第41話 夢とメラニー
流れる汗を気にしている余裕もない。必死になって走る。
遅刻をしてしまったら会社でこっぴどい目に遭うことだろう。俺はどうにかギリギリ間に合うはずのバスに駆け乗った。
「はあー! 間に合った!」
一目も憚らず安堵のため息を漏らした。落ち着きを取り戻して周囲を見渡すと、思いの外車内は空いている。俺は二人掛けの座席に座った。はけめ模様のシートに奇妙な懐かしさを覚える。
そうだ。会議の進行は俺だった。ちゃんと流暢に話せるように、資料に目を通しておかないと。そう思って鞄の中に手を入れようとした時、ふと気がついた。
そういえば俺、いつも電車通勤じゃなかったっけ。それにこんな景色、見たことないんだけど。
ふとバスの運賃表示に目をやると、奇妙な文字化けを起こしていた。バスの運転手はマネキンみたいに細い体をしている。何かおかしい。
疑問が膨らみ、徐々に意識が覚醒してくる。背後に気配を感じた。
「順調なようですね。あなたの第二の人生は」
ようやく全てを察して、俺はため息を漏らすしかなかった。後ろを向こうとするが、どういうわけか体を動かすことができない。以前見た夢と同じ。
「おかげさまで。ところでアンタ、一体何者なんだ? もしかして神様? それとも悪魔?」
「どうでしょうね」
「そろそろ教えてくれてもいいんじゃないかな。あと、俺をグレイドにしたのもアンタなんだろ?」
「私にできることは、あなたの予想よりも限られています。こうして助言をすることしかできませんもの」
「助言?」
苦笑したくなったが、なんとか抑えた。もしかしたらとんでもない化け物と会話している可能性だってある。正体が分からないそのお姉さんは、静かに助言とやらを始めた。
「今までのところ、あなたは想定以上に素晴らしい進化を遂げています。まさか一年もかからず、剣士エリンにすら勝利してみせるとは、脅威の成果と言えるでしょう」
「元々伸び代があったんだよ。俺ではなく、あの貴族さんが」
「ご謙遜を。しかし、いかに自らの可能性を広げても、時として足元を救われることもありますわ。結果として、一度の失敗で身を滅ぼすことも」
俺はただ黙って聞いていた。背後から黒い邪念めいた何かが、じっくりと距離を縮めてくるのが分かる。女が俺の耳元まで顔を寄せている。
ふと、視線だけを窓に向けた。反射でどうにか女の顔が分からないか確かめた。すると縁の長い黒い帽子と、同じくして黒い服を着た女が映った。
「あの猛獣のような兄には、くれぐれもご注意を」
「分かってるよ。助言ってそれだけ?」
「ええ、それだけですとも。私たちにとって、あなたほど重要なことはありません」
「なんで?」
「いずれは分かりますわ。運命は、いつかあなたを王にする」
「王だと?」
なんとも不気味な囁きを身にしながら、今度こそ苦笑が漏れる。誰が王になんかなれるかっての。
「あのさぁ。せっかくだから言ってお——」
言いかけて、突然左の頬が引っ張られてしまう。痛い!
「ふふふ。私達にと、」
「おにーさま! 起きて!」
聞き慣れた子供の声がした。今度は右の頬も引っ張られている。
「いてててて!」
「……これだけはお伝えしておきますが、私たちは、」
「はーやーく! はーやーく!」
「いたたた! ちょ、ちょっと待て!」
視界が急激に歪み、さっきの女が霧のように消え始める。一気に目を覚ますと、胸の上に座っている五歳児が笑った。
「あ! 起きたー! ねえおにーさま、もう朝だよ」
「……もうか。早いな」
まあ起こしてくれるなら感謝しなくちゃだな。そう思いつつ柱時計に視線を転じると、どう見ても六時ちょうどだった。いや……朝だけど。ちょっと早すぎじゃない?
「メラニー。俺はもう少し寝る」
「えー。なんで? ねえ昨日の魔法教えて!」
「寝る」
「やーだ! 教えてよー」
「寝る!」
「やだー」
まったく! 苦情を言いたいところだが、子供ってどうしてこう可愛いんだろうなぁ。俺は見かけとは裏腹に必死になって抵抗していたが、結局のところは負けてしまうのだった。
◇
メラニーはどうしてもチャージを覚えたかったらしい。なんでも、次に先生が来た時には、ばっちりできるようになって驚かせたいのだとか。
そんな理由で兄の睡眠時間を削る妹はけしからん、と言いたいところだが。正直言ってメラニーだって重要な戦力になりえるわけで。どこかで妥協をしてしまうと生存率が下がるような気もした。
なので俺は、とりあえず自分の分かる範囲でやり方を教えてみる。庭に出て朝早くから練習を開始した。
「大切なのは、自分の中に力を蓄えようという感覚だ」
「かんかく! メラニー分かりました!」
本当かなぁ。まあいいや。
「前回は魔法で試したが、次は剣でやってみることにしよう。よく見ておけ」
俺は意識を集中して、レプリカの剣に魔力を注ぎ始めた。剣は赤と黒の混ざり合った輝きに包まれ、やがて獰猛な殺しの使いへと変わっていく。
溜まりきったという段階で、剣を大上段に構えて強く振り下ろした。黒と赤の残像がメラニーの瞳にも映ったと思う。
「わあー! やっぱりお兄さま、すっごい」
「お前は魔法でこれをやるんだ。ただし、最初は雷魔法にしろ」
「えー? なんで? メラニードッカンがいい」
「事故になったらどうする。まずはサンダーでやれ」
妹は不満な顔になりつつも従い、詠唱を始めた。すぐにバチバチっと小さな体の周囲に雷が発生する。
「うむむむ、むー!」
続いてチャージを行おうとしたようだが、メラニーはここでグッと歯を食いしばり、両手を握り締めて唸っている。
「力を入れるんじゃない。むしろ放置するイメージでいい」
「ほうち?」
「ぼーっとする感じだ」
俺の説明が適切だったかは分からないが、妹は瞼を閉じて素直に力を抜いた。しばらくすると雷は消えかかったように思えたのだが、少しずつ静かに変化が訪れる。
雷は気がつけば先ほどよりも遥かに大きく、小さな魔法使いの周りで踊り始めた。そして瞳を開くと、庭の向こうへと貯め込んだ力を解放した。
小さな手から放たれた電流は、予想よりも光も勢いも強く、あっという間に遠く離れた庭木に当たる。メラニーは目を輝かせながら、俺の周りでぴょんぴょん跳ねた。
「やぁったー! ねえ見た! メラニーできたよ。ちゃーじできた!」
「ああ、俺の妹だけある、と言っておこう」
「えへへへ。おにーさまに褒められた」
テンションが朝から最高潮に達したのか、メラニーはそれからひたすらにチャージを試しまくった。触発されたというわけではないけど、俺も俺でチャージの練習を繰り返し行ってみた。
「メラニーこれでもうバッチリ! おにーさま、れくちゃーありがとう」
「まあ、悪くはないな」
ただ、早朝から魔法の練習をしすぎたことは、明らかに良くなかったと言える。
その後すぐに学園に向かい、俺は初めての体験に冷や汗を流すことになるのだから。
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