第7話 悲しみと怒り 

 今日は気圧のせいか頭が重いのだ、という弁解めいた言葉を果南は最初、口にしていた。だからぼーっとした。それ以外は何もないし、元気だ、とも。

 しかしその割に席を立とうともせず、すばるを見つめる目はどこかすがるようでもあった。途方に暮れている、というのが正確かもしれない。

 すばるが、バッグに入れたカメラを見せたりレンズを向けたり、にぎやかにしゃべり続けると、果南の表情も徐々に柔らかさを取り戻し、雑談に応じはじめた。そのうち自分から、

「あのね、変な話だけど」と話をはじめた。

 少し前、夢に七瀬が出てきたのだと言う。

(えっ、なっちゃんそんな真似もできるの?便利)

 などとすばるが思っていると、そのせいかこの間から七瀬が思い出されてならない、ということを果南は繰り返した。あとは彼女の死を悲しみ、その将来を惜しむ話が続いた。

 あまりに悲しむので、(別の誰かと間違ってる?)とすら疑ったが、どうやら七瀬と果南の間には、すばるたちの知らない心の交流があったようだ。

 たしかに、年齢は同じでも野生動物に近い末妹より、従順で愛らしい隣家の小さな女の子のほうが感情を通わせやすかっただろう。妹たち相手ならばかばかしくてできない親切も、果南にならできただろうし。

 

 「私ね、このごろ思うんだ。なっちゃんがあのまま大人になったら、どんだけ素敵な美人になっていたかなって。元気だったら絶対モデルにスカウトされてたよ」

(聞いたか、なっちゃん。クソな姉妹どもの評価とは大違いだ)

「そうだ。亡くなる前になっちゃん、私のダンスを見にきてくれたんだ」

「へえ。あのめんどくさがりが」

 果南は再会以来はじめて、自分からダンスについて話した。市民ホールで行われたイベントに参加した際、次姉は応援にでかけ花束まで渡したらしい。妹たちの稽古事にはまったく関心を示さなかったくせに。

 やけに果南の境遇を気にかけるはずだ。そんなやりとりがあったなんて。

「意地悪はしなかった?」とすばるは聞いた。「ふふふふ、まだまだだなとか、変な花言葉の花を渡したりとか、知ったかぶりでキツい批評をしたとか」

「しないしない。褒めてくれてすっごい嬉しかった」


 すばるは慎重に本題に近づこうとした。「そうそう、果南ちゃんは小・中と真剣にダンスやってたでしょう。だからスタイルがいいんだ。私は前進後退しかできないから、ふくらはぎパンパンのこんなザマに」

「そんなことないよ」

「高校にもダンス部あるんでしょ、けど感じが違うのかな。それとも今度はバンドにハマった?楽しめるのが一番か」

「うん」力なく果南はうなずいた。「あの頃は楽しかった。私、運動神経がいいわけじゃないけど、特に中学のときの顧問の先生がすごい熱心だったし…」そこまで言って、果南は数秒のあいだ無表情になって、

「なんか、ね」と黙り込んだ。


「私もあったよ」その様子を見て、すばるはつとめて明るく言った。

「ほら私、中学の時に剣道部を辞めちゃったでしょう。一時は部と道場を掛け持ちして、『また行くの?』って親が呆れたぐらい気合が入ってたのに。あれ、あんまり言ってないけど、先生に飽きたところがあるんだ」

「そうなんだ。知らなかった。勉強とか忙しいからと思ってた」

「ううん。違う。あの独特の世界っていうか空間も嫌になっちゃって。剣道そのものはまだ好きでも、指導の先生とか、その言うことを無理に聞こうとする自分が嫌になった。最初は落ち込んだよ。ドロップアウトしたように思えてならなかった。でもこの頃は、『いや、人生はトライアンドエラーでしょ』って居直るようにしてる。それに写真とか別のことを真剣にはじめたら、これはこれで深い!って思うようになった。あたしは世間が狭かったって」

