第66話 情けなくないよ

「未練なんかないし、別れたことを後悔なんかしてない。昔に戻りたいなんて、思ってない」


固い声で、否定の言葉を連ねる剛士。

その姿は、電話の向こう側にいる彼女に向かって「違う」と必死に訴える、痛々しい彼を思い起こさせた。


「なのに、過去の気持ちが、俺を引き摺ろうとする。何かをしなくちゃいけないって気持ちにさせられる。……なんで、なんで今更」


悔しそうにも、腹立たしそうにも聞こえる、低い声音。

「引き摺られたくない。俺は、前に進みたいのに」

最後の言葉は、微かに震えた。



否定を重ね、抗おうとする剛士。

強い言葉とは裏腹に、俯く切れ長の瞳。

なんで、と寂しく震える声――


そのなかに、過去の剛士を見た。


恋人の裏切り、先輩の裏切り。

独り、取り残されて。ズタズタに傷ついて。

泣いている剛士がいた。



彼の傷は、まだ過去になっていない。

癒えぬまま、涙は枯れぬまま、ずっと剛士の心の中にある。

剛士は今もなお、傷ついたままなのだ。


そのことに気がつき、悠里の胸にも痛みが走る。

悠里は、繋いだ手にしっかり力を込めた。



剛士は、溢れ出る苦しさを押し込むように唇を引き結ぶと、ゆっくりと悠里に目を戻した。

その切れ長の瞳は静かで、いつもの落ち着いた彼と同じに見えた。


剛士が、小さく微笑む。

「……ごめんな。俺の弱さに巻き込んで。悲しい思いをさせて。俺がしっかりしないといけないのに、お前に無理させた。お前の優しさに、甘えてしまってた」


剛士の大きな手が、力を込めた悠里に応えるように、優しく握り返してきた。

「情けないよな……」



悠里はじっと、彼を見上げた。

静かに自分を見つめている剛士を。

穏やかで、痛々しい、黒い瞳を。



カラオケボックスで聞いた拓真の声が、脳裏をよぎる。


『あいつ、いっつもフツーの顔してた』

『励まされても、逆に揶揄われても、ホントいつも通りだった』


剛士は、周りの人からは見えないように、自分の苦しみを押さえつけて。

いつも通りの顔で、バスケ部への責任を負ったのだ。


剛士は、たった独りで……



一粒の涙が、悠里の頬を伝った。

「……情けなくないよ」


悠里は両手でしっかりと、剛士の大きな手を包み込んだ。


「ゴウさんは、こんなに傷ついてるのに……ずっとひとりで、我慢していたの?」


剛士は一瞬、言葉を詰まらせた後、強張った声音で答える。

「……別に。もう、昔の話だよ」



悠里は思った。

ああ、剛士はこうしてずっと、自分の心の悲鳴から目を背けていたのだと。

過去のことだと、無理に自分に言い聞かせて。

剛士はずっと、悲しみを抑え込み続けたのだと。


そうしないと耐えきれなかったのであろう、剛士の心。

その痛みを思うと、胸が裂かれそうだった。



悠里は、首を横に振って言う。

「昔のことなんかじゃないよ。ゴウさんは、ずっと苦しんでる……それでも、がんばっていたんでしょう?バスケ部のために」


涙に揺れる真摯な瞳で見つめられ、剛士は言葉を失う。


「拓真さんが、言ってたよ。バスケ部を守るために、ゴウさんは、がんばったんだって。辛いはずなのに、いつも、普通に過ごしてたって」


剛士は小さく首を横に振る。

――別に、もう吹っ切れてたし。

そう言いたかったのに、剛士の喉からは声が出なかった。


悠里は涙を堪えて、言った。

「ゴウさんは、自分のことよりも、ずっとバスケ部のことを考えて、必死でがんばって、それで……」



剛士はきっと、恋人を失った悲しみに、素直に向き合うことはできなかった。


そのための時間も気力も、全てをバスケ部に注いだ。

その苦しみを、誰にも伝えなかった。

ひた隠しにして、ずっと、独りで耐えた。


彼の傷は、彼自身にも、誰にも手当てをされず、癒えぬまま……

だから今でも、あのときと同じ痛みを抱え、彼の心に在り続けているのだと、悠里は思った。



剛士の目が、脆い硝子細工のように、さまざまな色の感情を映し出した。


「……だって、俺が、そうするしかなかったから」

殆ど吐息だけの微かな声で、剛士は呟いた。



恋人は去った。先輩も去った。

剛士は、責任を独り、背負った。


「俺が少しでも弱音吐いたら……バスケ部は壊れる。そんなわけには、いかなかったから」


当事者として、部を立て直す。

それは剛士にしか、できないことだった。


悲しい声だった。

切れ長の瞳が、小さく揺らめいた。



「……うん。うん、ゴウさん。もっと話して?」

悠里は涙を堪えて、頷いてみせる。


剛士は、過去の自分を覗き込むように目を伏せ、苦しげに言葉を紡ぐ。


「俺1人の感情で、バスケ部を壊すわけにはいかなかったから。先輩から託された部を、仲間も後輩もいる部を、俺が守らなきゃいけなかったから」


「うん」

「仲間と、楽しくバスケに打ち込める場所を守りたかった。そのためなら俺は、何でも耐えられるって、思ったんだよ」


「……うん」

剛士の硬く強張った両手を優しく包み、悠里は頷いた。


「ゴウさんは、偉いよ。バスケ部を、守ったもの」


剛士は泣き笑いのような、必死に堪えるような、曖昧な微苦笑を浮かべる。


悠里は、真っ直ぐに彼を見つめ、優しい声で囁いた。

「ゴウさん。辛かったよね……」

「……うん」


悠里の言葉に、剛士の脆い微笑みが、静かに崩れていった。

そして下から、悲しみに震える本当の彼が、姿を現した。


「ゴウさん」

悠里は、彼の手を握る両手に、柔らかく力を込めた。

「話してくれて、ありがとう」



「……悠里」

ぱちぱちと、切れ長の目を瞬かせ、剛士は不器用に笑う。


「俺を、泣かす気?」

「ふふ、泣いても、いいですよ?」


微笑んで、胸を貸すと言わんばかりに両手を広げた悠里に、剛士は吹き出した。

「……やだよ、カッコ悪い」


それから小さな声で。けれど、暖かい声音で。

そっと、悠里に囁いた。


「……ありがとう。何かちょっと、すっきりした」

「本当? 良かった」

悠里は、にっこりと優しい微笑みを浮かべた。


大きな手がそっと、広げたままだった悠里の両手に伸びる。

そうして、彼女の手を離すまいとするかのように、しっかりと繋いだ。

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