感情の是非

 翔太しょうたがICの真実を知ってから、数日が経過した。この日、彼は狼愛ろあ孝之たかゆきを自室に招いていた。

「狼愛を連れて出かけないか? 連中の監視の及ばない……遠い場所へ」

 翔太は話を切り出した。孝之は己の手に包帯を巻き直しつつ、彼に訊ねる。

「連中に見つからない場所って、どこだよ」

 ICの体内にはナノマシンが埋め込まれており、それは発信機の役割を担っている。うかつに遠出しようものなら、次はどんな目に遭うかも定かではない。しかし翔太には考えがあった。

「遠い無人島に行く。それなら電波は届かないし、僕たちは自由になれるはずだ。その中で、狼愛には幸せを見つけて欲しい」

 そう――彼は狼愛のことを気に掛けていた。孝之はため息をつき、愛想笑いを浮かべた。彼は翔太の行動を否定しないが、それに乗じる真似もしない。

「二人で行ってこいよ。無人島なんかに行ったら、オレは間違いなく大怪我をして死ぬだろうからな。これもICの宿命なのかな。オレは、この空母の中でしか生きられない人間なんだよ」

 それが孝之の考えであった。そんな彼の虚ろな微笑みを前に、翔太は肩を落とした。下手を打てば、痛みを不快に思う感情すら持たない狼愛を連れていくことも大きな博打となるだろう。

「狼愛も、危なっかしいんだよね。連れて行って、本当に良いのかな」

 翔太は自信を喪失した。彼の背中を押すように、孝之は言う。

「試してみる価値はあるだろ。アンタが狼愛を守ってやれば良い」

 今回の計画に対し、孝之は妙に好意的だ。彼もまた、狼愛の幸福を願う者の一人に他ならないのだ。

「ありがとう、孝之。僕、狼愛と一緒に出掛けてくる」

 思い立ったが吉日だ。翔太は狼愛を連れ、部屋の外に出た。


 扉の外で彼を待ち受けていたのは、架神かがみだった。

「話は聞かせてもらったよ……翔太」

 この男の無機質な微笑みからは、いかなる感情も読み取れない。ミステリアスな雰囲気を纏う彼に、翔太は生唾を呑む。

「……君も、行くのかい?」

「行かない。それよりも、お前は狼愛が感情を手に入れることが最善だと思っているのか?」

「それは、どういう意味かな」

 艦内の廊下に、不穏な空気が立ち込める。架神は深いため息をつき、本題に移る。

「感情など知らないまま死ねた方が、狼愛は幸せだ。ICとして生まれた彼女にとっての、唯一の救い……それは悲しみを抱かないことだと思わないか?」

 その言葉には、妙な説得力があった。翔太は先日の話を思い出し、真剣な眼差しで考え込む。それから彼は顔色を変え、架神に質問する。

「君が僕を止めるということは、狼愛が感情を知る可能性は否定できないということかな?」

 それが希望を運ぶか、絶望を運ぶかは定かではない。それでも彼は、目の前の可能性を確かめずにはいられなかった。そこで架神は推論を語る。

「本来、人間の脳はその領域によって役割が異なる。しかし脳の一部の領域が損傷した際、他の領域がその役割を肩代わりする例も観測されている」

「それでも、脳が先天的に備わっていない領域を補完できるなんて話は聞いたことがないけど……」

「人体の構築に携わるのは、DNAとRNAだ。そして生物に受け継がれるRNAには、母体の記憶の一端が保持されている。当然、狼愛の遺伝子の片隅には感情にまつわる記憶もあるだろう。脳や遺伝子はまだ、現代科学ではろくに解き明かされていないんだ。狼愛が感情を取り戻すことも、十分あり得ることだ」

 それが彼の持論であった。問題は、狼愛が感情を覚えるべきか否かである。

「僕は、狼愛の感情を取り戻したい」

「それはお前のエゴだ。絶対にやめた方が良い」

 二人の意見は変わらない。両者が互いを睨み合う中、狼愛はか細い声で呟く。

「私……感情を知りたい」

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