第4話
ミサキはゆっくりと深呼吸をして新鮮な空気を肺の中に取り入れる。真上には二つも太陽が昇っているが猛烈な暑さは感じず、ほのかな暖かさが肌に差し込む。涼やかな風を感じると、思わず足元の芝生に倒れこみそうになるが、グッとこらえて周りを見渡す。
カップに手を触れていた時に感じていた意思から、この異世界には人が住んでいる事を理解しているミサキは、人里がある方向に足を向ける。
(まだカップが手の内にある感覚がする。そのお陰なのかな、何となくこの異世界の事を理解出来てる)
今までの意思や感傷が無理やり流れ込んできた時とは違い、うっすらと知識としてこの異世界の事が手に取るようにミサキは理解出来る。
(それにしても私は恵まれている方なのかな)
ミサキが異世界に渡る異常現象に巻き込まれても、やけに冷静に振舞えているのは、前もってこの異世界について理解できた事と、カップを介して異世界の知識をうっすらと理解できている点が大きい。
丘陵を越え整備された街道の先に、村をぐるりと木組みで作った塀と、更に深堀された堀で厳重に守られている村を見つけた。
村に近付くと塀や堀に何度も改修された箇所があり、複数回の襲撃が起きていた事が分かる。
(さて、どうやって村に入れてもらいましょうか)
村と街道を繋いでいた跳ね橋の前まで来たミサキは立ち尽くしていた。跳ね橋を下ろしてもらわなければ村へと入れないが、周りに村人の姿は見当たらない。
意を決して声をあげようとし矢先、跳ね橋が音を立てて降りてくる。
街道と跳ね橋が繋がるのを目新しさに、目で追っていたミサキは「おぉっ」っと感嘆の声をあげる。
「跳ね橋をご覧になるのは初めてでしょうか?」
跳ね橋に気を取られていたミサキは村の前で立っている一人の老人に声をかけられるまで気づかなかった。
「そ、そうですね。私が住んでいた所ではあまり見られなかったものでつい……」
ミサキは慌てて老人と向き合う。皺だらけの顔に白い髭が
「ふふっ、お待ちしておりましたミサキ様」
ミサキは思わず目を見開いてミサキの名前を呼んだ老人を見遣る。
喫茶店から始まったウインナーコーヒーから今の異世界に渡るまで、ただ自分は事故のような現象に巻き込まれているだけなのだと考えていたのだが、異世界の住人に自らの名前を知られている事実はこれら全てが誰かによって仕組まれているのだと、否応なく突きつけられた気がしてならなかった。
「困惑なされるのも当然かと思います。まずは私どもの家にお上がり下さい」
このまま老人について行っても良いのかと
(アヤカさんなら目を輝かせてついて行くのかな)
アヤカと話せなくなってからそこまで時間は経ってないが、今はあの明るい存在が近くにいてくれたら少しは心強いだろうなとミサキは思わずにはいられなかった。
老人の後ろをついていきながらミサキは村の中を見回す。
村の中は明朗快活な村人で溢れ、ミサキが感じていた不安や恐怖を感じているような雰囲気は何処にも無かった。
老人とミサキが通る度に村人たちは明るく挨拶を交わし、子供達は元気に走り回っている。村の建物は建て直された物もあれば、新しく建てられた様式の物もある。
「お騒がしくて申し訳ありません、子供達を村の外に出歩かせるわけにもいかず、出来るだけ自由にさせてやりたいと村の皆で決めた事なので」
「いえ、寧ろ活気があってとても良いなって思います」
「そう仰っていただけるとありがたいです」
老人の後に続いて歩いていたミサキは一回り大きい建物の前まで辿り着いた。大きな屋敷というほどでもなく、家屋に取り付けられた倉庫が他の家と違い大きく見せているように見えるのだと老人は言う。
「では、どうぞお上がりください」
「お邪魔します」
ここまで来たら鬼が出ても蛇が出ても同じだろうとミサキは深呼吸して敷居を跨いだ。
老人の家の客室に通され、木組みで作られた椅子に座る。老人は用意するものがあると言って別の部屋に向かって行った。
ミサキは喫茶店に入った時から今に至るまでの時間を思い返していたが、もしここ迄仕組まれて異変が作り上げられていたならば、私はそれにどう向き合えばいいのかと考えを巡らしてしまう。
ため息をつきながら顔を上げると同時に、老人が部屋の扉を開けて入って来る。
「やはりお疲れでしたね、温かい飲み物をご用意いたしました」
