第五章 『ありがとう』

 シェリルは無我夢中に走る。


(みんなのところへ戻りたいのに! 追手が……)


 顔だけ振り返ると、大鷲の魔物が低空飛行でこちらに迫っていた。器用に木々をよけ、距離をつめてくる。

 その鋭い視線はシェリルをとらえていた。


 ぐっと歯を食いしばり、必死に手足を前に進める。治癒魔法を使う暇さえない。


(息が、続かない)


 同時に、どうして自分はいつもなにかから逃げているのだろうと思う。


 自由になるために、本来の自分を取り戻すために。すべてはクレンフィール家から逃れるために、必死にあがいている。

 頑張って、強がってきたけど。


(……っ、やっぱり苦しいのよ)


 視界がじわりとにじみ、足がどんどん重くなる。このままでは魔物に殺されてしまうかもしれない。


「でも! いまじゃない‼」

 シェリルは顔を上げて前へ突き進む。


(死ぬのはいまじゃない。いまじゃない‼)

 まだ頑張るから、たとえ手足がもげようと前に進むから。


「誰か、助けて」


「――手を伸ばせ! シェリル・クレンフィール‼」


 優しく、力強い声だった。


 シェリルは反射的に空に向かって右手を伸ばす。

 次の瞬間、誰かが空に引っ張り上げてくれる。足が地面から離れ、体が宙に浮いた。


「ひっ」

 不安によって顔をひきつらせたとき、ふわりと誰かがシェリルの体を横抱きにして包み込んでくれる。


 シェリルは菫色の瞳をこれでもかと見開く。

 助けてくれた人は、青みのある灰色の髪に、彫りの深い顔立ちをしていた。


(え、えええ⁉)

 そして、ルビーのような赤い瞳を見て、シェリルは彼の正体にようやく思い至る。


「ハ、ハーウェイ?」

「うえっ、そうだけど。怪我はない?」


 シェリルがこくりと頷くと、彼は目を和ませて口角を上げた。


(眼鏡がないから誰だかがわからなかったけど、本当にハーウェイ?)


 息を整えながらまじまじと彼を見つめていると、彼の口が開く。


「速度を上げる。僕の体にしっかりと捕まっていて」

「えっ、きゃあ!」


 ハーウェイは巧みな技術で箒を操ると、ぐんぐんと上昇する。シェリルは彼の肩にしがみつく。


(あ……)

 視界いっぱいに青空が広がった。遮るものなんてない。森のさらに奥にある中心街のほうまで見渡せる。

 思わず見入ってしまったが、背後には大鷲が迫っているはずだ。


 だが振り返って唖然とする。


(え、もう魔物があんなに遠くにいるわ)


 シェリルは瞬きをしてから再びハーウェイを見つめる。

 彼は満身創痍のシェリルに余計な負担をかけず、速度を出したというのか。


(やるじゃない)

 心の中で感嘆を漏らすと、ハーウェイは上空をゆっくりと旋回した。二人で大鷲の様子を見下ろす。


「ねえ、誰か応援を呼んできたほうがいいんじゃ」

 するとハーウェイはスタート地点の方向に目を凝らしてから、ほっと息を吐く。


「いや、もう大丈夫だよ。ほら」

 彼が指さした方向で、巨大な魔法陣が展開された。そのあとに誰かが箒に乗って森を飛び出してきて、杖を片手に大鷲を追いかけ魔法陣によって拘束する。


「あれって、セシル先生だわ!」

「うん。これで一息つけるね」

「……よかった」


 安心してしまうと、どうしようもなく体の力が抜けてしまう。

 シェリルは「ごめんなさい」と断りを入れてからハーウェイの胸元に寄りかかった。

「あ、わ! すぐに地上に向かうから! シェリルさん、もう少し頑張って」


 いつものように焦りを見せるハーウェイに、シェリルはくすりと笑ってしまった。





 シェリルはハーウェイの手を借りて、ふわりと地面に足をつける。それから指先を一振りし、自分と彼に治癒魔法をかける。


(これでいいかしら)


 少しでも彼に助けてくれた借りを返したかったが、治癒魔法をかけなくてもハーウェイはもとから息切れひとつしていなかった。

 人は見かけによらないわね、と思っていると、彼の赤い瞳とかち合った。


(そうだわ。お礼を言わないと)


 シェリルが血色のいい唇を動かそうとしたとき、ハーウェイがシェリルの両手を掴んだ。


「えっ」


「シェリルさん、ありがとう」

「はい?」


 なぜかお礼を言う前に、お礼を言われてしまったのだが。


「ちょっと待って、それはあたしの台詞よ!」

「いや、僕のほうなんだ!」

「はあ⁉」


 というか、いつまで彼は手を握っているのだろう。シェリルの頬はじわじわと赤く染まっていく。


「あ、あの……手」

「僕の弟は魔症になったせいで体が弱くなってしまい、薬を飲みながら生活している。いままでいろんな薬を試したけど、一番効果があったのがクレンフィール家から提供されたものだったんだ!」

「――え」


 シェリルは呆然と口を開けた。ハーウェイは一段と握る手の力を込める。


「僕はずっと薬を作ってくれた人にお礼を言いたかった。だから魔導士協会に何度も行って、その想いを告げたら、君の名前を教えてもらって」

「……そう、だったの」

「うん。しかもそのときに同じ学校に通うことを知って、嬉しくて。だけど、実際に君と出会ったら、言葉が上手く出てこなくて、すぐには打ち明けられなくて」


 声が尻すぼみになっていくが、シェリルにはちゃんと伝わった。

 そしてハーウェイは「ああよかった、やっと言えた」と心から嬉しそうに笑った。


 そんな太陽のように眩しい笑みを見ていると、喉奥から熱が込み上げた。シェリルは言葉をつむげず、思わず目を伏せる。


(……あたしが過去にやってきたことは無駄ではなかったというの?)


 ややあって、シェリルは血色のいい唇に弧を描く。


「どういたしまして。でもあたしのほうこそお礼を言わせて」


 そのまま顔を上げ、歯を見せて笑った。


「ありがとう! あなた、最高にカッコよかったわよ!」

「うえっ」


 ハーウェイは自分が褒められるとは思ってもいなかったのか、いつも通り視線を泳がせる。シェリルはそんな彼の肩を叩いて「さあ、みんなのところへ戻りましょう」と通り過ぎる。


 少しあっさりとした態度だったかしら、と思ったが、これがいまのシェリルにできる精一杯だった。


(ああもう駄目、視界がにじんでなにも見えない)


 涙がとめどなくあふれてしまうのだ。後ろからついてくる彼にわからないよう、目元をぬぐう。


(ずっと過去なんていらないと思っていた。クレンフィール家のことなんてきれいさっぱり忘れて、新しい人生を歩むことを夢見ていたけど)


 まだまだ大人になりきれず、すべてを捨てる力さえ持っていない。そんなちぐはぐな自分自身にずっと苦しさを抱いていたが。


(いまは過去を抱えて前に進むわ。いつか自分の力で未来を選択する日のために)


 そう決意できたのはルティのおかげだ。


 早く彼女と合流して、互いに無事を喜びたかった。

 しかし、シェリルとハーウェイが宝箱があった場所に戻ると、そこにはレイスに抱きかかえられ、意識を失っているルティがいた。

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