第42話 保健室で(二回目)
学園に到着して、HRが始まった時からすでにおかしかった。
頭自体は冴えている。でも体は鉛のように重く、何をするにも満足に動くことができない。
一時間目は数学の授業だった。二時間目の歴史で頭がフラつき、続いて化学で全身がクラクラしてきて、体育が始まろうという時に倒れてしまった。
真っ暗闇の中から解放されると、また保健室の天井が見えた。ベッドで眠っていたようだが、まだ体の倦怠感は抜けていない。
体験したことのない奇妙な苦しみに困惑していると、カーテンが開いて保健の先生がやってきた。見た感じ、元の俺と同じ三十歳くらいのお姉さん。
ちなみにここでおばさんと呼んでしまおうものなら、きっと俺の二度目の人生は終わるだろう。
「起きたみたいね。あなた、もしかして魔法の練習とかしてた?」
首肯するのが精一杯な俺に、先生はうっすらとした笑みを浮かべ、すぐにカーテンの向こうへと行ってしまった。
「うちの学生は多いからねえ。魔法の勉強だけは熱心な子が。この症状は典型的な魔力切れよ。まあ、しばらくすれば魔力が戻って、元気になるでしょう」
「それなら良かった」
返事が棒読みになってしまった。どんな演技すらもしたくないほどに、この時は疲れを感じていたと思う。休みたいと体全身が訴えかけているようだ。
五体が欲する休みを受け入れようとしたが、現実とはなかなかままならないもの。ノックがして、先生の返事と共に誰かが静かに入室をした。
どうやら人を探しているらしい。この澄んだ声色には聞き覚えがある。
や、ヤバい。さっきまで休めとストライキを起こしていた体が、今度は逃げろと俺を急かしてくる。
奴だ、奴が来る。
「失礼します……あ、やっぱり。急に倒れられたと噂になっていたのですが、本当だったのですね」
保健室で彼女——ミナと会うのは二回目だ。不安げな顔のままで立ち尽くしている。
「大したことはない。魔力切れだ」
「そうだったのですね。でも、魔力切れは私の魔法では癒せないですね」
勇者はしゅんとしているが、こちらとしてはそれどころじゃない。もしかして、暗殺するチャンスだと思ってやってきたんじゃないの?
俺は現在のところフラフラであり、さして強くない勇者であったとしても戦えば負ける。いや、実は今まで弱々しかった姿は全部演技かもしれない!
嘘か誠かが分からず、信じるべきか疑うべきかの二択で身が張り裂けそう。
「ちょうど良かったわ。先生少し用事があるの。彼の様子を見といてくれる?」
「はいっ」
ちょ、ちょっと待った。心の中で先生を必死に引き留めたい自分がいる。あなたがいなくなってから、この勇者は本性を現すかもしれないんだぞ。助けて、行かないで先生!
だが、グレイドである以上動揺することも許されない。叫ぶことすら試そうとしたが、体が軋んでしまう。
「顔色、相当悪いですね。どこか辛いところはありますか」
「別にない。そういえば、今はお昼か……」
「はい。あ、そうでした! グレイド様、お腹が空いてらっしゃるのですか」
「ああ。食欲はある」
意識もはっきりしているので、そろそろここから逃げ出したい。ひらりと舞うような軽やかさで、椅子を持ってきたミナがベッドの側に腰掛けた。
そして、懐から何かを取り出している。目だけを向けてみると、明らかにナイフにしか見えないものが銀色に輝いた。
あああ! やられる!?
次の瞬間、シャリ……という小気味いい音が保健室に響いた。
「リンゴを持ってきましたので、良かったら召し上がってください」
なんだ、リンゴの皮を剥いてるのか。窓からの優しい陽光に照らされた彼女は、まるで聖母様を思わせる後光をその身に纏っていた。
慣れた手つきでリンゴたちはあっという間に一口サイズとなり、皿の上に乗せられいく。
良かった、刺されるかと思ったわ。
「あの、もしかして嫌でしたか?」
俺がリンゴに手をつけないのを見て、勇者は不安げな顔になった。
「なかなか思うように動けなくてな」
「あ! そうでしたね。私ってば、気がつかなくてすみません。では……」
スッと近づいてくる彼女。普通に距離が近いのがドキドキする。白くて柔らかそうな指先が、皿にあるリンゴを一つ小さなフォークで取り、おそるおそる俺の口元へと運んできた。
「はい、どうぞ」
「…………」
こ、これは! アーンして、という奴じゃないか。
恥ずかしいが、ここまでしてもらって断るわけにはいかない。俺はできる限り慎重に、ミナからもたらされたリンゴを迎え入れた。
リンゴって普段はあんまり旨いと思わないんだが、魔力切れしている時は全然違う。僅かな甘みが体の奥まで浸透してくるようで、食い終わるとすぐに次が食べたくなる。
俺の願望を察したのか、ミナはまるで子供の世話をしている保母さんのように優しげな笑顔になり、次のリンゴを食べさせてくれる。
「魔力切れの時のリンゴって、本当に美味しいですよね。わかります」
「お前も魔力切れになったことがあるのか?」
ミナの笑顔は、僅かな間ではあったが先ほどとは違う、微かな悲しみの色に染まっていた。
「はい。兄に鍛えられている日は、大体魔力切れになって動かなくなるまでやらされるのです」
「ゼールの奴がか。なぜそこまでする?」
さすがに驚きを隠せなかった。いくらなんでも常軌を逸している。
魔法の勉学であれ、実践の稽古であれ、魔力を切らすまで追いこんだところでさほど意味はない。毎度ガス欠になれば、回復した時に魔力が上限を超えると考えている者もいるが、実際は違う。
魔力は時間をかけて、じっくりと高めていくのが普通だ。精神を磨き、身体中に流れる魔力を上昇させていく為には、程よく消費していくほうが成長が早い。
「酷い兄だな」
「いえ。兄は、私のことを思ってくれています。だから期待に応えたいのです」
どうやら勇者は、相当真面目な性格をしているようだ。それと、聞いてる限りは擦れているようでもない。ただ、兄が本当に彼女を思っているのかは、側から見ている分にはかなり怪しい。
少なくとも、女子を殴ろうとするような男を俺は信用したくなかった。
「お前には借しを作ってばかりのようだな」
「いえ、そのようなことはありません。私のほうこそ、グレイド様に助けていただいてます」
リンゴをもしゃもしゃ食べながら、ちょっと照れている様子のミナをじっと見つめた。まだあどけなさの残る顔を眺めていると、不意に保健室の扉が開いた。
「グレイド! 倒れたと聞いて見にきてや……った?」
「あ、お兄さま」
噂をすればなんとやら、というやつである。
俺の前に現れやがった勇者の兄は、まるで石像みたいに固まっていたが、やがて憤怒の吐息と共に迫ってきた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます