第11話 剛士との再会
電話の音が、男たちの声が、耳から離れない。
悠里は重い身体を引きずるように夜道を歩いた。
手ぶらで出てきてしまった。
ブレザーのポケットには、通学の定期券のみ。
無意識に明るい方を目指して歩いていた。信号の向こうには、いつもの駅が見える。
とにかく、できるだけ家から離れたい。
悠里は改札をくぐり、折良く現れた電車に飛び込んだ。
しかし、行くあてなどない。
財布も、スマートフォンすら持っていない悠里は、あえなく学校の最寄り駅で降りることになる。
時刻は19時を回ったところだ。
駅のホームは、様々な学校の制服を着た生徒や、大学生らしき男女、スーツを着た社会人などで、そこそこに混雑していた。
人波は乗り換えのホームを目指したり、改札に向かったりと忙しなく流れていく。
悠里だけが、電車を降りたまま立ち尽くした。
すれ違う人、すれ違う人全てが、自分を見ているような気がした。
イタズラ電話の犯人に思えた。
これから自分がどうすれば良いかわからなかった。
よろめくようにして、悠里はホームのベンチに向かう。
そして周囲の気を引かないよう注意して座り、出来る限り顔を伏せた。
自分がいることを、誰にも勘付かれたくなかった。
どのくらい、そうしていただろう。
「悠里?」
ふいに名を呼ばれ、悠里は悲鳴を上げそうになる。
心臓が痛い程に早鐘を打った。
怖い。
しかし誰なのかを確かめないわけにはいかない。
悠里は、おずおずと顔を上げる。
そこにあったのは、切れ長の黒い瞳だった。
彼は初めて会ったあの雨の日のように、静かに、少し心配そうに悠里を見つめていた。
「柴崎さん……」
咄嗟に何を言うこともできず、悠里はただ、小さな声で彼を呼んだ。
「よお」
剛士は軽い挨拶とともに微笑を浮かべ、少し首を傾げた。
「遅いな。いま、帰りか?」
そう言われ、悠里はホームの時計を確認する。
針は19時半を指していた。
部活帰りであろう剛士は、この時間に悠里と出会ったことを不思議に思っているようだった。
「いえ、……はい」
曖昧な返答をしてしまった後で、悠里はハッと我に返り、剛士に向かって笑顔を作る。
ダメだ。変に思われてしまう。
悠里は努めて明るい声を出した。
「この間は、迷惑をかけてしまって、ごめんなさい」
剛士が、ふわりと微笑を深めた。
「別にいいよ」
優しい声の響きにほっとしたその時、男の笑い声が悠里を貫いた。
反射的に耳を押さえ、身を竦めてしまう。心臓が恐怖に暴れた。
今のは、ホームにいる人の声だ。
イタズラ電話じゃない。
大丈夫、大丈夫……
心に繰り返し言い聞かせても、悠里の怯えた胸は、なかなか静まらなかった。
「悠里」
名を呼ばれ、ハッと我に返る。
恐怖をそのままに、悠里は慌てて顔を上げ、唇に笑顔を作った。
剛士の切れ長の瞳が、じっと悠里の目を覗き込んできた。
何でもないです。そう言おうとしたが、うまく声が出なかった。
悠里は必死に笑顔だけを保つ。
電車の、間もなくの到着を知らせるアナウンスが鳴った。
悠里は目を伏せる。
剛士はその電車に乗るだろう。
そうすれば、また1人だ。
絶望にも似た思いが胸を締め付けたが、それで良いと悠里は自分に言い聞かせる。
さっきから不審な態度しか取れていない自分のことを、剛士はきっと持て余しているだろう。
これ以上、彼に迷惑を掛けたくはない。
電車が来たら、笑顔でさよならを言おう。
悠里は心を奮い立たせた。
電車がホームに滑り込んできた。
人々は整然と並び、次々と乗り込んでいく。
悠里は笑顔を作り直し、顔を上げた。
きちんと、別れの挨拶をするために。
しかし剛士は、彼女を見つめたまま動かなかった。
「悠里」
そして、ゆっくりと彼女の名前を呼んだ。
「何があった?」
言うはずだった悠里の「さよなら」は、彼の瞳と触れ合った瞬間、あっけなく消えた。
何を言うこともできず、悠里はただ彼を見上げる。
剛士の唇から聞こえた自分の名前は、あの電話で呼ばれたのとは違う、優しくて、暖かい響きがした。
その声音は、恐怖に冷え切っていた彼女の胸に、じんわりと沁みこんだ。
電車が人々を飲み込み終わり、出発を告げている。
剛士はそれには見向きもしなかった。
大きな音を立てながら、電車が走り去る。
緊張の糸が、ぷっつりと切れた。
彼女の脆い微笑みが、ぽろぽろと剥がれていく。
それは涙となって、悠里の瞳から堰を切ったように零れ落ちた。
悠里は必死に、両手で拭う。
しかし、どんなに心を立て直そうとしても、一度崩れてしまった笑顔を取り戻すことはできなかった。
剛士は何も言わなかった。
ただ彼女の隣に、そっと腰を下ろした。
悠里は、驚きとその反面、言い知れぬ安心感に包まれた。
彼の気配を頼りに悠里は泣き、少しずつ心を取り戻していった。
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