宗狂二世

旅人

(1)ぼくはもうこの生活を続けられない

 じっとりと汗ばんだ体を起こして時計を見る。時刻は午前8時。昭和の昔なら4畳半と呼んだだろう部屋にはチラシと昨日の夕食の残り、空になったペットボトルが転がっていた。2011年7月。東京の夏は盛りに差し掛かり、電力状況のひっ迫から冷房を弱めている大都会はまさに灼熱地獄だ。脱水気味の喉を潤すための水を探して目をさまよわせるが、どこにも中身の入ったペットボトルは見当たらない。それもそのはず、一昨日に友人から借りた千円札を、ぼくは昨日の夕食(特売のおにぎり90円3つ、小さめのペットボトルに入ったお茶、120円)で使い切ってしまったのだ。昼ご飯を抜いたため、もうろうとして計算ができず、お釣りを放り込んだ財布にはもう139円しか入っていない。

 のろのろと体を上げる。スーパーマーケットの3階の洋服売り場で買ってきた薄っぺらい寝袋(2,480円)はひどく寝心地が悪く、真夏でも朝起きると腹痛がした。今日は朝食は抜き。奨学金が入るのは明日なので、今日一日を139円で生きないといけない。肩ひもの破れたリュックに床に散乱する教科書を詰め込み、靴下だけ替えて昨日の衣服のまま外に出た。

 どうやって大学にたどり着いたのか、自分でも覚えていない。空腹とのどの渇きで意識がもうろうとしていたのだろう。いつものように下北沢の街を抜け、鉄道を見下ろす土手沿いを歩き、巨大な邸宅の並ぶ高級住宅街を抜けて、私鉄の小さな駅の手前で踏切を渡るとそこにぼくの通う大学がある。長細い建物沿いに並木道が続く長い坂道を登って左に折れると、両開きになった大きな鉄の門がある。警備員の人が暇そうに学生を見るともなく見ている前を、学生たちが黙々と門に入っていく。よく、テレビなどでは着飾った女子学生が笑いさんざめく私立大学のキャンパスが描かれているが、国立大学に通う自分にはあまり想像ができない。

 構内に入り、生い茂った木々の間を歩くうちに人心地を取り戻すことができた。少し湿った木の匂い。落ち葉が土にゆっくりと変わるときの、雨の前のような匂い。古い校舎に生えた苔の匂い。ここは、いつもゆっくりと時間が流れる。

 人流に沿って図書館の横を抜け、1限目のある建物に入る。1号館と呼ばれる大きな建物だ。全体に古く、ドアの枠などは木材が朽ちてがたが来ているが自分は気に入っていた。この大学にはクラスという概念があり、1年目と2年目の前半はそのクラス単位で必修講義を取る。自分は高等専門学校からの編入生なので、所属すべきクラスがない「みなしご」状態だ。第二外国語は無関係な文系のクラスに潜り込んで履修している。

 ここ数日風呂に入っていないし洗濯機がないので洗濯もしていない。どうも自分は臭いようにも思うが、精神科の薬を飲んでいるせいかあまり対策する気も起きない。待っていると徐々に学生が集まってきた。大人のように、落ち着いた低い声であいさつを交わしている。だれも教室で大音量でゲームをしないし、奇声を上げない。ゲラゲラ笑うものもいない。とても不思議だ。数人いる女子学生はみな品のいい服を着ているし、男子学生も大人のような洗練された格好をしている。

 授業に集まった学生たちの中で、ひときわ自分の目を引いたのは赤いワンピースを着たおとなしい女学生だった。名前は一条詩織。自分とイニシャルが同じなのが何かの符丁に思えて学期の初めから気になっていた。授業中はいつも真面目に話を聞いていたが、何度か、彼女が雨の降る窓の外を見ながらノートの上に筆記体で何かを書いているのを見かけた。6月のしっとりした雨に濡れた緑の木々。土のにおい。窓から差し込む光の中で髪をかき上げる彼女は、神聖なほど不思議な生き物に見えた。

 彼女は他の学生のようにぼくを見ても気まずそうに目をそらさない。女鹿のようなつぶらな瞳でぼくを見ながら、教授の配布した資料をほっそりした手で渡してくれる。どうぞ、とその口がつぶやくときだけ、自分は孤独ではなく、世界にはぼく以外にも人間が存在するのだと思えた……。


***


「何を考えているの?」

 美樹がマニキュアを塗った手でグラスを振りながらぼくの目をのぞき込む。グラスの中では、濃厚な金色の液体の中で小さな泡が水面めがけて一斉に舞い上がる。水面の少し上には豊かな栗色の巻き毛に縁どられた彼女の顔。くっきりした目の上で、疑問符が額に渦巻いている。

「学生の頃は貧しかったよな、って」

「みんなそうよ」

 君もそういうんだね。ぼくは心の中でひとりごちる。ここのバーの一番安いボトルでもあの頃のぼくの1週間分の食費よりも高いのに。今君が着ている服もは上から下まで合わせて15万円。愛に飢えた男が洗練された若い女を手に入れるためのプレゼントとしては妥当な価格ではある。どうせ最後は全部脱がせるのに、なぜそんな大金をつぎ込むのか。なぜ、なぜ自分は今持っている金をあの頃の自分に送れないのだろう。月に2万円でもあれば、あの子と付き合えたかもしれない。君とではなく。

 女には男がほかの女のことを考えているとそれを直ちに察知する能力があるという説があるが、少なくとも美樹はその能力を持っていないようだ。ぼくにしだれかかってくる美樹に合わせて、ぼくはその腰に手をまわした。


***


 どこかで虫が床を歩く音がする。隣の部屋で両親と弟がいびきをかいて寝ている。開け放った窓からは虫の声と切れかかった街灯のカチン、カコンという音が聞こえる。空腹に耐えきれず、そうっとガラス戸を開けて台所に出る。凸凹に波打った床がきしんで肝が冷えるが、狙いの品はすぐそこの冷蔵庫の上だ。食べ物の汁がべたべたとついた冷蔵庫の上に、食パンがおいてあるのを夕食を追い出された後に見つけておいたのだ。一番薄い6枚切りの食パン。袋の右下に安売りのシールが貼ってある。

 そうっと冷蔵庫に近づき、パンの袋を手に取る。プラスティックの留め具を外して袋を開けると、真っ白な食パンが顔をのぞかせた。一枚引き抜いて口に押し込む。昼に学食のうどんを食べただけの身に、小麦の香りが染み渡る。

 そうっと2枚目を引き抜こうとした時、どうしても3枚目と引っかかって抜き出せないことに気づいた。いっそのこと、3枚食べるか。ばれないだろうか。悩むぼくの前でシミだらけのふすまが開き、母が顔を出した。いつものように眉間に深く刻まれた縦じわ。起こって吊り上がった両目。まだ17歳だったぼくの体が機械のように震えだし、食パンが指の間からすり落ちていく……。


***


 ホテルのベッドから起き上がって、サイドテーブルの水を飲み干す。

「わるいゆめ?」

 美樹がタオルケットを巻き付けただけの体で寝返りを打って、寝ぼけた声を掛ける。

「いや、なんでもない。喉が渇いた」

 君に話すほどぼくは子供じゃないよ。バスルームで顔を洗い、おそるおそる鏡を見る。そこには、泣きそうな顔をした子供のままの自分が写っていた。

 自分がこの生活をもう続けられそうにないと気づいたのは、それが初めてだった。ぼくはもう33歳になっていた。

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宗狂二世 旅人 @TabitoA

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