第2話 はじめての……
人をいたぶるのに使われるような
それがいま、この瞬間ならどうしよう。
カーテンの向こうからは運動部の声も聞こえている。
私はほとんど裸だ。
私のシャツを、まるで繊細な絹織物のように丁寧に扱う春田さんは、袖のボタンまで全部外し終えると、手を後ろで組んで小さく二歩下がった。
触るつもりはないという意思表示。
怖いのに、やめたくない。
ワイシャツを肩から落とすと、今日はアンダーシャツを着ていないから、上半身は白いブラ一枚だ。
Aカップにも満たない平坦な胸にはブラより胸あてのついたのキャミの方が楽なのだけど、体育の時間に笑われてから着なくなった。
今日も、それで良かったと思った。
俯いた顔は分厚い前髪の後ろで、緊張も高揚も隠せただろうか。
腕から力を抜いて、じっと待った。
少し間があって、視界の端で春田さんが動いた。
ゆっくり周りを歩いて、私の体を隅々まで見てる。
あざがないか、痕がないか。
真剣な眼差しで、見てる。
(穴、開いちゃいそう……)
私の呼吸音と、春田さんのかすかな足音だけが聞こえる。
真後ろで止まったけど、どこを見てるか背中でわかっちゃうくらい熱い視線。
「左わき腹、青くなってる。あと、唇も切れてる」
ぶっきらぼうにそう言った春田さんは、それでもその場を動かない。
「そっか、ありがと……」
私は緩慢な動作でシャツを着て、床に下りた。
ジャケットを羽織ってから靴や靴下を直してる間も、彼女の視線が痛い。
一挙手一投足、ひとつも見逃すまいとしているような熱量を感じる。
でも私は、ここまでだ、とブレーキを踏んだ。
冷静になったわけでも、気味が悪くなったわけでもないけれど、なぜか急に素っ気ない態度を取りたくなった。
「私、帰るね」
まるで何もなかったような顔で振り返ると、春田さんは無表情のまま黙ってうなずいた。
彼女もこれ以上踏み込むつもりがないとわかって、私は少しがっかりした。
がっかりして、自分がわざと冷たい態度をとって、相手の出方を見たのだと気がついた。
嫌なやつだ、と自己嫌悪に襲われる。
私はそれ以上何も言わないで、自分の教室に向かった。
すみっこに放り投げられ二時間ほど待たされたリュックが拗ねて見える。
重くて、拾い上げるのも億劫だ。
ふと見ると、前方の扉に春田さんが立っていた。
軽そうでぺたんこの可愛らしい鞄を斜めがけにしていて、黒い布製のギターケースを背負ってる。
(軽音なんだ…)
ぼんやりそんなことを思いながら、後方の扉から廊下に出た。
廊下、階段、廊下、下駄箱。
一定の距離を保って、彼女はずっと着いてくる。
とぼとぼ歩く私を、ずっと見てる。
「メガネが歪んじゃったから、帰りに眼鏡屋さんに寄らないと……」
ぼそぼそと口からこぼれる独り言は、幼い頃から話す相手が自分しかいなかったせいでこびりついた癖で、気をつけていても漏れてしまう。
靴を履き替えて、昇降口を出る。
まだ、彼女は私を見てる。
(もっと……)
校門を出て、右に曲がる。
ちょっと間があって、彼女が着いてくる。
本当は反対方向なんだな、と思ったら嬉しくなった。
(もっと見て……)
これは彼女にとって無駄な時間じゃない。
反対方向にわざわざ歩いてきてしまうほどに、私は春田さんにとって価値のある人間なんだ。
結局彼女は駅までの約十分、程よい距離から私を見つめ続けた。
二人だけの秘密を共有してるみたいで、楽しくてくすぐったい。
まるで一人で歩いているように振る舞っていたけれど、改札をくぐったところで急に、もしかしたら本当にひとりぼっちで、もう春田さんはそこにいないんじゃないかという不安が押し寄せた。
そんなの当たり前じゃないか。
ついてきているなんてありえない。
階段へ向かう通路の途中で、私は我慢できずに後方へ視線を投げた。
立ち止まるつもりなんてなかったのに、黒い人の波間、改札の向こうでぼうっと立ってる彼女が見えたら、足が動かなくなってしまった。
胸が苦しくて、何かしたくて向き直ったけれど、彼女のほうが少し早く私に背を向けて、もと来た道を歩き出してしまった。
長くて綺麗な髪がふわふわ揺れるのが遠くでもわかる。
どうしたらよかったんだろう。
さよならを言わなくちゃいけなかった。
ううん、また明日って言えばよかった。
手も振れなかった。
◇
家に着くまで、私は何度もあの奇妙な行為を思い出してはため息をした。
思い出すたび体がむずむずして、心がざわざわして、また息が漏れる。
鋭くて、深い、春田さんの目。
射抜かれて、息もできない。
でももう終わったことだ。
私は彼女を振り返らなかったし、彼女も私に背を向けた。
公営団地の汚れた玄関を前に、鍵がうまく挿せないくらい手が震えてしまう。
誰もいない室内にもつれながら入ると、たった数歩先の自室までたどり着けないような気になった。
キッチンを通って居間を抜け、襖を開けるのが精一杯。鞄を畳に投げ出して、ベッドに倒れた。
あの視線。
目を閉じればすぐに思い出せる。
春田さんが私を見てる。
熱い視線で私を溶かしてく。
もっと見てほしい。
もっと。
どうしてそう言えなかったんだろう。
嬉しかったのに。
玄関が開く音で目を覚ましたら、もう夜の九時だった。
(お父さん、また玄関で酔いつぶれてるのか……。救出に行かないと)
夕飯を食べるのも忘れるなんて馬鹿だな、と起き上がって、改めて自分のしたことに頭を抱える。
あのときの私はどうかしてた。
(そう、どうかしてたんだ。だからもう大丈夫。もしかしたら夢だったかも)
気休めの呪文を繰り返しながら、情けない父親に水を飲ませて着替えるように言いつけて尻を蹴る。
どうしょうもない人だけど、大事な父親だから、風邪をひいてほしくはない。
居間兼父の部屋に布団を敷いてやって、私は自室に引っ込んだ。
デスクライトで宿題をしているうちに、隣から寝息が聞こえ始める。
母が出て行ってから、父は夜の時間をお酒で埋めている。
暴れる人じゃなくて良かったけれど、親子の会話は減ってるし、健康だって心配だ。
そうやって父親の心配をしている隙間にも、あの視線が蘇る。
「考えちゃダメだ。明日は絶対いつもどおりの日だ」
わっと机に突っ伏して独り言で誤魔化しても、私の心臓は信じられないくらい早鐘を打っていた。
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