そう言って、老人はミサキの前のテーブルにほんのりと桃の香りのする飲み物を置く。その香りと温かさにミサキは自分の喉が渇いている事を自覚する。
「ふぅ、ありがとうございます。今まで何も飲まずに動いていて……」
喉を鳴らしながら飲み終えたミサキは満ち足りた充足感に溢れた。
「ご満足頂いてもらい良かったです」
老人は柔和に笑いながら、ミサキとテーブルを隔てた対面の椅子に座り、妙な存在感を放つ黒い小箱をテーブルの上に置く。
「この小箱を説明する前に、自己紹介と私どもの世界について説明させていただきます。私の名前はセージと申します」
そういってセージは深々と一礼する。ゆったりと動いてはいるが、けっして鈍い訳ではなく厳かな儀式のようだとミサキは感じる。
「この世界……大陸の名前はスペクルムと言います。ミサキ様のいた世界とは違う世界という認識で間違いありません」
「そう……ですか。ある程度の知識はうっすらと理解しているのですが、スペクルムでは魔術や魔物が存在しているんですよね」
「はい、魔術に関しては専門外なので私どもも分からない点が多いのですが、魔物についてはそれなりに関わりがあります」
魔物に関しては意思や感傷の奔流が流れ込んだ時に、何に対して恐怖していたかがハッキリと感じていた為、魔物がこの村に何を引き起こしたのかは想像に容易かった。
「今まで私どもの村は魔物の被害に晒され続けてきました」
セージは両手を組んでテーブルの上に置く、皺の深かった顔は更に皺がより、老齢さが増していく。
「国に魔物の退治をお願いする要請を出しましたが、その間に村人が何人も犠牲になっていきました。このままでは村の全てが立ちいかなくなる……そんな時にあの方がいらっしゃいました」
「あの方?」
「白き魔女様です。スペクルムで言い伝えられている、どこからか現れ、異変を解決する英雄にてございます」
「その方が この村を襲っていた魔物を倒したんですか?」
「いえ、魔女様はこの村に結界を張り、永遠の繁栄と平和を約束してくださいました」
「で、では魔物自体はまだ蔓延っていると?」
「『真の平和は苦難があってこそ』そう魔女様は仰っていました。とはいえ、私どもが苦戦する魔物には対策する知恵を与えて下さったので、魔女様が退治したといっても差し支えないのですが」
そういってセージは両手を解いて一つ深呼吸をする。
「そして、魔女様は結界と知恵の代わりに一つの交換条件を提示されました」
その言葉にミサキは神経を尖らせる。今までの事態が白き魔女の引き起こした結果であるならば、ここが分水嶺なのだと。
「『地震の後にミサキという黒髪の少女がこの地に訪れる。その子にコレを渡してほしい』とのことです」
セージは黒い小箱をミサキの前に差し出す。
「これ、開けてみてもいいですか?」
ミサキは黒い小箱を受け取って、持ち上げてみるも思った以上の軽さに中に何も入っていないかと訝る。
「魔女様がミサキ様にお譲りしたということは、ミサキ様の自由になさるべきかと」
セージのその言葉に押されるように、ミサキは黒い小箱の蓋を慎重に開ける。
「これは、赤い羽?」
中には人差し指ほどの大きさで、鮮やかな赤とオレンジのグラデーションで彩られた羽が入っていた。更に首から掛けるように一本の糸が輪のように通っている。
「ミサキ様、用紙がここに」
ミサキがまじまじと羽を見ているとセージが蓋の裏に貼り付けてある紙を見つけた。
「あ、ありがとうございます」
蓋の裏の用紙を取り外すと、そこには綺麗な日本語で『カップの中は気にしなくても良い。元の場所へ帰るならただカップを手放せば良い』と短く書き連ねられていた。
「本当に聞きたい事が書いてないのはどういうことなんですかね魔女様は……」
ミサキはスペクルムで元の世界と違う体験で溢れていたのに、吐いたため息は全く同じものなんだなと天井を見上げる。
(セージさんの話を聞くに白き魔女は赤い羽についても話してないだろうし、ここがスペクルムで把握できる限界かな)
そう考えたミサキはやけに狼狽えて立ち上がっているセージを見遣った。
「ミ、ミサキ様、このお手紙に何が書かれていたのですか?」
セージは不安げにミサキが読んでいた紙を見ている。その紙には日本語で書かれている為に、セージには読み解けなかったらしい。
