第8話 痴女大作戦
–––– しかし、自分が言い出したってのは認めるけどさ。なんで私が痴女なんてしなくちゃいけないんだよ。嫁入り前だぜ。
胸のうちで自分自身をののしりながら、すばるは混み合う電車の中をじりじり移動している。
目指すは細いストライプの入ったグレーの背広。岩崎教頭の背中だ。
単に偶然だろうが、車内にはやけに太ってかさばる男が多いと思えてならない。さらに、
(なんでみんなスマホ?)と、自らを棚に上げてすばるは憤る。
それぞれが手にスマホを捧げ持ってゲームに動画にマンガを見るおかげで、一人当たりの空間がますます広がり、彼女の動く余裕がますます減る。おまけに彼奴らはスマホに意識を奪われ、車両内での立ち位置が中途半端である。もっと奥へとつめろよ。
イライラすると、制服が見えないよう羽織っているウインドブレーカーがますます蒸し暑く感じる。
( あー)すばるは脳内で頭を掻きむしった。今朝は帽子、ウイッグまでつけてるから実際には掻きむしれないのだ。
(動きづらいし暑いし。チッ。誰に怒りゃいいんだ)
夜の公会堂での、厳しい顔の七瀬とのやりとりのあと、さらに自宅近くのコンビニ駐車場へと場所を替え、すばるは姉と議論を続けた。
その際に七瀬が繰り返し指摘したのは、例の相手に触れてその記憶を垣間見る作業につきまとうリスクだった。
あれはすなわち「霊との濃厚接触」であり、場合によっては重大トラブルにつながりかねないというのだ。
しかし結局はすばるの熱意に引っ張られる形で、姉妹が協力し今朝の痴女チャレンジに取り組むことになった。
それに、トラブルと聞けば余計に、(あの中年バカップルが痛い目にあうとか望むところだ)との気持ちが抑えきれなくなる。おそらく七瀬も心の底では同じだろう。
(あくまで二人はまだ容疑者。けど、果南ちゃんと上手くいってないのは間違いないし)
頑固な妹にリスクを理解させようと、七瀬は曖昧にしてきた自分の能力について、はじめてといえる説明を行った。
ごく単純化するなら七瀬は「低い」側、生きた人間は「高い」側となる。
すばるの身体を介して相手と接触、シンクロに成功すると高から低へ「生命力」とも呼べるものが流れ込む。それには意識や記憶も含まれているらしく、上手くいけばこちらの知りたい記憶にも触れられる。
ただし、首尾は相手の気質や状態に大きく依存する。果南ちゃんとのケースは偶然と幸運に恵まれた例外と考えるべきで、そうそう狙った通りにはならない。また果南ちゃんだって、その後疲労感や虚脱感に襲われたかも知れないと七瀬はいう。なにせ微量だが生命力が流出してしまったのだから。
「それで最初、握手を拒んだってわけ?」
ソレダケジャナイ、と彼女は答えた。
このシンクロ現象には激しい副作用 –––– 幻覚や体調不良 ––––– の起こることがあり、仲介者たるすばるにもその可能性がある。これを決して甘く見てはいけない。心不全が起こったら目も当てられない。
すばるは当然な疑問を尋ねた。「そっか。で、なっちゃんはなんともないの?それで、その情報はどうやって知ったの」
すると、一転して七瀬の態度は曖昧になり、はっきりした返事のないまま話題を換えた。
(ちっ。やっぱり都合の悪いのは答えやがらん)
乗ったのは普通電車のため、律儀に駅ごとに停車した。
ドアが開き人の入れ替わるたび、すばるは少しずつパパ岩崎へと近づき、ついには背中同士向き合うのに成功した。
(あー、くたびれた。まだ授業もはじまってないのに)
懸案は、相手がいちおうは昔の知り合いであり、こちらの正体に気づかれてしまうことだ。しかし彼女は楽観的だった。
