第65話 時間を戻されたような感覚

小さく深呼吸し、剛士はまず、彼女の問いかけに答えることから始める。


「……うん。俺の中に、あの人に対する気持ちが、残っていたんだと思う」

正直に、剛士は言った。


元恋人への気持ち。

悠里を傷つけてしまう言葉だと、わかっていた。

けれど彼女に対して、嘘をつきたくない。

自分にできる精一杯で、剛士は正直な気持ちを、言葉にしていく。


「未練があるとか、そういうんじゃない。けど、顔を見た瞬間、昔に巻き戻されたみたいで。俺の中に埋まってた、昔のままの感情が、いきなり掘り起こされるみたいで……」


自嘲気味の暗い笑みを浮かべ、剛士は一瞬、目を伏せた。

「……はは、なんでだろうな。化石じゃあるまいし」


最後の言葉は冗談になり損ね、苦しい吐息のように彼の唇から零れ落ちた。



彼の言葉ひとつひとつが、悠里の胸に深く突き刺さり、痛みが広がっていく。

この気持ちを、どう受け止めれば、いいだろうか。


未練ではないと、剛士は真っ直ぐに自分を見て、そう言った。

けれど、この数日のうちに何度も見た、悲しく沈む切れ長の瞳。

苦しそうに引き結ばれた唇。


彼の中にある『あの人に対する気持ち』とは、何だろうか。

『昔に巻き戻されたみたい』な感覚とは、何を意味するだろうか。


きっと、剛士自身にもまだ、正体は掴めていない。

彼の中に埋まっている『昔のままの感情』。


それが、掘り起こされたら。

その正体を知ってしまったら。


自分たちは、これからも一緒にいられるだろうか――



繋いだままの手から、体温が抜けていく。

彼の姿が涙に滲んで、正確な像を結ばなくなる。


消えていく。

今日、大切に集めてきた剛士との温もりが。

未来へと続いていけると思えた、優しい希望が……


不安で怖くて、全てが崩れてしまいそうだった。

けれど、泣いてはいけない、まだ。

悠里は瞬きを繰り返し、涙を心に押し込む。



「……ごめんな。不安な思いをさせて」

悠里を映し返す切れ長の瞳は、優しい色を浮かべたままだった。

悠里は首を振り、必死に答える。

「大丈夫だよ。聞かせて……」

そうして目を逸らさずに、剛士を見つめる。


彼が嘘偽りなく、真っ直ぐに語りかけようとしてくれているのがわかるから、自分も応えたかった。

彼の心を、真っ直ぐに見つめたかった。


剛士はきっと、悠里に伝えたくて、知って欲しくて。

必死に言葉を探しているのだから。

悠里は唇を噛み締め、剛士の言葉の続きを待った。



剛士が一瞬目を閉じ、小さく息を吸う。

またひとつ、本当は見せたくなかったはずの心の中を、彼がさらそうとしているのが悠里にもわかった。


「……悠里。拓真から、大体のことは聞いてるよな」

ズキリと、彼女の胸が悲鳴を上げる。


カラオケルーム。残った3人で話した。

彼の過去を聞いた。

拓真の、怒りを滲ませた声。

悲しみに沈んだ声。

ありありと思い起こすことができる。


剛士のいない場所で、剛士の傷に、踏み込んでしまった。

そのときの後ろめたさと悲しさが蘇り、悠里は睫毛を伏せた。


「……うん。ごめんなさい」

「別にいいよ。昔の話だし」

剛士は、何でもないことのように応える。

そして、悠里は何も悪くないと言うかのように、優しい顔で微笑んだ。


「本当は俺が、自分で話さなきゃいけなかった。なのに、何も説明せずに帰った。拓真に任せきりにした……俺が悪い」


自分たちと離れて、元恋人と話をしたことを指すのだろう。

刻みつけるように、自身を責める言葉を口にする彼が、悲しい。



「ちゃんと俺の言葉で説明しなくて……逃げて、ごめん」

剛士はもう一度、真っ直ぐに悠里を見つめながら謝罪の言葉を口にした。


チカチカと輝く、優しいイルミネーションの光が、ずっと遠くに感じる。

冷え切った風が寂しい溜め息のように、2人の周りを吹き抜けた。



「情けないけど、どうしていいか、わからなくなったんだ。みんなと合流しても、時間を戻されたような感覚から、抜け出せなくて」


剛士の声が、風に吹かれる蝋燭の火のように、時折頼りなく揺れる。


「拓真にも彩奈にも、悠里にも……気を遣わせてるって、わかってたのに、気持ちを立て直せなくて。お前の顔を見ることすら、できなかった」


繋いだままの大きな手が、縋るように悠里の手を握った。



剛士の感じている『時間を戻されたような感覚』。

剛士自身も、その感覚に戸惑い、迷っている。

そして、理由を探り当てようと、もがき苦しんでいるのが伝わってきた。


ぎゅっと、必死に悠里の手を握る彼の本心は、どこにあるだろうか――


悠里は目を凝らして、彼の瞳の奥を見つめる。

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