第9話 知りたくなかった
一晩じっくり考え、赤岩先生に対するミッションは中止しないと決めた。
赤岩可南子教諭は見るからに健康に気を配っていて、持病などないに違いない。それに、迷っているうちに果南ちゃんがまた世を儚んだりしたら大変だ。赤岩先生には悪いが、果南ちゃんのほうが100万倍は大切だった。
–––– でも、今度も読めないかもね。先生、気が強そうというか精神のガードめっちゃ高そう。
そんなことを考えつつ、学校を出たすばるは先日のコーヒーショップへと向かった。
表情に緊張が出ていたのか、別れ際に芽衣子と陽菜が、
「大丈夫?」「よくわかんないけど手伝おうか?」と聞いてくれたが、すばるは笑顔を振りまいてごまかした。気のいい友人たちにこれ以上の心配をかけたくなかった。
バスの連絡が悪く、到着が遅れて少し焦った。しかしそれがよかったのか、バス停に降りると、ちょうど赤岩先生の車が駐車場へと入ってくるところだった。先生のは明るい色をしたフランス車なのでわかりやすい。
すばるは、まず同じ敷地内にあるドラッグストアで時間をつぶし、ころあいをみてコーヒー店へ移動した。明るい音楽が耳を打つ。店内は学生風の男女と高齢者が目立った。
赤岩先生は、奥まったところにあるテーブル付きの一人席に腰をかけていた。
中庭に面し、野鳥まで遊びに来るいい場所だが、先生は相変わらずスマホと仲良くして、鳥にも景色にも興味なさそうだ。
それより、困ったことに彼女は一番端に座を占めていた。その隣には髪の真っ白な年配男性がすでにいて、拡大鏡を片手に週刊誌を読んでいる。
すばるは舌打ちした。他の席なら横についたり後ろに立ったりできるが、この席だと難しい。まず「だれあんた」と警戒される。
仕方ない。とりあえず白髪頭の隣に荷物を置き、メニューで最も安いドリップコーヒーを受け取ってそこに座った。
隣にきた若い女に、白髪頭はまったく関心を示さなかったが、入り口近くにいた学生風の男たちがチラチラとこちらを気にしている。知らない顔だし無視をする。たぶん変装のせいだろう。
赤岩先生はすばるを知らない。しかし、今後どこかで顔を合わせる羽目になるやもしれない。そう考え、念のために本日も変装していた。
制服は着替えたし、昨日の変装キットに加え下手なメイクまですませた。口紅をつけた妹を鏡の中から見た七瀬の感想は「コウメダユウ」だったが、少なくとも4、5歳は上に見えるはずだ。初期の目的は達した。
ただし学生風の反応からすると、ナンパしやすそうなアホヅラに見えるのかもしれない。今後の研究課題だ。
すでに首と肩はマッサージがほしいほどこわばっていて、七瀬がスタンバイしているのは明らかだった。
しかし、赤岩先生に触れるきっかけがつかめない。
–––– どっか行け、どっか行け、そろそろ帰れ
と、隣席の白髪に念を送ってみる。七瀬と交信できているということは、自分にテレパシーの才能があるのじゃないかと思ったりしたのだが、相手に動く気配はゼロ。それどころか、ときどき舌なめずりしながら読み耽る。これほど熱心に読まれるとは週刊誌も嬉しかろう。テーブルに置いたアイスコーヒーもほとんど減ってないし。チッ。
思い出して自分のコーヒーを口に運ぶ。
店内を見回すと、さっきの学生風の連中がのんびりと雑談し、スマホを見せっこしている。ゲームの画面だろうか。
その気楽そうな姿に、張りつめていた気持ちが少し緩んだ。
(せっかく先生がいたのに。今日は空振りかな)
いったい何をやっておるのか、と無計画な自分を胸の内で罵った。
バス代とコーヒー代、さらに先日からの交通費を合計すると清貧の高校生にとってかなりの出費だ。これならフィルムだって定価で買えたじゃないか、と嫌になる。
いかん、とすばるは胸の内で首を振った、このぐらいで諦めてどうする。
どうせはじめから、先生の足元にニセの落とし物でもして身体に触れようと考えていた。当初予定より強めに投げればいいだけだ。座席一つ分ぐらい。
そう考えなおした。
コロコロコロ、あっすいません足が邪魔ですごめんね動かしますよ。よっこいしょ。おや、おねえさん。綺麗な足首ね。これだ。これでいこう。
転がす物を見繕っているうちに、背中でも痒いのか白髪男性が急にもぞもぞ身体を揺らした。
椅子の脇にあるテーブルが揺れ、載せてあったグラスがゆらりと倒れた。音がして、半分以上残っていた中のアイスコーヒーがテーブルの天板にぱっと広がる。うろたえた白髪男性は、中腰のまま固まってしまった。
跳ねるがごとく立ち上がったすばるは、倒れた隣席のグラスを戻すなりペーパータオル台まで飛ぶように駆け、タオルの束をつかみ席に戻った。
