第三章 『ポルティコさまだぞ』
この世界には、古から魔物と対立してきたという歴史がある。
魔物は、魚、馬、鳥などさまざまな動物の姿をしているが、黒曜石のような結晶に包まれた石から産まれる。
その生態はまだわかっていないことのほうが多いが、人よりもはるかに長生きで、魔力の源のマナを摂取するために、人や精霊を捕食すると言われている。
(普通の動物と魔物の見分け方は、額に黒い石が埋め込まれていて、金色の目をしているかどうか)
ルティは改めて目の前に現れた巨大なチンチラを見上げる。
ふわっふわの毛並みに、大きな瞳に、きゅっと縮こまったような手。
竜とは全然違って……。
「か、可愛い⁉」
「いやいや‼ 相手は魔物だぞ」
すぐにアキルスのツッコミが飛んでくる。ハーウェイにいたっては驚きのあまりその場に尻もちをついていた。
「ルティリエール、あいつがいつ瘴気をまき散らすがわからない! いまのうちに構えろ!」
「! そうですね」
ルティとアキルスは手をかざし、盾の呪文の準備をする。それに対し、チンチラの魔物は悠然とこちらを見下ろしていたが、急にカッと目を見開いた。
(――来る⁉)
ルティはピンクトルマリンの瞳を細め、呪文を唱えるために唇を動かそうとする。
「そいつはやめておいたほうがいい」
その声は背後から聞こえた。
ルティは振り返り、目を大きく見開く。そこに立っていたのは防衛術の教師であるセシルだった。
彼は腕を組んで出入り口に壁に寄りかかっていたが、ルティたちのほうに優雅に片手を上げる。
「やあ、諸君。それにポルも。元気だったか?」
さすが白薔薇の貴公子。魔物相手にもひるまずに笑みを浮かべる。一方でチンチラの魔物は眉間にしわを寄せた。
『ポルティコさまと呼べと言ったはずだ、セシル』
相変わらずくぐもった声だが、先ほどより柔らかくなった気がする。
「まあまあ、いいじゃないか。さあ、君たちも緊張を解くがいい。こいつは契約によって人を傷つけることができない。現に瘴気は出ていないだろう?」
「……それは、そうですけど」
ルティは戸惑いながらも手をゆっくりと下ろしたが、まだ気は抜けなかった。
魔物は攻撃態勢に入ると、体に黒い霧をまとう。ひとたび吸い込めば肺に支障をきたし、触れれば体の一部を変色させ、最悪の場合は魔力を永久的に失う。
瘴気による被害は『魔症』と呼ばれ、どんなに優秀な白魔導士や黒魔導士でも完治させることは難しいと言われる。
ルティはじっとポルティコを見上げる。敵意は感じられない。
(……契約ってことは、『冠の魔法』に近い魔法なの?)
そう考えていると、セシルはハーウェイに手を貸して起き上がらせた。
「君たちの心配はごもっともだ。だが魔物の中にも人間に協力的なものがいてね。この学校にはポル以外にも多くの味方がいる。その証拠に防衛術の実技では彼らに手伝ってもらうしね」
「うーわ、なるほどね」
声を上げたのはアキルスだった。
「知り合いの先輩たちに授業のことを聞いたときに、みんな防衛術の授業のことだけはなにも語らなかったんですよね。おれたちをびっくりさせるためか!」
アキルスが顔をげっそりとさせると、セシルは小さく笑う。
「俺が学生のときもそうだったよ。授業でいきなりマファー先生にポルたちのことを紹介されたときは阿鼻叫喚だったね」
ルティは思わず脳裏にその光景を浮かべ、苦い顔をする。いきなり魔物があらわれたら、誰だってびっくりするだろう。
いや、誰かさんだけは拳を構えるかもしれないが。
『まったく! 毎回さわがれる身にもなってみろ! あれ反応にこまるんだぞ!』
ポルティコは体に対して小さな手をぶんぶん振って抗議するが、セシルは「もう毎年の恒例になっちゃっているしなあ」と金髪をかきあげる。
「まあ授業内の危険はみんな承知の上だろうし、この学校の授業で死者や重傷者は出たことがないから、安心してね」
言い換えれば軽傷者は出たということになる。
(うわぁ)
ルティたちはまだまだこの学校の雰囲気に染まり切れていないため、顔をしかめることしかできなかった。
『人間というのは図太くて困るぞ』
ポルティコは手を合わせてうんうんと頷いている。腕を組んでいるつもりだろうが、絶妙に腕が組めていなくて可愛い。
ちらちらと様子をうかがっていると、金色の瞳がルティをとらえた。
『む、むむむ? お前、懐かしい匂いがするな』
「えっ?」
『いや、匂いはもうひとつある。そこのお前もだ!』
視線の先にはアキルスがいた。
「おれぇ⁉」
ポルティコは見た目に反して俊敏な動きでルティとアキルスに近付き、くんくんと匂いを嗅いできた。
(こういうときって動いちゃ駄目なんだっけ⁉)
熊と対峙したときのことを思い出して身を硬直させていると、ポルティコが嬉しそうに声を上げる。
『わかった! トラヴィスとエディの匂いだ!』
「え! トラ兄を知っているの⁉」
ルティが声を弾ませると、アキルスがポルティコに向けて「あー! アイドル班か!」と叫ぶ。
「な、なんですか。そのアイドル班って」
「うちの兄貴が言っていたんだよ! 防衛術で集まった面子が周囲からアイドル班って呼ばれていたってさ! 確かセシル先生が王子様担当で、兄貴が秀才担当で、ルティリエールのお兄さんが筋肉担当で、ヨシュア先生が可愛い担当だったって!」
ルティはぽかんと口を開けて呆然とする。
(は? トラ兄が筋肉担当?)