自分は彼の知友ではなく昔、娘が仲良しだった4姉妹の、さらに一番下の娘。記憶に残っていてもその姿は、背が30㌢㍍以上低い小学生のはず。おまけに今朝はマスクにメガネ、未央姉から借りた帽子とウイッグ(なぜか彼女はいろいろ持ってる)の変装グッズまで着装している。かえって怪しい女と注意を引くかもしれないけれど。
七瀬も心得たもので、現在位置に達したとたんすばるの首と肩にかすかな抵抗が加わった。すでに二人羽織状態だ。
ほんとうに自分に姉の幽霊が憑依しているのか、ただ隣にいるだけなのか、あるいは別の状態なのかはよくわからない。姉からの説明はない。妄想のような気もまだする。
ただ、この状態になると、ほんのりとだが姉の存在を実感する。死んでいるはずなのにその息づかいまでも。
一度はすばるたちの前を去った姉・七瀬がすぐそばにいて、自分と同じ目的を追い、問いかけにも全てではないが答えてくれる。そのことにすばるは喜びさえ感じていた。
(でもまあ、意固地で理屈っぽいのは姉妹共通だからしかたないか)
先夜、なぜ両親や姉たちに姿を見せないのかとの問いに、七瀬はようやく返答した。が、それは「イッパンロントシテ」とはじまった。
彼女によると、生きている人間が死んでしまった人物と親しむのは、その生命力を弱らせる可能性が高い。
怪談・牡丹灯籠において、お露(幽霊)と仲良くした新三郎(生者)が弱って死んでしまうのがその典型例といえよう。ヨーロッパの吸血鬼伝説も同根で、血とはすなわち生命の…と、得々と解説するのに面倒くさくなったすばるは、「なら鬼太郎は?平気で人間と一緒に行動してる」と突っ込んだ。
「アレハユウレイゾク。ユウレイジャナイ」そう訂正してから七瀬はやっと本題に入り、
だからこそ私(七瀬)は、両親や姉妹に存在を伝えないし家にも出ない(化けて出ないという意味か)。そんなことをすれば、まず間違いなく家族の寿命を縮めるからだ、と解説した。
–––– 無理しちゃって。素直に会えばいいのに。
最初はそう感じたすばるだったが、すぐ肝心なことに気がついた。
「それより私はどうなのよ。わ、た、し。なっちゃんの相手をしてるどころか、身体まで貸しちゃってる。て、ことは私取り憑かれてる?もうすぐ死ぬの?」
猛然と噛み付く妹を、「ナワケナイ」と七瀬はいなした。
「アンタハトクベツセイ。コロソウトシテモシナナイ」
「どういうこと?」
七瀬によると、すばるは幽霊の影響をあっさり無視できる能力、すなわち「霊障の分解酵素」を生まれながらに有する。謙作さんがそうだったように。これは極めて稀少な体質と思われるが、おかげ様で何の杞憂もなく面談できるし身体も借りられる。
「なんじゃそれ。納得がいかん」
「アンタモオネエチャンニニテキタ。リクツッポク、ウタグリブカイ」
お姉ちゃんというのは長姉の美波を指す。家では彼女だけが「お姉ちゃん」と呼称され、あとは名前呼びである。
「なっちゃんさ」すばるはしつこくからんだ。「昔の大ヒット作だって私に無理に見せたよね。あのけったいな映画、シックスセンス。あれだと『見える子』のもとに幽霊が集合してたじゃない。頭の後ろ側が無いのとか。てことは、私も知らずにいろんなのを引き寄せてるの?見えてないだけ?頭半分とかこのあたりをうろうろしてるのっ?私はホウ酸団子かっ」
ヒステリックにあたりを見回す妹に、ソレハナイと姉は宥めるように伝えた。
すばるはホウ酸団子などではない。そして巡り会えたのは、まさしく姉妹がゆえ。縁もゆかりもない他人ならこうはならなかったし、すばるがいるからこそ、私はこの世界の片隅にいて口出しもできる。
「スバルノチカラニ、ワタシモマタマモラレテイル。カンシャシテル」と、今ごろになって姉はしんみり伝えてきた。
「なら、そんな珍しい力が私たちにあるなら」すばるは力強く言った。「果南ちゃんのためにもう一度だけ使おうよ」