「そっか。そうかも。ホントそうだ」果南は、子どもが小さな灯をみつけたように笑った。「なんていうか、もうダメだ、ってなることはあるよね」

「あるある」あまり意味がないのを自覚しつつ、すばるは調子を合わせた。

「音楽も深いし」

「深い深い、めっちゃ深いよ。深海魚だよ」

 果南はやっと顔を上げて夕闇の迫る空を見た。表情は穏やかだった。

 それからしばらくして、かなりの迂回表現だったが果南は、

「私も、嫌になることがあって」ダンスを辞めたのだと告白した。すぐに別の他愛のない話題に変わったのだが、突然に果南は鼻をすすりあげた。

「どうしたの?」

「なんでもない、なんでもない」

「な、悩みがあるなら、私でよければ聞くよ」

「ううん、大丈夫、ありがとう」果南はそれでも笑顔を浮かべてかぶりをふった。その瞬間、

(この子は決して弱いとか優柔不断とかじゃない)のをすばるは理解した。(周りを思いやり過ぎ、自分を傷つけてしまってるんだ)

 この子はこの子で、世界の均衡を取り戻そうと必死に闘っている。父親も祖母もその勇気と努力に気づかず、自分たちのケチくさいゲージに合わせ矮小化している。

(奴ら、自分たちのクソさ加減への自覚がない。いい歳して馬鹿げてる)

 すばるの内側に、果南を傷つける大人たちに対する怒りが吹き上がった。すると、自分でも思いがけない動作をしてしまった。

 体をずらせて向かい合うと、「ちょっと待ってね」と、彼女のほっそりした両手を、脈診でもするように自分の二つの手でつかんだ。

 息を呑む気配が伝わってきたのは、目の前の果南ではなく姉の七瀬のものだろうか。

 だが、ベンチから見える鏡に「やめろ」と止める彼女の姿はなかった。


「我ながらごつい手だから嫌になる」

「でも、指は白くて長いよ」やさしい果南はあくまで褒めてくれた。

「これ、心理テスト兼おまじないだから、ちょっとだけ付き合って。昔なっちゃんが教えてくれたのを思い出したの」と、適当なこと言ったが、

「なっちゃんが。それはうれしいかも。ああ、なっちゃんに会いたいなあ、お話したいなあ。私、一度すばるちゃんとゆっくり話したいなあとは思ってて、そっちは叶ったから次はなっちゃん。そばにいてくれたらなあ…」

 いま叶ってる。そう思いつつ、

「大丈夫?いやなこととか悲しいこと、ない?」と目を見ながら聞く。すばる自身がされたら「うっせえ」と振り解きかねないところだが、気のいい果南はされるまま、微笑した。

「ない、ない」

 先日のような七瀬による抵抗も感じなかった。

 このような、自分でも思わぬ行為に出たのは、すばるが姉ではなく謙作さんについて考えていたせいかもしれない。子供のころ、繰り返し聞かされた謙作さんについての伝説を、途方に暮れる果南を前に彼女は思い出していた。

 

 謙作さんは騒々しい人ではなかったが、いるだけでその場が暖かに感じられたという。彼が亡くなった時、通夜にきたある弔問客は、

「自殺するつもりだった日に彼と会い、死を思いとどまった」と告白したのだそうだ。別れ際に彼がごつい手で握手してくれ、それで肩にあった重しがとれた気がしたのだという。

 すばるにそんな能力はないが、さんざん似ていると言われてきただけに、わずかでも謙作さんの真似ができないかと願いを込め、果南の手を握った。

 はじめひんやりしていた彼女の手が、次第に暖かく感じられてきた。

「これで悩みは消え、果南ちゃんはまた元気になりますように」

「やだなあ。私、そんなに元気なかった?」

「少なくともお腹は空いてそうだった。私も空いたから、もう帰ろうか」

「うん、でも」

「なに?」

「これまで、あまりそうは思わなかったけど、今日ははっきり感じてる。すばるちゃん、やっぱりなっちゃんに似てる」


「そう?」すばるはとぼけた。「私のほうがかなりでっかいぞ」

「ずっと前のことなの」果南は真剣な、しかし暗さのない表情をして言った。

「私、お母さんにって思って一生懸命摘んでいた花をうちのお兄ちゃんに無理にとられて泣いていた。そしたら、なっちゃんが見つけて花を取り返してくれた。それで、お兄ちゃんを追っ払ったあとこんな感じで慰めてくれた。花と一緒に両手をそっと握って、『嫌なこと飛んでいけ』って」

