14 想
――気づいた方がいいのかな?
――ううん、気づかない方がいいのよ。
――そう?
――でも、本当は何もかも知っているんでしょ?
――まさか! ぼくが愚鈍で勘が悪いのは、きみが一番良くわかってるだろ。
――ええ、でも……。
――思い出さない? 珍しくきみが選んで入った喫茶店なんだが……。
――うん。思い出さない。だって、あのときのわたしはもうこの世にはいないから……。だからあなたにも忘れてくれとはいわないけどね。
――思い出したくなくて思い出せないことは、いくらでもあるよ。この世には……。だから、きっとヒトはそういうふうに造られているのさ。
――誰に? あなたが信じてもいない神様に……。
――ぼくがある種の神を信じていないのは事実だけど、神の方にしてみれば、そんなこととは関係なく存在し、存在し続けているよ。今も昔も未来も、おそらく人間が神のような存在に変ったにしても、ずっとね。
――あなた、変った?
――いや、見えて来たんだろう、自分が……。それまで見えなかった本質的なところが……。
――スゴイわね、そういうのって……。ふうん。わたしも、そんなふうに変れるのかしら?
――ぼくの目には、きみはずっとそうやって生きてきたようにしか見えないけどな。
――自分じゃ、わからないってこと?
――きみに弱点があるとすれば、すべての感情を言葉にしないと落ち着けないことなんだ。それは理想かもしれないけど、言葉に、ならない/できないことも、この世にはあると知れば少しは気が楽になるよ。
――わたしが普通に感じている言葉は、あなたが言うところの、言葉に、ならない/できない、ことまでも含んだ、もっと大きな体系なんですけどね。でも言いたいことは伝わったわ。それに、そのもっと大きな体系にしたところで、ならない/できない、ことを含んでいるのだろうし……。
――そういうこと。
――でも、あなたに言われたくないわね、そんなこと。あなたの方に拘りがあるはずなのに……。それにあなたには、わたしには使えない数式だって言葉として使えるんじゃないの?
――数式が最後に連れて行ってくれるのは、確かに五感では想像出来ない世界だよ。四次元の世界を外側から直接見ることなんて、ぼくたち人間には永久に不可能だからね。ましてや十次元なんて見えるはずがない。数式の中には確かに描写されているというのに……。
――つまり、数式は道具ってことね。人の器官を延長する。例えば顕微鏡や望遠鏡のような……。
――そう。いわゆる言葉とは、そこが違う。でも、同じ部分もある。
――どんな?
――会話ができるところだ。それに可能性は示せても、必ずしも答を導けるわけじゃない。まあ、間接的に便利な証明法はいろいろと考えられているけどね。
――やっぱり、あなた、変ったみたいね。でも悪い方向にじゃないらしい。ありがとう。
――おいおい。それって、きみに感謝されることなのか?
――うん、そうだと思うよ。あなたが下種な、いいえ、そこまで行かなくても一般的な男の人に変わっていたとしたら、わたしは自分の過去を信じられなくなるかもしれないもの。だから、ありがとう、なのよ。本当に……。
結局、元カレがわたしの心中に気づいたのかどうかわからなかったが、それはもうどうでも良いことに変わっている。最初に元カレをこの喫茶店に連れてきたときには、わたしの方に覚悟があったので、気持ち的には楽だったはずだ。が、すべてを忘れたはずの今の方が気が重いのが、不思議といえば不思議。でも、いい。それが重ければ、捨てればいいだけのこと。もう一回、捨てるだけ、たったそれだけのことなのだ。が、そのことが当時のわたしにはわからない。上書きをし、あるいは絵の具の厚塗りをして元の部分を隠してしまおうとしていたのだから……。無意識のうちに元カレの存在を見えないように覆ってしまおうとしたのだろう。そんな心の行為が未練であることが今ならわかる。未練がなければ、画そのものを捨てるだろう、燃やすだろう、毀すだろう。でも未練があるから見えない部分にその存在を遺すのだ。気持ちの上では振り切ったと信じたフリをしながらも、朝には思い出せない夢の中で、とっぷり、たっぷりと浸るのだ。
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