(そうか、普通に日本語で会話出来ているけど、私がカップの世界を手に取るように理解してこの世界の言語を無意識に喋っているだけで、この世界で日本語を書いたらスペクルムの人たちには読めないのか)
──これが魔術の力なのかな
そう小さくぼやいたミサキはセージにメモの内容を説明する。
その言葉を聞いて安心したセージは一息ついた様子で席に座った。
「本当にもう出て行かれるのですか」
セージから赤い羽を受け取ってからしばらくしない内にミサキは帰る事をセージに伝えた。
「元々私はこの世界にいる人間ではありませんし、元の世界で待たせている人がいますので」
「そうですか、分かりました。もしまたスペクルムに来た時にはこの村に立ち寄って下さい」
村の跳ね橋の前でセージは深々とお辞儀をする。ミサキとしてはもう少し異世界を堪能してみたかったが、セージに言った通りあの喫茶店で待たせている友人の為にも帰る決心は早くついた。
(手放せば帰れるって書いてたよな)
果たして白き魔女の話をどこまで信じて良いか分からなかったが、現状帰る手段がメモ用紙の内容しかないミサキは従う以外に道はなかった。
村の跳ね橋が完全に上がるのを見てから、ミサキは目を閉じ、手の内にあるカップの感覚に集中する。
指の一本一本をカップから離していく。一本一本と離していく毎に暖かい日差しが、心地よい風が、草花の香りが次第に薄れていく。
すべての指が外れた時、コーヒーの香りとクラシックの曲、そしてミサキの目の前には白い生クリームが乗ったコーヒーと頬杖をついて居眠りしているアヤカが映り込んでいた。
「それで、その異世界で魔女様からの贈り物を貰っただけってこと?」
「えぇ、向こうに渡ってから、この赤い羽を受け取っただけです」
そう言ってミサキはいつの間にか手元にあった赤い羽根を弄る。
アヤカは訝げに赤い羽根を見遣り、うんうんと呻っている。
「こんな異常現象を引き起こして赤い羽根を一枚渡すだけって、あまりにも大げさ過ぎないかな」
「それは百も承知ですけど、メモ用紙には何も書いてなかったですし、誰も不幸な目にあってないならそれで良かったんじゃないかなって」
「まぁ、贈り物がリンゴでないだけマシなのかもしれないけど」
アヤカを尻目にミサキは目の前のウインナーコーヒーをスプーンで掬いながら飲む。今はカップに手を触れても何も感じない、気にせずに飲める事がここまで感慨深いものなんだとミサキは心から実感する。
「どっちにしろ今日はこれ以上の異変は起きなさそうかな」
アヤカは伸びをしながらミサキに向けて期待を向けた眼差しを向ける。
「流石にこれ以上の異変は勘弁したいですが、魔女がこれまでの異変の原因である以上、また何か起きると思いますよ」
「あれ?ミサキちゃん以外と乗り気なの?」
「魔女には聞きたい事がありますからね。それに、世界を跨いで私に関わる存在を無視できるとは思えませんし」
ほぼ諦めの境地でミサキはこれからの展開を思い悩む。自分が逃げても異変が向こうからやってくるなら下手な抵抗は無意味なのだろうと今回の異変で無理やり納得せざるを得なかった。
「次にスペクルムに行く時は私も一緒に行けるように魔女様にお願いしておいてね」
そう言って、アヤカは立ち上がる。
伝票を一緒に持っていく辺り、私の分も代わりに払ってくれるのだろうかと思いミサキも立ち上がる。
だがそのミサキの頭を伝票を持った手でアヤカが小突く。
「面白いものを見せてくれたお礼って事で甘えてて良いわよ。ミサキちゃんとはこれから交流も増えそうだしね」
アヤカはウインクしながらレジの方へ向かっていく。
(お礼というならこちらこそ感謝する事がたくさんあるというのに)
心の内でミサキは思うが、アヤカの上機嫌な背中を見てると断るのも悪く思い甘える事に決めた。
席に座り直し、少しだけ残っているコーヒーに向き合う。コーヒーに溶けていく生クリームを見て、ミサキは変化していくコーヒーの色を観察する。
(今回は何も起きなかった……けど)
これから自分の身に起こりうる事を考えると、目を瞑る暇すら与えてくれないのだろうなと、黒と白が完全に溶け切ったコーヒーにため息をこぼした。
第一章 ウインナーコーヒーと異世界ドリップ 完
ウインナーコーヒーと異世界ドリップ 第一章完 @Hanafarm
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