22 哀
――ほう、結構綺麗にしてるんだな。昔からは考えられない。
――たまたま清掃業者を呼んでから日が経ってないのよ。先週は出かけていて、いなかったし……。
――それにしてもすごい量の本だな。二部屋の壁全部かい?
――これでもずいぶん捨てたんだけどね。電子化したのは、そっちの方に置き換えてるわ。
――いかにも作家さんの部屋だな。前に送ってくれた本のカバー折り返し部分の写真は、この部屋?
――他に部屋ないし……。そっちの本棚の前よ。
――ふうん。何人かいるんだろうけど、連れて来た男たちの感想が聞きたいね。
――本好きの男は喜んで見て周るし、そうでない男はちょっと吃驚して終わり。本棚を見に来たわけじゃないから……。
――まあ、それはそうだろうが……。
――それに、ここに男を連れて来るのは特別な場合よ。わたしが酔っていたり、気を失っていたり、そんな場合が多いかな。ここは仕事場でもあるしね。
――バレたことは?
――別に隠してないけど、わたし、全然有名じゃないから……ないわ。
――きっとルートが別なんだろうな。そっち方面での男との付き合いはないわけ?
――一部始終を克明に小説に書いた男が一人いるわよ。わたしも題材にはしたけど、創作部分の方が多かったな。
――迷惑じゃないわけ?
――昔は腹を立てたこともあったけど、結局、お互い様だから……。それに、ああ、あのときの情景は相手にはこんなふうに見えていたのか、とかいう発見もあるし……。でも、まあ……
――いい女として描かれるばかりじゃない?
――うん。それは当然のことだけどさ、あからさまに攻撃されたときはさすがに退くわね。
――退く? 怒るんじゃなくて?
――怒って猛烈に反撃していた時期もあったけど、向こうが有名人だったらそれだけで敵わない場合もあるし、それに哀れだし……。
――哀れ?
――自己愛が強くて、それに自分で気付いていない男には近づかない方がいいわよ。そんな事実はこれっぱかりもないのに、少しでも自分が攻撃されたと感じたら、狂ったようにこちらを批難し始めるから。それにそういう男って、自分が相手に何かを言うのは構わないし正義なのに、相手に同じことを指摘されると、もう我慢ならないし、悪なのね。だから当事者の座を降りて冷静に相手を見れば哀れなだけで……。
――なるほど。……でも、それも人間なんだろう?
――うん。それも人間ですけど、わたしの書く話の中に登場させたいとは思わないな。もちろん必要があれば登場させるに吝かではないけど……。そういう創作は望んでないから……。
――泥臭い方が、ある種の賞には向いてるんじゃない?
――そういう賞だったら、こっちの方から願い下げだわ。今、この部屋ではね。でも、くれるとなったら喜んで貰う。
――丸くなったね。
――違うわ。ずるくなったのよ。
――いや、本当にずるければ、もっとうまく立ちまわると思うし、立ちまわって来たと思うな。小説のことは門外漢だけど……。
――わかったわ。じゃあ、少しだけ丸くなって――あはは、体重とともに――、それから少しだけずるくなりかけている途中なのよ、わたし……。
中小の繊維会社に勤め始めてストレスが溜まって男に乱れたとするなら、我ながらバカみたいだ。大学時代の恋人とは就職時期に別れている。彼が望んだ暮らしが両親の家に近い田舎での工場勤務だったからだ。別れる以外に道はない。付いて行く気が微塵もないから、選択肢自体が一つなのだ。
ああ……。
パソコンを使って何でも手に入れられる現在だったら、わたしは彼に付いて行ったのだろうか?
今のわたしはもちろん当時のわたしではないので明確なことまではわからないが、やはり付いて行かなかったのではなかろうか、と思う。今のわたしにそれだけの想いがあれば、そのときには付いて行くかもしれないが……。
彼が会社の研修で久しぶりに都会に出て来たとき、彼にはわたしが穢れて見えたに違いない。そんな感情は噯(おくび)にも出さなかったが、ショットバーで会っていた時間、そう感じる。だから彼とは寝ていない。彼も、そんな素振りを見せはしない。ゆっくりとお酒を飲みながら、互いの近況や、それより遠い過去のことを語り合う。数年前の同窓会で久しぶりに彼と再会したときには、彼が当時の面影もなく老けている。後頭部がかなり後退し、浮腫んだ身体全体に重くて深い疲れが滲み出る。それでも声ばかりは昔と同じで甲高く、それがわたしを奇妙な気持ちにさせる。その夜、ほとんど懐かしさに溺れてわたしが身体を許した彼は、だから何処から味わっても別人だ。セックスそのものはものすごく上手になっていたが、それだけの話。創作するのも止めている。相当前の話らしい。だから、只のおじさんだ。が、その自覚は彼自身にもあったようで、行為の後、そんな目で見るなよ、当時のオレの方が異常状態にあって、今のオレがオレ本来に戻った状態なんだ、普通なんだよ、と弁解する。その後、きみはあんまり変らないな、と続けて言うが、わたしは返した言葉を憶えていない。もしかしたら何も言わずに、もう一度彼をベッドに誘ったのかもしれない。目の奥に哀れみの色を宿しつつ……。
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