第70話 もう少しだけ
「悠里」
そっと大切に、剛士は彼女の小さな両手を包み込む。
「……もう少しだけ、俺と、友だちでいてくれるか?」
剛士は真っ直ぐに悠里を見つめた。
「俺、もう逃げないから」
昔のことだと目を背け続けた、あの人の華やかな笑顔。
ズキリと、剛士の胸が痛む。
まるで、ついたばかりの新しい傷のように、鋭く。
けれどここで目を背けたら、また同じことの繰り返しだ。
自分の心に、過去の傷がそのままの形で残っていた理由。
しっかりと考えて、乗り越えなければ。
「俺、向き合うよ。ちゃんと、前に踏み出せるように」
『どっちが前なんだろう?』
剛士の心を引き摺り込むような、元恋人からの暗示的な問いかけ。
剛士は唇を引き結び、振り払う。
そして目の前にある優しい瞳を見つめた。
湧き上がる温かな思いを胸に抱く。
もう迷うことのないように、大切に。
悠里の傍に、いたい。
もう、惑わされない。
――どっちが前かは、俺が決める。
剛士は真っ直ぐに悠里を見つめ、言った。
「俺、がんばるから。悠里のところに歩いて行けるように。もう悠里を不安にさせないように。乗り越えたら、ちゃんとお前に、気持ちを伝える。だから……待っていてください」
「……はい」
悠里は、柔らかな笑みを浮かべ、しっかりと頷いた。
悠里は彼の手を握り返し、切れ長の瞳を見上げる。
真っ直ぐで綺麗な、大好きな剛士の強い目があった。
剛士らしいと、思った。
傷と真正面から向き合うことを選んだ。
それは、彼がいつかまた、元恋人と話す日が来ることを示す。
『俺の中にある取り残された過去の気持ちが、俺を引き摺ろうとする。何かをしなくちゃいけないって気持ちにさせられる。なんで、なんで今更』
悠里は、彼が苦しそうに、悲しそうに吐露した言葉を思い返した。
剛士が、あの人と向き合うのは、辛い。
胸が震えるほど、怖い。本当は。
けれど、それが剛士のやり方なのだ。
『アイツは、人に対してちゃんと向き合ってくれるよ。適当な態度とるとかは、絶対ない。いっつも誠実だよ、ゴウは』
カラオケの部屋で聞いた、拓真の言葉を思い返す。
――そうだよね、拓真さん。
ゴウさんは、誰に対しても、しっかりと向き合う人なんだよね。
ならば、元恋人から目を背けたことの方が、彼らしくない行動だったのだろう。
彼の心に深く、残っている傷。
向き合わない限り、剛士の心が癒え、前を向ける日は来ない。
いつも落ち着いて、何でもないように、全てをこなす剛士。
けれど本当は、1人で背負い込んで、苦しむ剛士。
仲間や友人に弱音を吐けず、じっと独りで、我慢する剛士。
誠実で不器用で、優しくて強い剛士。
悠里は彼の瞳を見つめ、微笑んだ。
「私も、ゴウさんの傍にいたいから。一緒に、がんばるね」
剛士は正直に、心の中を打ち明けてくれた。
ずっとずっと、悠里の手を握りながら。
今も繋いでいるこの両手が、自分を必要としてくれるという証ならば。
傷と向き合い、乗り越えようとする剛士を、支えられる存在になりたい。
傍にいて、一緒にがんばっていきたい――
悠里は、きゅっと大きな暖かい手を握り返した。
剛士は優しい笑みを浮かべる。
嬉しかった。
話を聞いてくれて、自分の弱さを受け止めてくれた。
そればかりでなく、一緒にがんばるとまで、言ってくれた。
「悠里……ありがとう」
剛士は彼女の小さな手を包み込み、その優しい温もりを、心に刻みつける。
「待たせてごめんな。俺、悠里に対して中途半端なことしたくないから」
「大丈夫。いつまでも、待ってます」
悠里は、にっこり微笑んだ。
「ゴウさんのこと、信じてる。だからゴウさんも、私のこと信じてくださいね」
「……うん」
剛士はしっかりと彼女の手を握り、頷いた。
「……俺、お前に甘えてばかりだ」
「そんなことないよ? もっと、甘えてください」
つられるように、剛士も柔らかく微笑む。
切れ長の瞳が悠里を映し出し、優しく揺れた。
「不思議だな。お前には、弱さを見せてもいいと思ってしまう……」
その言葉は、彼が悠里に心を開いてくれた証なのかと思うと、暖かな喜びが胸に広がった。
今は、それだけで充分だと思った。
まだ、お互いの気持ちを言葉に乗せて、伝え合うことはできない。
その代わりに、2人は強く手を握り合った。
お互いの気持ちを信じて、一緒に、前に進めるように。
キラキラと輝き続けるイルミネーションを星に見立て、2人は未来への誓いを立てた。
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