられなかった。

 セナが顔を上げて、照らし出されている廃墟に目を向けたとき、夜に揺らめく一枚の羽根が視界に舞い込んできた。それは、霞んだ視界の中でもはっきりと存在感を放つ漆黒の羽根。セナは反射的に足を止めると、騒めく心に目を背けながら、頭上に佇む月を見上げた。

「そんな——」

 少女の儚い希望を打ち砕くように、黒い恐怖は確かにそこに在った。赤く差し込む月明かりを背に、黒い大翼を悠然となびかせている。黒翁は少女を舐めるように見下ろすと、大きな体躯で月を飲み込みながら、セナの眼前に舞い降りた。セナは思わず後ずさりした。漆黒のローブに身を包んだ体は山の様に大きく、背後から伸びた両翼は夜空を包み隠すほど大きい。馬の様に反った胴体からは立ち昇る様に不気味な首が伸びており、その先にはフードですっぽりと覆い隠された頭部と、黄色に光る邪悪な目玉が覗いている。首元には数え切れないほどの十字架がぶら下がっており、獲物に見せつけるかのように鈍くくすんだ輝きを放っている。黒翁は巨大な背を折る様にして少女を覗き込むと、がらがらと喉を鳴らして、不気味な笑い声を夜に響かせた。

「哀れだな」黒翁は声高に語った。「取るに足らない使命に踊らされ、つまらない死に身を埋める。亜人とは、全くもって哀れなものだよ」

 黒翁はそう言うと、漆黒の翼を大きく広げて、少女の空から月を奪った。セナは視界を黒く塗りつぶされ、闇に染まってゆく自らの心に足を震わせた。

「なんで——」セナは口をついて疑問が漏れた。

「なんで?——なんでだと!?」黒翁は大きく唸った。「そうやって疑問を持つ心を持ちながら、どうして使命に身を捧げることができる?どうして世界を疑わずにいられるんだ!?目の前の光景を受け入れて、感情に身を委ねることを良しとするならば、その運命を呪う意味が無いだろう!全く——本当に理解しているのか?貴様らの短慮と無知が足を引っ張り、この世界に楔を作ってしまっているということを!」

 セナは黒翁の怒声に身を震わせつつも、目の前の光景に眉をひそめた。

 いったい——何を言っているの?

 セナには黒翁が何を言っているのか分からなかった。目の前の黒い怪物は、セナには目もくれずに何かに対して怒っている。セナは息を呑んで後ずさると、その光景を固唾をのんで見守っていた。

「全く、それに気が付かないから、こうやって無意味に遊びに使われるのだ。取るに足らない命と見限られ、娯楽の一つに消費される。せめてそれを惜しむというのなら、命を持って私を楽しませて見せろ?そうすれば、一触に闇に伏す静かな死をくれてやる。丁度——そう、こいつのようにな」

 黒翁の語りに合わせるように、空から小さな物体が音を立てて落ちてきた。小柄な体躯に深紅のローブ。流れるような金髪にエメラルドの瞳。セナが誰よりもよく知っている、誰よりも愛おしい姿が、そこにはあった。

「リア!」

 セナは意識よりも先に駆け寄って、リアの前に膝をついた。力なく変わり果てた彼女の体は、冷たい地面の上でぴくりとも動かなかった。小さな瞳は固く閉じられ、元気に動いていた唇は彫刻の様に固まってしまっている。魔法で変化した肌は結晶の様に硬質化し、折れた節々は毒に侵されて歪な形に歪んでしまっている。セナは涙を呑んで彼女の様子に目を伏せると、そっと体を寄せて、労うように抱きしめた。身を凍らせるほど怖かっただろうに、最後の最後まで勇気を見せてくれた。そんな彼女の勇気は、間違いなくセナに大きな力を与えてくれた。セナはもう一度だけリアの冷たい頬に顔を寄せると、夜に溶けていく光の筋を見送った。

 天に昇って行く光の筋を見送ったとき、セナはあることに気が付いた。リアが降ってきた先、その夜空の中に、無数の黒い翼がはためいている。黒い翼は夜を埋め尽くすほど大きく広がり、互いに罵り合いながら、セナの無力を笑っていた。

「やっと気が付いたか」黒翁は大きく笑った。「お前の行動は全て予定通りなのだ。仲間を置いて逃げることも、この場所に走って来ることも、何もかもだ」

 黒翁はそう言うと、セナに向かって身を乗り出した。セナはその威圧感に押し出され、草地を割って身を引いた。

「私は知っているぞ。お前が仲間の中で一番臆病で、力が弱いことを。だから最後に獲物にし、こうして罠を張っていた。お前たちはその心を優しいだとか、頑張っているだとか抜かしていたが、そんなものは全てまやかしだ。結果は御覧の通り——読みやすい心は枷となり、こうして窮地を作り出している」

 黒翁は言葉の節目に大きく翼を鳴らすと、それに応えるように周囲の草藪が動き出した。動き出した草藪は瞬く間に無数の影を形どり、セナの周りを取り囲むように円を成した。セナは短剣を握り直して、ゆっくりと立ち上がった。そして、小さく息を呑んで心を落ち着けると、逃げ場のない状況に覚悟を決めた。

