牛鬼、野良神
「いつ戻る?」
背後から掛けられたと同じ声が、今度は頭上からも降ってきた。上を向いちゃいけないと、お嬢に言われるまでもなく直感が告げる。
固まったように動かない俺とお嬢の周囲で、鈍感なスタッフは忙しなく人の流れに向けて注意を促したり侘びを入れたりで、俺たち二人に対しても道の脇へ誘導しようと背中を押したりしてる。何人かの敏感なスタッフたちは半泣きで俺の顔をとにかく必死で見つめていた。目を合わせちゃいけないってことはこういう時のお約束だ。
知ってるぞ、このシチュエーション、この感じ。何かの番組で怪談話を放送した時に聞いたヤツだ。一見、何の敵意もなさそうな風情で現れた男が、実は牛鬼という怪物だったとかいう話とそっくりだ。
「いつ戻る?」
多少苛立ちを籠めた声音が、今度は頭上、正面の方向から聞こえた。もちろん目の前には誰もいない。あるのは電柱だけだ。
「待ってるのに、」
何かを言いかけたその声が、突然、気配ごと掻き消えた。ふい、と。
「ジゴローさん! ユノね、唐揚げが食べたかったのに、無いです!」
振り返ると、コンビニのレジ袋を上に掲げたユノノンとアカネ君がほんの数メートルという距離にまで近付いているのが見えた。
「居なくなったよ、ジゴローさん。」
ホッとしたような、あるいは「ほらね、」とでも言いたげなニュアンスの表情を浮かべて、カナメ嬢が俺の袖を引っぱって言った。ユノノン、すげぇ。
「間一髪だったね。あんなの私じゃどうにもなんないもん、見捨てて逃げようかとか思っちゃった。」おいおいおい。
ほんとジゴローさんってオバケホイホイだよ、とか可愛くないことを言う。
「さっきのアレ、見当付いてんの? お嬢的にはさ。」
「妖怪の類いだと思うけどなぁ。解んない。でも、それだったら、幽霊とかよりもっと強くて厄介だよ、さらに厄介でお手上げなのがさっき話した野良の神様だけど。」
「コレとか?」
顎をしゃくって、傍に寄ってきたユノノンを示す。お嬢は否定しなかった。
「何の話してたの? ユノの悪口ですか?」
「違うよぉ、ユノノンのお陰で助かったって話。」
「? 気にしなくていいですよ?」
すっとぼけた彼女の後ろではアカネ君がゼーゼーと息を切らしている。
「もうっ、ユノノンったらいきなり走り出すから、お茶買い損ねちゃったじゃない。どうしたのよ、いったい。」
「アカネちんは運動不足なだけだよ、ユノは毎朝鬼ごっこで30分走ってるから元気だよ。さっきね、牛がいたから追っかけようとしたんだ。けど、逃げちゃった。」
「牛ぃ?」
チンプンカンプンなユノノンのセリフに、アカネ君は堪りかねたように声を上げた。もちろん二人のそんなやり取りはしっかりカメラが捉えている。そうかぁ……、やっぱり牛鬼かぁ。俺、なんかやっちゃったのかな。牛鬼に知り合いなんか居ないと思うんだけどなぁ。
苦笑いの俺の顔までカメラが抜いてった。どういう編集する気だよ、カントク。
「OK、カットでー。アカネちゃん、カナメちゃん、悪いんだけど姥が池の話と繋げてくれたら助かるぅ。ついででね、ついで。」
牛鬼と龍神伝承の姥が池と、どう繋がるってんだよ、監督。いい加減過ぎぃ。
そんな中、なんかコソコソとアカネ君がユノちゃんに耳打ちしてんのが偶然、耳に入った。いや、偶然だよ、偶然。耳を欹てていたなんてことは決してないから。
「ユノノン、牛って江戸城ロケの時に言ってた牛のこと?」
「ユノ、何か言ったっけ。牛は牛だけど、アレは違う牛だから違うと思う。」
「ええ? なにそれ? 牛ってそんなにいっぱい居るの?」
「あちこちに居るけど、ぜんぶ一緒かも。解んない。そんな話したっけ?」
「あっ、いいよいいよ、大したコトじゃないから。」
アカネ君が慌ててユノちゃんを押し止めた。自由に喋らせとくと何を言い出すか解らんからなぁ、この子。気持ちは解るわ。
続けてアカネ君は素早く話題を切り替えにかかる。やっぱ出来る子だなぁ。
「姥が池だって、ユノノン。姥が池の話って覚えてる? いつだったかの配信で盛り上がったヤツだと思うんだけど。」
「んー、知ってると思う。浅草って、
「そうそう、」
巧いことはぐらかした上に、テーマと繋げてきたね。
では、コホン、と咳払いで。
「この辺り一面が湿地帯で、荒れ地だった頃の話ってことになってるね。時代にしたら鎌倉時代かそれ以前かってトコだ。」
そこでカチンコが鳴った。カットだ。
編集で繋げるから解説は要らん、とカントクが腕を回してサインを送ってやがる。
人がせっかく話そうとしてたのに!
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