5月16日 獅子か狒々
スネを抱えてピョンピョンしてる俺を見て、親父ときたらゲラゲラ笑いやがった。台所を覗きに来るなんて珍しいけど、よりによってこんな場面に来なくていいよ。
「裕紀やろ。アイツも誰に似たんやしらん、えろう乱暴者や。」
「うちの家系やって。間違いなく。」
親父はネコ被りだった兄貴の本性は知らない。俺はボコられていた側だっていうのに、誰も兄貴が凶暴なことは見抜けなかったかして、俺ばっかり叱られたんだ。
「なぁ、親父。俺さ、掛け軸になんやイタズラでもしたんかな? 実はそれ聞きに来たんや。その後やろ、蔵の中に仕舞われたのって。」
「そうやな、イタズラされたんはお前の方やなかったかな。ほんまに覚えてないらしいけど、死んだ爺さんがなんとか払ったんや。背中どつき回されてギャン泣きしたやろが。それも覚えとらんのか?」
俺は生唾をごくりと飲み下した。そんな飄々と告げんとってや。
「ま、爺さんは死んでしもたしな。ほんまのとこ、何があったかなんぞ知らん。どこでくっ付けてきよったんや、獅子がおる、……とか何とか言うとったけどな。獅子やったかな? 狒々やったか? まぁ、何か憑いとったんやろな。けど、それきり別になんもないで。ソイツかて、東に行きよった、て爺さんが言うてたからな。こっちにはおらん。」
東って、東ってもしかしてソッチの東? とか思ってたら、親父はトドメを刺すみたいに、顔引きつらせてる俺を覗き込んで、ニヤニヤして言った。
「けど、まさかそれを追っかけるみたいにお前まで東に行くとは思わへんかったで? 大丈夫なんか、向こうではちゃんと出来てるか? 絶対なんかあったやろ?」
本当にあっけらかんと、親父は笑いながらそう言った。御年70歳ともなると人生達観してんのか知らんが、ほとんど他人事やな、我がの息子の一大事だってのに。
俺がグゥの音も出ないでいると、さらに親父はニヤニヤをニッコニコに変えた顔で、もっと恐ろしい話を始めた。こういうトコ、ほんっっと、京都の人間だわ。
「あの掛け軸な、なんや知らんけど色んなとこから引く手あまたでなぁ。今でも譲ってくれ言う人が絶えんのや。皆、カネに糸目はつけへんさかいって言わはってな。誰にも話なんかしてへんかったはずなんやが。」
親父の何か言いたげな言葉に肩をすぼめる。俺のせいってことが言いたいんだろうなと思ったからだけど、親父はそこに気付くと静かに首を振った。
「違うんや、お前が仕事で何やら言い始める前からや。なんでか知らん、どこからか話を聞きつけた言うて、昔から人が訪ねてきよるんや。掛け軸を譲ってくれ、言うてな。
そんで決まって、話の途中でキツネにつままれたみたいに我に返ってな、ここどこですか? とか言いよる。こないだはついに外人さんが来やはったで。カタコトの日本語でな、カケジククダサーイ、やて。小切手帳握ってはったわ。」
「なんやの、それ。怖っ。」
「せやけど、お前が広めてからはもっとえげつないことになっとるよ。前は話してる途中で正気に返らはる人が多かったけどな、今来やはる人らは皆本気やで。」
「なんで……、」
「そら、元から知ってるか知らんかの違いやろな。お前も、何を考えてあの掛け軸のこと広めるようなマネしたんや? 儂らの留守を狙うみたいにお盆の時期にひょっこり帰ってきたやろ。寺には沙紀さんしかおらへんかったはずや。」
親父の言葉を聞いて、鮮明に思い出したよ。あの日は、お盆の中二日だ。兄貴も親父も法要に呼ばれて忙しい時期で、俺は勝手に蔵の鍵を持ちだして中を漁ったんだ。
「お前に鍵の場所なんか教えた覚えはないで。沙紀さんにもしっかり言い聞かせてある。あのこも儂らの留守に勝手なことなんかせぇへんはずやし、未だに訳が解らんのや。お前、誰に聞いたんや、鍵の場所。」
「あてずっぽうで……?」
あかん。親父、目が笑ぅてない。
「うちの家系も昔は偉い法力の者が出たようやが、今はさっぱりや。せやけど、知り合いくらいはおる。紹介したるから、お祓いに行ってくるか?」
「その手合いやったら、親父を頼らんでもツテがないわけやないから……、」
その手合いのはずのヒキザキカナメを思い出した。そういや彼女が抜擢される前だったな、アレ。なーんてことも思い出したりして。ヒヤッとしたモンが胃に、胃が痛い。
「せやろな。そうでもないと東京なんか出て、お前みたいのが生きてられるわけないとは思っとったしな。今のところは誰かとか聞かんけど、そのうち挨拶させてもらうわ。お前はとくに危ういところがあるから、心配しとったんや。」
「東京でやってけるんやから、大丈夫やで。親父。」
「儂は近寄りたくもない場所やけどな。」
親父は大の東京嫌いだ。関西圏、特に大阪辺りにはアンチが割と居るんだけど、京都には珍しいかも知れない。日本の首都は京都だ、という手合いなのかどうかは恐ろしくて聞いたこともないけどね。東京になんぞ死んでも行かへん、とは公言している。
「大権現の結界もいよいよ破れる時が来たんかなぁ。」
親父がらしくないひと言をぽつりと零した。
デジャヴが走ったけど、捕まえ損ねた。
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