「お前たちの敗因を教えてやろう。そう——それは盲信だ。お前たちは常に人間の感情に振り回されてきたが、その価値に疑問を持つことをしなかった。だからこうして小さな世界の中で、無力に溺れて腐ってゆくのだ。友への友情も、家族への愛も、そんなもの、このノーマンズランドではなんの役にも立たない。人間によって破壊され、嘘によって支配されたこの世界を欺くには、そんな小さな感情に頼ってはいけないのだ。真にこの大陸で生きながらえたいのなら、必要なのはたった一つだ。それは、世界を欺くための力。そう——つまりは神をも殺す、絶対的な力だけなのだよ」

 黒翁の語りは、もはや少女に向けたものではなくなっていた。自らの研鑽を誇るように、世界に語り掛けるように、静かな夜にはっきりと響いていた。黒翁は自らの高揚感に息を鳴らすと、十字架の隙間から白い腕を伸ばして、セナの首元にエストックの矛先を添えた。銀の矛先は静まり返った夜の中で、ぶれることなく死の光を走らせており、その鋭くとがった矛先は、セナの運命が確実に僅かなことを告げていた。

 しかし、喉元に刃を向けられているというのに、セナの心は不思議と落ち着きを取り戻していた。決して、諦めてしまったわけではない。自分の命が秤にかけられている状況であっても、セナは黒翁の言っていることに対して、どうしても疑問を持たずにはいられなかった。

 確かに、このノーマンズランドで誰かのために生きていくのは、難しいことなのかもしれない。秩序が死んでしまったこの世界で、いくら愛や友情を語ったところで、明日の命が保障されないのなら、大した意味はない。だから強者は殺し、貧者は盗み、魔法に魅入られたものは世界から遠く離れた場所で暮らしている。その繋がりに矛盾はなく、嘘はない。

 しかし、セナは知っていた。仲間との日々を通して、彼らから本当に大切なものがあるということを教えてもらっていた。誰かと繋がり、その先でしか得られないものがあるという事を。この朽ち果てた世界の中で、取るに足らない小さな繋がりが、大きな価値を生み出すという事を。そして、その繋がりが世界の枠組みを外れて、大きな運命の中で既に息づいている事も——。

「あなた、長く生きているのに、何も分かっていないのね」セナは気が付いたら口を開いていた。

「私は知っているわ。取るに足らない小さな変化が、この美しい世界を作っていることを。かけがえのない大切な思いが、誰かの心を作っていることを。その一つ一つに、確かに込められた意味がある」セナは黒翁の黄色く歪んだ瞳を睨みつけた。

「私には分かるわ。あなたはただ、それに怯えているだけ。いつか自分が取り残されて、”彼ら”が十字架を奪いに来るんじゃないかって、どうしようもなく怯えてる。だからあなたは壊すのよ。積み重ねられていく確かなものの前で、無力に眺めながら舌を回すことしかできない。あなたは私たちを笑っていたけれど、本当に哀れなのは——いったいどっちなのかしら?」

 決してその場しのぎではない、心の芯の部分から発せられている少女の言葉に、黒翁は冷え込むような怒気を垂れ流した。とても、聞き流せば済む話ではない。ここまで入念に追い込んだのに、それでも尚、叩き折ることのできなかった少女の信念に、黒翁は己の誤算を認めざるを得なかった。

 黒翁は胸元から割って出た白い腕を伸ばすと、少女の細い首を握り締めた。もう、容赦するつもりはなかった。もはや、今行使できうる最大限の力をもって、この少女を痛めつける他にない。指に込めた力は自然と強くなり、少女の首元に容赦なく食い込んだ。苦しみに歪んだ少女の顔は月明りに照らされ、黒翁は己の勝利を確信していく——。

「私を殺しても、あなたは負けるわ」

 すべてを閉ざされて、命の終わりを握られても、セナの心は折れなかった。苦しみに顔を歪ませていても、はっきりとした声色で言葉を紡いでゆく。

「あなたは知らないわ——友と育む友情を。あなたは知らないわ——家族を想う愛を。想いを繋いで、誰かのために命を燃やすその尊さこそが。だから——」

 少女の言葉が最後まで紡がれることはなかった。夜を脅かす鈍い音とともに、少女の体は動かなくなった。つい先ほどまで魂のこもっていた器は、何事もなかったかのように音を失い静まり返っている。黒翁は何も語らなくなった人形を前に、奪い取った十字架を睨みつけると、冷たい感触に息を落とした。目標としていた敵をすべて排除したというのに、どういうわけか、全く達成感を感じられない。

「造顔師イリス——」

 黒翁は無意識の内にその名前を口にしていた。今のこの状況を作り出した元凶、憎き敵、そしてこの世界に残った最後の人形。黒翁は手に握られた十字架に目を凝らすと、静かな夜と共に深い怒りの中で決意を固めた。手に握った十字架は何も語らず、月の光の影に、黒い尻尾を走らせていた。

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