10 呼

 ――あなたは呼ばれないんだよね。

 ――ああ、ぼくの場合は聞こえるんだ。

 ――わたしの声だったりするんだよね。

 ――そのとき気にかけている声が聞こえるんじゃないかな?

 ――他にはどんな声があったんだっけ? やっぱり、女?

 ――とも限らないな。一時期は猫の声が聞こえ過ぎて困ったよ。塀の向こうを覗けば、実際に猫がいたこともあったが、大抵はいない。精神的に不安定な時期だと、その後、心臓が大変なことになった。

 ――繊細なのね。

 ――さあて、どうだか? 自分でも可笑しいと思うよ。信じてもいない幽霊みたいなものに怯えるなんて……。

 ――ダークサイド・オブ・ザ・ブレインなんでしょ?

 ――自覚的ではないだけでね。実際に外界が存在するにしても、自分に見えたり、聞こえたりする何かを作り出すのは自分の脳なんだ。それ以外にはあり得ない。が、正しい変換の場合があれば、誤変換もある。

 ――だけど誤変換が最初の入力となって導き出された怯えにしても脳が作り出した産物でしょ。ある意味、正しい成果物なんだよね。

 ――うん。でも、そこまでわかっていても怖いものは怖い。火事だとか、暴力だとか、物理的な恐怖と違って対象がはっきりしないから対処法がない。だから、より怖い。まあ、ぼく自身が臆病なだけかもしれないけどね。そして実際に聞こえるのは、大抵は罪なくきみがぼくを呼ぶ声だとか、風や壊れた引戸のように、ひゃあ、とか、きゃあ、とか啼く猫の声なんだけどね。


 最初にわたしが呼ばれたのがいつなのか、わたしは憶えていない。憶えていないというより、無理矢理忘れてしまった、曖昧にしてしまった、無かったことにしてしまった、と、どうやらそういうことらしい。

 人間は忘れることができる。事後、意志的にそうすることもあるが、体験したショックが余りにも大きければ、心が自分で防御する。恐ろしい体験をした人格をそっくりそのまま『わたし』の中から排除して恐怖を知らない別の『わたし』を作り上げる。

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