5月15日 床の間の怪

 お寺の朝は早い。


 それは解ってたけど、なんで俺まで付き合わされなきゃいけないんだよ、兄貴。

今、午前六時なんですけど。お日様すら寝てるんですけど。

 昨夜、眠りにつく際にチラリと視線を向けた柱時計は午前四時を回っていたんだ。東京で兄貴に電話して、埒が明かないからって車を飛ばして、そんで午前四時ってワケ。さすがに「マジですか?」って時計を二度見した。我ながら計画性の無さに笑う。マジか。ぜんぜん考えもしなかったわ。兄貴が怒るはずだ。標準五時間かかるルートを三時間半って。どんだけ速度超過したら到着すんだよ。今さらでゾッとした。


 まぁ、そんなわけですこぶる寝不足なんだけど、兄貴も嫁さんもまったく意に介してくれなくて、俺は泣きそうですよ、ええ。せめて昼まで寝かせてくれよ、後生だから。

 我が家の朝は全員揃って食卓を囲む。これもしきたりの一つだとか言われたけど、そうだったかなぁぁぁ? 思わず首をかしげる俺。


 そのくせ五歳児は寝たいだけ寝かせて、園もこのところはずっと休ませているとか言うんだもんな。ダダ捏ねたモン勝ちってこと?

 そりゃあ、嫁さんも病院行けないワケだよ。今も一人、バタバタと動き回っているみたいに見えるし、大きなお腹が重そうだわ。ヤロウが総出で手伝ってはいるものの、切り盛りの主役は明らかに兄貴の嫁さんだ。


「電話で言うてた掛け軸の話やけどな、」

 汁の入った鍋をかき混ぜていた兄貴が、急に話を振った。小鉢にキュウリを盛り分けていた俺、手を止めると、聞きながら動けと怒られた。


「昨夜、考えてたんや。電話の後でな。あれも確か、お前が五歳の頃やったなぁとか思ぅたら、なんや気色が悪ぅなってきたわ。」

「俺、それ覚えてへんねん。何があったか、兄貴は覚えてるんか?」

「俺かて小学生の時分やし、正直、今まで忘れてたわ。けど、言うてええんか?」


 なんかすごく気を遣う感じで、兄貴は俺の顔をまじまじと見遣った。なんか、すごく聞きたくないんですけど。危険を察知した時って、こんな感じだよね。

 兄貴は鍋の火を消して、改まって俺に向き合った。余計怖いって、それ。


「正直、今だに何やったんかは解らん。せやけど、俺が見たその日のお前は、お前やったとは思えへんねん。声を掛けたり、確認したわけでもないんやけど、あの時のお前はお前やなかった気がする。

 けど、そんなん誰にも言われへんよってな。これもおかしな話なんやけど、なんでか知らんねんけど、そう思い込んでてな。それで誰にも話さへんかったんや。

 あんまり気色が悪ぅて、その上、誰にも言えへんもんやから、子供ながらに辛ぉてな。しばらくは耐えとったんやが、いつの頃からやったか、もう忘れたろと思てな。そのまま忘れることにしたんやったわ、確か。

 祖父ちゃんに叱られてギャン泣きしてた時のお前はいつものお前やったし、見間違いやったんかと思てな。そういうことにしといたんや。」


 そういうことにした、って。その後もずーっと俺の傍で生活してたってことだろ?

 気持ち悪くなかったわけがないし、だけど、邪険にされたような記憶はぜんぜんない。けど小学生だろ、兄貴だって。そんな気色の悪い奴、例え弟だとしても嫌わずにいられるもんなの?


 思い出そうにも俺の記憶にその頃の景色は何も残ってない。兄貴は今も普段通りの態度で訥々と話を続けているだけだ。本当に飄々とした、何でもないことみたいな語り口で。


「その日のいつからとかも解らへん。ただ、床の間を前にこっち向いた時のお前が、お前とは違うような気がしたってだけや。それと、めちゃくちゃ怖かっただけや。

 しばらくはそのこと考えてたような気もするんやけど、なんやいつの間にか忘れたわ。なんでやったんやろな。あんな衝撃的な思い出、忘れようにも忘れられんやろになぁ。自己暗示にしても凄いわなぁ。ほんま、完全に忘れてたんやさかい。」


 俺は絶句した。そんでその後は、兄貴の嫁さんに二人揃って叱られて食卓に着いた。味噌汁はそんなに冷めちゃいなかったけど、片付かないって沙紀さんはプリプリ怒ってたな。せっかく時間が取れそうなのに男二人が空気も読まずにノンビリしてたんじゃ、怒っても仕方ないけどね。


「沙紀には言うなや、いろいろと敏感なんや。時期も時期やさかいな。」

「そこまで朴念仁やないで、心配いらん。」


 言ったところで、てね。


 で、沙紀さんが病院に行ってる間は、俺が裕紀のお守りをすることになった。そんで、兄貴が運転して二人が連れ立って出てった後、しばらく経ってからだったね。例の問題児が起きだしてきたのは。


「だれ?」


 目をまん丸にして開口一番、そう言った幼稚園児。偉いぞ、泣かなかったな。

 着替えをさせて、朝飯を食わせ終わった頃にはすっかり俺たちはトモダチだ。


 沙紀さんの方針で、我が家は自分の使った茶碗くらいは自分で洗うことになっていて、それは五歳児だろうが例外じゃない。どこからとなく木製の足台を持ってきて、裕紀は慣れた手つきで皿を洗いだす。偉いなぁ、俺、自分の子供とか出来たら躾けられるかなぁ?

 まぁ、俺という話し相手がいて、手つきがノロノロになっちまってるのはご愛敬だ。


「ぼく、妹が欲しかったん。やのに、弟やったん。ハヤトくんとヤマトくんはいっつもケンカしててな、ヤマトくんは叱られへんの。ハヤトくんボコボコやの。ヤマトくん、怖いんや。グーやねん。ハヤトくんはグーやないのに、ヤマトくんはグーやの。怖いねん。せやからぜったいイヤや。ぼく、弟なんかいらへん。」


 どうやら幼心にトラウマを作ったのは、兄弟喧嘩で目にした弟という存在の理不尽さだったモヨウ。俺なんかは兄貴にボコられた側だったけど、逆の兄弟も居るんだなぁ。

 喧嘩なんてのは体格差で勝敗が喫してしまうところがあるし、それが子供となればなおさらだろう。弟の方がガタイがいいなんてのはよくある話だしね。なにより五歳も歳の差があれば、確率で言っても裕紀の方が有利になるんじゃないかな。


「そーかー。でも、裕紀が弟を優しい子に育つように、しっかり教えてあげたらいいんじゃないかな。兄弟仲良くして、弟のこと可愛がってあげたら優しい子に育つんだよ?」


 諭すような言葉と共に手を伸ばしたんだけど、頭を撫でさせてはくれなかった。素早い身のこなしで俺の脇を掻い潜り、裕紀は俺のスネを蹴っ飛ばした。


「ヤダッ! あんなん欲しぃない、バカぁ!」


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