「そう。たまにはいいことしたんだ」

「やっぱり私、なっちゃんに会いたいな。いっぱい話したいことあるのにな」

 果南は泣き笑いの顔になった。

「元気にしてたら、そのうちまた会えるよ」すばるは微笑みながら言った。「ぜったいに近くでまだうろうろしてる」

「そうなの?」

「うん。ときどき感じるんだ。たぶん暇だし、果南ちゃんもたまに相手してやって。あ、ただし自分から向こうの世界に行っちゃダメだよ。なによりそれはなっちゃんが嫌がる」



 すばるはひとり、ほとんどの照明を落とした薄暗いフローリングの空間にすわっていた。周囲は鏡。

 ここは狸坂公会堂といい、バレエやダンス、剣道教室の開かれる公営の施設だった。

 今夜はすばるも週2回、参加している剣道の稽古日だった。怪我もなく無事に稽古を終え、拭き掃除もすませて彼女は端座していた。指導員や他の道場生は帰ってしまった。

 着替えはしたが、激しく動いたあとの身体がだんだん寒く重く感じられる。

 誰もいない空間に彼女は語りかけた。

「ねえ、考えたんだけど。なっちゃんが私と二人羽織している時に人を触ったら、気持ちが読めるやつ、あれを使って果南ちゃんを救うのはできないかな。一度は落ち着いたかもしれないけど、やるなら早くしないとまた同じことになる。今度は私たち、近くにいないかも」


 駅ホームでの握手のあとのことだ。気が楽になったのか、果南は自分から悩みがあると告白した。それは、いわゆる怪文書についてだった。以前から妙な手紙が届くことがあったが、

「しばらく途切れていたのに、最近またはじまった」と、疲れ顔で彼女は言った。文面の説明は避けたが、

「意地悪な子供みたいな感じ。とにかく気味が悪くてしつこい」と評した。そして、無視し続けているもののふとした拍子に思い出し憂鬱になるのだ、という意味のことを彼女は話した。

「お母さんとかに相談できない?」と聞くと、すばるが言い終わらないうちに果南は激しく首を横に振った。

「そう…」すばるなら即、「見ろ!これが怪文書だぜ」と、家族に晒すところだが、果南の性格ではそれも難しいようだ。

「ごめんね、せっかくすばるちゃんが心配してくれているのに。でも、なんて言ったらいいか、うまく話せないし」そう言って果南は足元に視線を落とした。

「いいよ、無理にしゃべらなくていいよ。相手は私だし。それより、そんな手紙なんか今日この瞬間から忘れちゃえ。そいつ、果南ちゃんが気にすること自体が目的で喜びなんだよ。無視無視」と、乱暴な口ぶりで伝えると、ようやく果南は小さくうなずいた。

「うん、忘れるよ。今からすっぱり」

 しかし、果南と握手した際、彼女がよほどそれに意識をとらわれていたためか、怪文章の断片はすばるにも見えた。と言うことは七瀬も見たはずだ。

 それは彼女の父親の、母親に対する裏切りを繰り返し示唆していた。不倫の相手についても、具体名はあげていないが赤岩なのはわかった。

 さらに、おぼろげではあったが、それを受けて果南ちゃんが父親の行動を調べ、心服していた部活顧問と実の父親による母親への裏切り行為を確信する様子も伝わってきた。繊細な少女の心がどれほど傷ついたかも。

 すばるは懸命に内心の動揺を抑えながら、

(なんちゅう卑怯で無神経な奴らなんだろ。ありえない)

