第48話 心の闇
武術大会の後、ゼールはまるで別人のように項垂れていた。
ミナは兄に配慮をしつつも、どんな言葉をかけて良いものか分からず、しばらく隣にいるしかできなかった。
会場から離れた公園で、彼は物言わぬ石像のようになっている。だが、夕日が傾こうかという時刻になってきて、ようやく重い口を開いた。
「恥をかいてしまったな。僕は」
「兄様……」
「ギガスラック家の男として、勇者の兄として……情けない姿を晒した」
「そんな。兄様は勇敢に戦っていました」
ゼールは瞳に涙を溜め込み、首を何度か横に振った。そして今までマグマのように心の奥底にあった憤りを、とうとう隠せなくなった。
「くぞ! こんなはずじゃなかったんだ。何もかも、何もかもだ! 僕は勇者になるはずだったのに、なぜか神様は僕を選ばなかった。ならばと勇者の兄として必死に精進しようとしても、あんな奴に負ける。知ってるんだよ。僕が領民から悪い噂をされていることも、周囲の貴族から陰口を言われていることも!」
ミナにとって、兄は太陽のように明るい存在のはずだった。何より楽観的で、自分とは正反対の人気者。しかし彼自身はそうは認識していない。
事実として、この時もゼールは領民から嫌われてはいなかったし、他の貴族たちからも概ね良好な評価は得ていた。彼が自分の評判について妄想をしていたに過ぎなかったのである。
「兄様、それは誤解です。私は兄様が多くの皆様から慕われていることを知っています。どうか落ち着いてください」
「慕われている? ふ……ふふふ。そうかい。君にはそう映るんだな」
兄の乾いた笑い声は、妹を不安にさせるには充分な効果があった。
「力があればな。もっと力があれば、あんな奴に……」
あまりにも小さな呟きが溢れる。ミナは最後まで聞き取ることができなかった。だが、グレイドへの憎しみの言葉など、彼女は聞かないほうが幸せではあっただろう。
やがてゼールは静かに立ち上がると、何かに気づいたように瞳に力が籠った。
「そうか。あの石……石だ」
「はい?」
「いや、いいんだ。付き合わせてしまってすまない。僕はもう大丈夫だよ」
「気になさらないで下さい。少し寒くなってきたので、帰りましょう」
長らく待たせていた馬車に乗ると、そういえばと兄は思い出したように、
「ミナ。まさかとは思うけど、あの貴族に変な気を起こしてはいないよね?」
と彼女にとって思いがけない質問をしてきた。
「は……えぇ!?」
「まあそれはないか。でも、間違ってもあんな奴を好きになってはいけないよ。奴はロクでもない男なんだ。絶対にダメだ、絶対に。いいね?」
「……あ、あの」
「ああそうか。ごめん! 言うまでもない話だったね。忘れてくれていいよ。さあ帰ろう!」
夕日が彼女の顔を幾分隠してくれなかったら、ここでグレイドへの気持ちが兄にバレてしまったのは間違いなかった。
ゼールはこの時まだ、ミナが心の奥で芽生え育てていた感情には気がついていなかったのだ。
家に帰った後、彼女はあまりにも恥ずかしい気持ちに駆られ、すぐに自室へと逃げこんだ。細い体をベッドに投げ出し、気がつけば兄が禁じたことを思い出してしまう。
「グレイド様……」
実のところ、兄にはどうしてもいえない秘密がもう一つあった。彼女はいけないと思いつつも、武術大会のグレイドに見惚れてしまっていたのだ。
感情の高まりは無視することができないところまで来ていた。
「あ……そういえば」
不意に一つのことを思い出し、ミナは登校用の鞄を開け、小さな二枚の紙を取り出した。友人がどうしても急用ができてしまい、利用できなくなった演劇のチケットだ。
チケットには期日があり、どうせ使えなくなるならと、友人はミナにくれたのである。
「こ、これでグレイド様を誘ったら。でも、これって……デート……!!」
想像しただけで心臓が跳ね上がり、思わずミナはまたベッドに飛び込んでしまった。
◇
カンタの朝は早い。
彼は毎朝メイド達と一緒になって邸の掃除をし、どんな雑用も文句一つ言わずにこなすのだった。
いかにもギャングのような見かけとは裏腹によく働き、彼は誰からも重宝されていた。
そんなカンタが突然レオに呼び出されたのは、四月二十一日の早朝のことだった。
「良いかカンタよ。この事は多言無用だ。我が許可するまでは、決して誰にも漏らしてはならぬ。良いな?」
レオ愛用の応接室に呼び出された彼は、剃刀のような眼差しに戸惑っていた。しかし、それ以上に驚かされたのは、室内にある豪奢なプラケースが開かれ、中にあったはずの赤いダンジョン・ストーンが無くなっていたことだ。
「昨日までは確かにあったのだ。恐らく深夜の時間帯に盗まれたのだろう」
長兄の顔に苦みがあった。ポーン邸は安全であり、盗みなど起ころうはずもない。そう根拠もなく信じきっていた彼は、まるで予想外の失態に直面している。
「で、でも。邸は交代で見張りを立ててるんです。昼間だろうが深夜だろうが、盗みに入るのはマジで難しいはずっすよ」
「ああ、そうだな。時にカンタよ。グレイドが昨日の夜、何をしていたのか知っているか」
「え? いや、普通に部屋にいたはずっすけど。……ま、まさか! 坊ちゃんを疑ってるんですか?」
カンタにしてみれば許せない疑いだった。しかし、レオは一切動じているそぶりもなく、目前で必死に弟を庇っている男を観察している。
「あいつが一番怪しいのだ。余罪があることは、お前も知っているはずではないか?」
「それは……そうっすけど」
グレイドが昔から悪さを働いていることは、ポーン家の関係者なら誰でも知っている。まして領地の者からすれば当たり前の認識だった。
しかし、ここ一年でグレイドは大きく変わった。そのことを喜ばしく感じていたカンタは、どうしてもレオに反論したかった。
「坊ちゃんはやらないと思います。あの人は、変わったんですよ」
「人がそう簡単に変われると、本気で信じるのか」
「信じます」
この一言でカンタは長兄からの評価を落としたが、それでも利用価値がないわけではなかった。多少のため息は飲みこんで本題に移る。
「俺は盗んだ者をなんとしても探し出さなくてはならん。邸の中の者である可能性は高いが、外から侵入することも不可能ではない。もし盗賊としての心得がある者がいるのなら、ポーン邸は思いのほか楽かもしれん。誰もが賊など入ろうはずがないと、油断しきっているのだからな」
その油断していた奴の中に、今喋っている人間も入るのだが。カンタは思いはしたが決して口には出さなかった。
「この事は誰にも言うな。父上にもだぞ。そして犯人をなんとしても探し出すのだ。お前の人脈と嗅覚、そして口の硬さを見込んでの頼みだ。聞いてくれるか」
「勿論です。必ず探し出します。じゃあ俺、早速行ってきます!」
猛牛のような勢いで、カンタは犯人探しに疾走する覚悟だった。勢いよく扉を開け、「ひゃー!」という声がした。
「すまねえ! 大丈夫……って、お嬢!?」
「痛いー。ねえねえ! メラニーもやるー!」
目をキラキラさせている妹を見て、長兄は今度こそ嘆息した。
「メラニー、聞いていたのか」
三人が秘密の調査を始めていたことを、グレイドはまだ知らなかった。
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