こぼれたコーヒーはテーブルから滴り続けている。白髪は週刊誌を手にオロオロしているだけだ。
とりあえずコーヒーにタオルをあて、これ以上こぼれ落ちるのを止めた。まだ足りない。さらに追加で持ってくると棒立ちの男性に、
「つめたくないですか?」と聞いた。スラックスの膝が少し濡れている。
「ああ、ああ大丈夫」
しかし、移動を試みた白髪男性が、今度はテーブルを蹴飛ばしてしまった。グラスがまた倒れ、天板に残っていたコーヒーが垂れ氷が飛んだ。店員も騒ぎに気がついたようだが、まだカウンターの中でモタモタしている。
白髪男性は、驚きと申し訳なさで軽いパニックを起こしたみたいだった。
とにかくいったん席から離そう。そう考えたすばるの耳を、ハリのある女性の声がうった。
「ちょっとだけ動かないで」「よし、これならどう」
両手に大量のペーパーナプキンをつかんだ赤岩先生だった。彼女はコーヒーを左手のナプキンでせきとめ、白髪男性に垂れた分を右手で器用に拭き取った。
しかし、礼を言おうとした白髪男性がまたバランスをくずし、今度はグラスが床に落ちそうになった。
「おっと」すばるが手を伸ばして止めた。
赤岩先生も手を伸ばし、すばるに手を重ねるようにグラスの落下を防いだ。さすが体育教師。反射神経がいい。
目と目があって、お互い笑顔になった。
ほんの少し間が空いて、ガラス片みたいな記憶が流れ込む感覚があった。
多くは七瀬が受け止めているのだろうが、すばるにもはっきり彼女の意識が見えた。
驚くほどの記憶の奔流だった。
知らない風景、知らない部屋。知らない女性と男性、年齢はさまざまだ。ごく若い一群の男女。
急に勢いがやわらぐ。
下流にたどり着いたような感覚。
さっきよりはっきり浮かんだ人々の顔、中に知った顔がある。あ、岩崎のおばさん、果南ちゃんのお母さんだ。そして果南ちゃん。明るい顔、戸惑う顔。果南ちゃんの顔が続いた。
そしてこれは…じんわりといい気分だ。いや、痺れるような愉悦。
意味を理解したすばるは慄然とした。
(手紙を書いたのは赤岩先生。ターゲットは果南ちゃんとお母さん。先生は果南ちゃんの苦しみと悲しみを知っている。正義は、楽しい)
赤岩先生は、起立性低血圧にでもなったかのような感じで一瞬、ふらついた。
すばるもその場に立ち尽くしていたが、
「すみませーん」との声を聞き、われにかえった。
「大丈夫ですよお」店員が二人、やっときた。清掃用具を手にしている。あと一人、やや年かさの店員が白髪の男性を広い場所に誘導し、衣服の濡れをたしかめている。「いや、すまんすまん」白髪は年かさ店員の持つタオルを借り、スラックスを自分でぬぐった。
ぼんやりしていた赤岩先生は、やっとぎこちない笑顔を浮かべ、
「ごめんごめん、掃除の邪魔よね」と、汚れたペーパーナプキンをゴミ箱へ捨てに行った。だがその間、視線はずっと下を向いていた。
「なっちゃん…」思わず声が出た。横にいるはずの姉に呼びかけたのだ。
日はすっかり暮れて、店の窓ガラスに室内の様子が映し出されていた。その中に店にはいないはずの女の子が立っている。七瀬だ。七瀬はすばるをじっと見ながらうなずいた。
もういい、撤収せよと伝えている。
赤岩先生は、服に少しコーヒーが付いたらしく、店員から濡れナプキンを借りて拭き取っている。白髪男性も落ち着いたようだ。
向かいの道路にあるバス停に、人が集まっているのが見えた。バスが近づいているのだ。残っていた自分のコーヒーをしっかり飲み干すと、すばるは無言で店を出て行った。
帰途、すばるはずっと黙ってさっき見たものについて考え続けた。
(間違ってたらいいのに、幻覚だったらいいのに)心からそう思った。
(あれは、赤岩先生の心と記憶は、現実なのだろうか。悪夢を見た感じ。ひどすぎる。信じられないし信じたくない。けど)
乗り換えた電車の窓ガラスに七瀬が映ったりはしないし、スマホも指も無反応だった。肩と背中の感触は、有るような無いような。
(でも、なっちゃんの様子からして、まぼろしなんかじゃない)
赤岩先生に触れ、すばるが垣間見た彼女の記憶は、果南の悩みが杞憂などではないことをはっきり示していた。
自宅の最寄り駅にたどりついた頃には、街灯が光っていた。
(本当かよ。まさか。ひどすぎる)
思考力を失くしたように、すばるは同じ言葉ばかり頭の中で繰り返した。
彼女の脚なら駅から自宅まで10分とかからないのだが、今夜は重しがぶら下がったみたいに脚が前にでてくれない。
(あんな人が現実にいたのか。世の中は広いな)
足を引き摺るようにして家に向かう。
T字路にさしかかって、ふと見上げるとカーブミラーが人のように彼女を見下ろしていた。ゆがんだすばるの姿を地明かりが写している。