 と、岩崎教頭と赤岩教諭、そして見知らぬ密告者に憤慨した。果南は母親に気づかれずに父親の行為を止めようとも図ったが、鈍感な父親はその真意に気づくことなく終わってしまったようだった。

 きっと七瀬も負けずに腹を立てているはず。しかし、彼女からの明確なリアクションはなかった。

 

 別れ際、ようやく表情のやわらかになった果南とすばるは、最後にもう一度握手して別れた。

 その際は、先日感じた影のようなものを感じることはなかった。謙作さんの真似事が功を奏し、ひとまず果南の死を希求する気分は去ったのだろうか。

 いや、いつまた盛り上がるかわかったものではない。


 そう考えたすばるは七瀬に提案を行った。

 まず彼女との能力をもって岩崎、赤岩両人に直接触れ、それぞれの心から事実を確かめようというものだ。果南の記憶はすばるの胸を打ったが、彼女の主観でもある。それをなるべく冷静に確かめ「果南ちゃんが自分に嘘をついてないのを確認しようよ」と、いうのが姉への殺し文句だった。

「なっちゃんの好きなミステリーなら、そろそろどんでん返しがあって、二人とは違う別の第三者が犯人だ、ってなるかもしれない。でも、残念ながらそうは行かないと私は思う。なっちゃんはどう?とにかく二人の心を探らない?」

 すると、「エイガノラショウモンミタイニコンランスルゾ」との返事があったが、

「私見てないし、それ」と、すばるは答えた。

「とにかく、実際にやってたらなんか記憶に残ってるでしょ。それを私たちなりに確認できたら、芽衣子の案にそってみっともないおっさんとおばはんに釘をさしてもいい。赤岩先生はともかく、岩崎パパに釘をさされてまで不倫を続ける度胸はないと思う。なっちゃんだってそう思うでしょ」

 返事はない。

「あと、うまくいけば怪文書の差出人だって見当がつくかも。というか、こっちの犯人を見つけたいって気持ちのほうが強いかな。だって犯人はぜったい二人に近いところにいて、動きをよく見ている奴だと思う。例えば赤岩夫とか。なにか情報を得られたら、それをもとに正式に野尻さんに調査を頼んで、周辺をきっちり調べてのもらうのもアリでしょ」

 また返事はなかった。

「とにかく、あまり時間がないから、チャレンジしてみたらどうだろう。空振りってことはないと思うんだ。うん、リスクについてはちゃんと考えた。でも、私たちと先生二人だけなら、他人を巻き込ずにすむでしょ。だから明日にでもまず二人の心をのぞいてみようよ」

 また反応なし。

「具体的には、一瞬だけ試して、それで何か掴めるようだったら、もうちょっとしつこく心をのぞいて、できればそこで確証を得る。まず小手を打って動きをとめ、面で一本をねらう。これだとトラブルも最小限に抑えられる、と思う。楽観的すぎる?」

 鏡にはすばる自身しか写っていなかった。だが彼女には、近くに姉がいて考えてくれている確信があった。

「あと難しいのは、相手の心に探るよりその次をどうするか、ってことなのはわかってる。芽衣子は手紙作戦とか推奨だけど、あいつはSNSぎらいのとこあるしね。とにかく一刻も早くおっさんおばはんを我にかえらせて、果南ちゃんを楽にしたいんだ。これが全くダメだったら、諦めて野尻さんに怪文書についてだけでも相談するからさ」


 いつのまにか、薄暗い鏡に映ったすばるの髪が長くなっていた。服も今着ているジャージとは違うセーラー服だ。七瀬が現れていた。

 鏡の中の姉は、いつもどちらかといえば暗めの顔をしているが、今夜はそれに厳しさが加わっているように思えた。

 すばるが見るうちに、姉の唇が二度、同じ言葉を繰り返した。

「きけん」と言っている。

「え、なに?どういうこと?」

 すばるもまた怖い顔になって鏡に問いかけた。「油断したままタッチしたら向こうに影響を受けるのはわかってるつもりだけど」

 「それではすまない」と姉の唇は動いた。

 「えっ、それは…」すばるは鏡の中をじっと見つめた。



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