なにをすればそんなふうに呼ばれるのか。
(まさか――人前で服を脱いだの?)
もしそうだとしたら、休暇で実家に戻ったときに家族総出で尋問会を開かなければならない。というか、アキルスの兄と友人だったことさえ知らなかった。
(ほんと自分に無頓着なんだから)
ルティが鋭い目つきが考え込んでいると、ハーウェイが口を開く。
「ヨシュア先生って、錬金術と地質学を担当する先生のこと……?」
するとセシルが歯がゆそうに苦笑してから頷く。
「そうそう。そのヨシュアのことだよ。うわぁ、アイドル班なんて久々に聞いたから恥ずかしいな」
「え、でも、ヨシュア先生って確か……」
ルティは首を傾げる。アキルスの言葉ではヨシュアは可愛い担当と言われていた。しかし、いまの彼はひげ面で気だるい雰囲気をかもしだしている。
「どちらかというとワイルド担当では?」
訝しげに呟くと、アキルスが「それちょっとわかるかも」と小難しい顔で頷いた。
「実はさ、むかしおれの家に、学生だった頃のヨシュア先生が遊びに来たことがあって。マジで美少年って感じだったから、授業で対面したときはびっくりしたよ」
そう告げてから、アキルスはセシルを見上げる。
「セシル先生とも何回か会ったことがあるけど、あまり変わっていないね」
「ええ? そう? 自分ではあのときよりも、魅力的な大人になっていると思っているんだけどなあ」
セシルはアキルスと肩を組み、渾身の流し目で彼を見つめる。
「またそうやってからかうんだから」
「そりゃあ、年月は人をより魅力的に変えることを理解してもらわないと」
セシルがアキルスの頬をふにふにと掴むと、ポルティコが口を挟む。
『そうだぞ、エディの弟。お前が知らないだけで、セシルなんてずいぶん変わっているからな。むかしのセシルはな――』
「ポル。待った。それ以上は駄目だ」
セシルの制止に、ポルティコはニヤニヤしながらも口を閉ざした。ルティはそれを見て感心する。
「みなさん、ずいぶんと仲がよかったんですね」
「まあね、いつもここで勉強をしていてさ。本当に楽しい学生生活だったね、ポル」
『どこがだ! あいつらはここで騒いでばかりで、うるさいくらいだったぞ!』
「そういうお前だって一緒に騒いでいただろう?」
『べ、別に、そんなことはなかったぞ!』
ポルティコは頬を膨らませてぷんぷんと鳴く。その様子にルティは頬を緩ませる。
兄もここで勉強していたと思うと、なんだか不思議な気持ちになるが、気が知れた仲間がいたことにほっとした。
「ポル」
ルティが思い切って名前を呼ぶと、ポルティコは億劫そうにこちらを見下ろした。
「またここに来ます。少しずつでいいので、トラ兄の学生生活の様子を教えてくれませんか?」
手を差し出してみると、ポルティコは鼻をひくひくと動かしたあとに、ゆっくりと手を伸ばし、ちょんっとルティの手に触れてくれる。
『気が向いたらな』
そういいつつも、穂先のような尻尾が嬉しそうにゆらゆらと動いていた。
◆
ルティはみんなと勉強をしたあとに、一人で校舎の廊下を歩いていた。
別れ際にセシルからこう言われていた。
『魔物のことを理解するのも防衛術の一環だ。ポルはああ見えて二百年生きているから博識だし、彼らとの出会いはきっと君たちの経験にもなる。まあ、元魔物討伐隊の俺が言うのもなんだけどね』
相変わらず華やかな笑みを浮かべてはいたが、どこか寂しさを感じさせた。きっといろんなことを経験してきたのかもしれない。
(わたしたちはどんな大人になるんだろう)
そんな想いを馳せて廊下の角を曲がったあと、勢いよく振り返る。
「わたしになにか用ですか? ジェラルドさま」
「なんだ、気づいていたのか。ルティリエール」
同じ気配に慣れてしまえばさすがにわかる。そこにはいつにも増してからかったような笑みを浮かべる、ジェラルドが立っていた。
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