笑えてきた。笑いはしだいに引き攣って、ついに涙になった。
どうして私は泣いているんだろう。怒ったり、嫌悪したりすべきではないのか。あまりに果南ちゃんが可哀想だからか、それとも。
泣いている自分の顔が、いつのまにか七瀬の顔に変わっていた。七瀬もまた、途方に暮れた表情をして妹をみつめている。
家の手前まできたところで、答え合わせのように指がスマホの上を動いた。
すばるの読み取れなかった箇所も七瀬はしっかり把握していたようだ。それによると、数年にわたって果南ちゃんに父親の不倫を伝えてきた手紙の主は、やはり赤岩先生その人だった。
敵・味方で世界をとらえたがる赤岩先生は、愛人の岩崎先輩の夫人、果南ちゃんのお母さんを早くから仮想敵としていた。はじめは彼女の夫を完全に奪ってやろうとの気持ちもあったけれど、次第に彼女が苦しむ顔を想像するのが楽しみとなった。
ところが、夫人はかなり鈍いのか、赤岩の試みたいたずら、例えば岩崎の車に残した髪の毛などにさっぱり気づいた気配がない。
そのため、接点のあった彼女の娘を利用した。自我の弱い少女なのですぐ母親に相談すると見ていたからだ。それも大袈裟に。
「くだらん。ダンナとヨメ、親と娘はみんな別ものでしょ」すばるがつぶやくと、
「カノジョノ脳内デハチガウ」と七瀬は答えた。「テキノコハテキ」
「すけべ教頭の子でもあるじゃない。彼氏の娘いじめてどうすんの。ていうか、二人の腐った関係、いつごろから?」
「ズットマエ」
パパ岩崎との関係は赤岩が20代のうちにはじまり、その後一度切れてその間に彼女は結婚もした。仕事もそれなりの評価を得て充実していた。
ところが、夫および義理親への不満の捌け口として岩崎との関係がいつしか復活した。どうやら赤岩側から働きかけたようだ。このあたりの時系列は正確に読み取れなかったが、たまたま娘を指導するようになり、二人の関係はさらに深まった。互いの配偶者を騙し旅行などもしたようだ。
だが、勤務先が一緒になったのを機に「ただの友人に戻ろう」という意味の言葉を時おり、岩崎は口にするようになった。出世もしたし互いにいい歳だ。赤岩は表面上、強く否定しなかったが内心で怒りを募らせた。
年月を経て赤岩の岩崎評も変わった。頼りになる先輩から自分を最も理解してくれるやさしい愛人へ、そして見た目だけで中身の薄い男と軽んじるようになり、優柔不断な愚か者というのが最新の評価だ。しかし同時に、赤岩のプライドがそんなつまらない男に長く囚われてきた自分を認めたがらない。
また赤岩は、出会った当初の果南には特に悪意を抱いていなかった。むしろ庇ったり成長に力を貸そうとさえした。
しかしそのうち、果南のあまりに真っ直ぐなところにイラつきはじめた。母親似なのもわかったし。
ダンスで褒めて、貶して、褒めて。彼女をコントロールしようとして、飽き足らなくなった。父親との関係を伝えたのも母親が狙いだったのに、だんだんと果南の落ち込む姿を見るのが目的になった。少しやりすぎたことがあって彼女は離れてしまったが、今でも思い出したように手紙を送り、その様子を父親の言葉から想像して楽しんだりする。たまに姿を覗きに行ったりも。
「サイコパスってやつ?異常だよ。果南ちゃんが自分を慕ってるのは分かってたんでしょう。少しは可哀想とか親の身代わりは気の毒とか、思わなかったのかな。やり口もカッとなってとかじゃない。回りくどくて冷静すぎる感じ。将棋じゃないんだからさ」
「キョウジントハ、理性イガイノアラユルモノヲナクシタヒトヲイウ」
「なにそれ」
「ブラウンシンプノ作者ノコトバ。アカイワノ脳内デハ、チャント行動ノスジハトオッテル」
「知らんわい、そんなの」
また、果南ちゃんは遠回しな悪意に翻弄され苦しみつつ、まだ心のどこかで赤岩を信じている部分がある。それをいつどうやって完全に壊すかを想像するのが赤岩の現在の楽しみだ、と七瀬は付け加えた。
「なっちゃん、どうするよ」すばるは聞いた。
「真実はわかった。けど証拠はない。ただの妄想って言われるのがオチ。素敵な先生が実はサイコパス、私はその心を読みましたなんて誰も信じない。先生本人からしてそうだよ。どうやったら止められるかな」すばるは自宅の前で腕組みした。
「木刀で襲ってボコボコにする?やつ、そんな手が効くほど単純じゃないよね。それは私にもわかる。怪我が治ってからエスカレートしそう」
しばらくして、すばるの指がスマホの上で動いた。
「タメシタイコトガアル、アトハソレカラカンガエヨウ。チカラヲカシテ」
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