無かったら仕方ないけど有るんだし、とすばるは続け、
「私たちが守るべきは生きて元気なあの子。いつそうなくなるかは、わからない。100%安全な方法を探してたら最悪の事態に間に合わないかもしれない。悪い影響は、あってもあの二人と私だけでしょう。リスクを考慮しても、十分おつりのくる話だよ」
車両ドアのガラスを使って背中側を確認すると、さっきまで文庫本を読んでいた岩崎教頭はそれをしまい、首をあげ吊り広告をぼんやりと眺めはじめた。降車までもう後1、2駅のはずだ。
焦る気持ちを抑えつつ、最接近する。その間、幾人もの身体と触れたが、なるほど無意識に触れた程度では二人羽織状態でもシンクロは起こらないようだ。
後ろ足でじりじり位置を調整し、二人の間にだれもいない状態に持ってゆく。揺れに乗じて、ついに背中同士ほとんど触れ合うところまで近づくのに成功した。うれしくないけど、ほんのり岩崎教頭の体温を感じる。
身長差もあまりないので、油断すると後頭部をぶつけてしまいそうだ。車内放送でカーブへの警告があって、実際に車両の傾くのがわかった。
–––– よし。
気分はぜんぜん楽しくないが、キキキと音の鳴る車両の動きに合わせ力を抜くと、すばるの背中は自然に岩崎教頭の背中に押しつけられた。
次の瞬間、警戒していた意識の流れ込みはなかった。やだなー、と思いながら手をだらんと伸ばす。上手く教頭の手に触れた。
–––– おいおっさん、肌荒れひどいぞ。まだ40代だろ。
しかし明確な記憶の断片や、まして不倫の記憶などは流れてこなかった。ただ、呼吸を重ねるうち何やら熱気のような感覚が伝わってきた。先日の果南との際に感じたガラス片みたいな記憶ではなく、彼女の暖かい灯火のような気配でもない。強いて言えば赤い色のついたトゲトゲスポンジ。いや、ウミウシみたいにうねってる。
一瞬、なんだろこの反応は…と考え、ぞっとなって思わず体を離してしまった。
おそらく、これはいわゆる、性的な興奮というやつだ。
見知らぬ女子高生と背中を押し付け合う状況になって、先生は動物的に反応してしまったのだ。真面目っぽい紳士の外観をしてるくせに、中身はそのあたりにいるただのすけべ親父だった。
–––– ぎゃー、キモっ、気色わるっ。
自分が、人に性的な興趣を与えうるなど、すばるは真剣に意識していなかった。そのためこの事態をまったくシミュレートできていなかった。
運動に親しんでいる彼女は、筋肉質のすんなりした体つきをしている。それでも、男どもよりは多めの脂肪分と若い女特有のかおりか何かに、岩崎教頭は反応してしまったらしい。知らんけど。
(おええっ)(おっさん、いちおう聖職者だろ)(でもどうしよう。心なんて読めなかった)(あれをもう一回やるのかよ…)
そんな思考が脳裏に明滅する。七瀬の反応はない。
だが、ちょうど電車が駅に着いてしまった。開いたドアに乗客が吸い込まれるかのように出てゆく。その中に岩崎教頭も混じっていた。
(あっ、すけべ親父も出ていっちゃう)
こんな状況は想定外だったし、一瞬迷ったが、
「えい、しゃーない」と自分に言い聞かせ、すばるも電車を降りた。空気が一挙に涼しくなり、ほっとする。
(どこ消えた、すけべ親父…)
果南ちゃんのイケてるパパからすけべ親父にランクダウンした岩崎教頭の姿を探す。
人は多いし馴染みのないホームなので焦って見回していると、
(あっ)
改札口の手前に岩崎教頭はいた。
だが、まるで酔っ払いのようにフラフラと歩いていたかと思うと、崩れるように膝を折りべたっと床に尻餅をついてしまった。駅員が駆け寄ってきた。
(えっ、生まれたての子鹿の逆?)唖然と見ているうちに、改札を急足で抜けようとする男女の中から30ぐらいの男が抜け出し、「せんせい、どうしました?」と聞いた。
