第3話

 手に取るようにカップの世界を理解する。

 アヤカの言葉を反芻しながら、ミサキは目の前のコーヒーカップを下から包み込むように手に取る。

 瞬間ミサキの胸の奥に様々な生命の感傷や意思が流れ込んでくる。その慣れない感覚に思わず手を離す。

「大丈夫かな?目に見えるように顔色が悪くなっているように見えるけど」アヤカが様子のおかしいミサキを見て、心配そうに覗き込む。

 短い付き合いではあるが、アヤカは直ぐに人の機微を把握出来る人なのだろうと、アヤカの真っ直ぐな目からミサキは感じる。

「だ、大丈夫です。慣れない感覚にちょっと怖くなってしまって……」

 ミサキも自分自身の顔から血の気が引いていくのを感じていた。未知の体験を前にして恐怖しているだけであるが、自分の意志次第で解決出来る分焦りが生まれ始めていた。

「もう一度手に取ります。時間を掛ける訳にもいきませんでしょうし」

 そう言ってミサキは震える手を無理やり抑えて目の前のコーヒーカップへと手を伸ばす。しかし、その手はコーヒーカップに辿り着く前にアヤカの両手に阻まれてしまう。

「焦らず落ち着いた方がいいと思うよ。私にはその感覚が分からないけど、ミサキちゃんの口から聞けたら私も理解出来るから」

 ──だから一人で背負いこまないで一緒に背負おう。

 ミサキはアヤカの両目から続きの言葉が聞こえたような気がした。

 それともミサキが都合よく解釈しているだけなのか、あわよくば前者であって欲しいと、ミサキは願わざるをえなかった。


「頭の中に色んな感傷が洪水のように流れ込んでくるんです。人なのか動物なのか分からないモノもあるので、今自分の感情が本当に自分のモノなのか分からなくなって、それで……」  

 ミサキが言い淀むと、アヤカはミサキの手を包み込むように掴んだ両手にほんの少し力を加える。

「接し方を変えてみてはどうかな。理解を示すだけでなく、世界を観察するように接してみるとか」

「まるで神様みたいですね」

「神様なんてミサキちゃんでも出来るって事だよ」

 アヤカはそう言ってケラケラ笑っている。なんて師匠泣かせの愛弟子なのだろうかと、ミサキは心の中で神様の苦労を察した。


「アヤカさんが言ってる、観察するように接するってどうすればいいんでしょうか」

「私に感じたモノ、聞こえたモノ、見えたモノを教えてくれないかな。私と会話を続けていれば、ミサキちゃんも落ち着いて客観視出来そうだからね」

 ミサキがアヤカと喋っている時に周りを見たり、アヤカの一挙手一投足に目を付けているのはまた別の理由があるのをミサキは伝えるべきか悩んだが、今は目の前の自分を心配してくれている彼女の信頼に応えるべく黙っておいた。

「変な事を口走っても引かないで下さいね」

「今以上に変な事が起きたりするのかい!?」

 アヤカは期待に満ちた目でミサキを見つめる。先ほどまでの人を信頼して期待するアヤカとは違い、これから起きる事象に注目した期待を寄せている。

 同性同士でも魅力的に見える美貌をアヤカは振りまいている。これが異性でもあればきっとアヤカの期待に応えるべく東奔西走するのだろうなと、ミサキは実感しつつあった。

「これ以上異変が起きたら首が回らなくなるので、私としてはその期待に応えたくありませんからね」

 ぶっきらぼうにミサキがアヤカに伝えると、アヤカは残念そうにため息をつく。

「異変に首だけしか回さないなんて勿体無いよ、がっぷり四つに取り組んでもらいたいな」

(結局一つの異変にしか対応出来ないじゃないですか)

 やれやれと首を振りながら喋るアヤカに、ミサキは心の中で指摘する。下手に喋って機嫌を損ねたり、こちらの反応を楽しもうとする人であるなら此処で打ち止めるべきだと、これまでの交流からミサキは学んでいる。


「それでは、もういちど始めますね」

 ミサキはコーヒーカップと再三向き合う、目を瞑り、ゆっくりと大きく深呼吸をして手を伸ばす。

「っつ……」

 触れた瞬間に先程と同じようにミサキの脳内に様々な意思や感傷が流れ込んむ。流れ込んでくる洪水のような奔流にミサキの額からじっとりと嫌な汗が吹き出し始める。

「大丈夫だよ、ミサキちゃん」

 そう言ってアヤカの手が温もりに包まれる。ミサキが閉じていた目をうっすらと開けると、神妙な面持ちでアヤカがミサキの手を覆うように被せている。

(その表情はあまりさせたく無かったかな)

 ミサキは今までアヤカのコロコロ変わっていく表情の中で、彼女がよく笑い、拗ねては頬を膨らませたりする率直な感情表現がミサキにとっても憧れであると感じていた。

「ミサキちゃんは今何を感じてる?」

 アヤカの言葉にミサキは目を閉じて集中する。流れてくる意思や感傷を一つ一つ言葉にしていく。

「昔この土地で何かに襲われていろんな人が傷ついたのか、恐怖や不安が広がっています。抗う為に色んな対策を講じたのか期待や希望があった分、余計に恐怖が深まっているようです」

「きっと不安な感情が大きくて目立つから、ミサキちゃんは感傷って言葉を使ったのかな。期待や希望が感じ取れるなら他にも感じ取れるものがないかな」

 ミサキは更に集中してカップから流れてくる奔流に意識を向ける。

 段々と店内に流れているクラシックの曲は聞こえなくなり、漂っているコーヒーの香りも薄れてくる。客同士の歓談も外の喧騒も遥か遠くに感じた時、ミサキは額に涼しい風が吹いたのを感じた。

「風が気持ちの良い場所なのかなって感じます。肌寒いわけでもなく、湿気てるわけでもなく、弱いわけでも強いわけでもなく……」

「きっと穏やかな場所なんだろうね」

「はい、天気も良く晴れていて、一面の緑や花畑が咲き誇っていたり、自然の香りが漂っているような」

 風の清涼さ、陽の暖かさ、草花の香りを感じていたミサキはこの異世界の事を理解する為に意識を一歩踏み出すように集中させる。

(あれ……?)

 今まで感じていた奔流が薄れ、ミサキの脳内はすっきりするように何も流れ込まなくなってくる。

 感じるのは肌に触れる風や陽の暖かさ、鼻孔をくすぐる草花の香り、リアルな感触にふとミサキは目を開ける。


「……これ以上の異変は首が回らないって言ったんだけどなぁ」

 ミサキの頭上には眩いほど明るい二つの太陽が、目の前には黒々とした海の水平線が、足元には広々とした草原が、現実にあるものと無いものが同時にミサキの目に飛び込んできた。

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