同じ学校の教師のようだ。教頭は意識を失ってはおらず、床にへたり込んだまま30男に状況を伝えている。わらわらと別の駅員たちもやってきた。
すると、スマホを握ったすばるの指が動いた。「ホットケ」
作戦終了というわけだ。
たしかに、駅員も部下もいる。ここに長居しても意味ないし無駄だろう。
彼女はそのまま階段を使って反対側ホームに立つと、すべり込んできた電車に乗り込み、本来の通学ルートへと戻った。
発車の際、車窓から岩崎教頭の姿が見えた。尻餅をついたままだったが、首をあげてさっきの部下らしい男と無事に会話していた。即死や重体ではないようだ。何となく残念。
幸いこちらの車両は混雑していない。空席を見つけてすばやく腰をかける。
「はー、おどろいた。なんであんなことになっちゃったんだろ」
まさか、私の固いお尻に感銘を受けすぎて血圧があがったとかではないだろうな。
そんなことを思ったりしているうち、七瀬からスマホ越しにメッセージがあった。
「サンコウトデキルキオクナシ」「ココロヲヨミヅライ」
やはり、岩崎教頭から不倫に関わる記憶を読み取るミッションは失敗に終わったのだ。娘とはタイプがかなり違うのかもしれない。
すばるは、さも独り言をつぶやくように聞いた。「でも、さっきのあれはなんだろう」
「ココロニフレタフクサヨウ」と返事があった。つまり突然の体調不良は、すばるを経由し七瀬(の幽霊)に触れた影響というわけだ。
「そっか。ああなるのか。私がああなることもあり?」
「ナニガオコルカハ、ヤッテミナイトワカラナイ」
「あ、そう。でも教頭先生の命に別状はなさそうでよかった」
「キニスルナ、アンナヤツ」
「はいはい」
七瀬とやりとりしながら、姉もまた謙作さんに似たのかもしれない、とすばるは考えていた。
自分ばかりが似ていると言われるが、彼女のおせっかいもたいがいである。はじめはぐちゃぐちゃ言っても、いつの間にか自らリードしている。
謙作さんもまた、他人の苦境を見過ごすことができなかったらしい。
霊能力者らを救ったとの伝説についても、当初は関与を断ったものの、結局は自ら混乱する現場に乗り込み(百鬼夜行なみの凄い状況だったとの説がある)命懸けで人々を助け出したのだという。それも無償で。
「ねえ、謙作さんってこんな馬鹿なことやってたかな」すばるは独り言みたいにつぶやいた。
「シラン」反応がいいのは七瀬もまだ興奮してるのかも知れない。
「お祓いのお祓いなんてどうやったんだろ。危険じゃないのかな?」
「ダロウナ」
「そんな力も親切心も、ボランティア精神も私にはないよ」
「ケンサクサンモキタイハシテナイハズ」
ただ、彼は息子のように可愛がった義郎少年 –––– すばるたちの父 –––– とその家族が困った時のため、役に立ちそうな道具を遺した。
「ダカラ、アノクロイカメラハ、ウッタリシナイデイッショウダイジニシロ」
クロイカメラとはすばるの物になった一眼レフカメラのことである。今どきのカメラと違って美しい黒塗装が施され、傷をつけたり擦れたりすると金属の下地が見えてしまう。
「大事にしてるよ」
「アレニハスゴイチカラガアル。マチガッテモワタシニムケルナ」
「ふーん。お祓いでもできるの」
「メイビー」
「でも私がいま欲しいのは、生きた人間を改心させる道具だな」
電車が駅に停まり、おおぜいの客が乗り込んできたので、すばるは口を閉じ、ぼんやり車窓に目をやった。
目下の彼女の頭を占めているのは、学校の始業時間に間に合うかどうかだけになっていた。
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