第5話 夕暮れ色
「着いたよ」と男が言った。エンジン音は聞こえなくなり、代わりに海がさざめく音が鼓膜を震わせた。それに、潮の匂いが鼻腔をくすぐる。
目を開け、バイクから降りた。私は吸い寄せられるように、打ち寄せる波のギリギリまでふらふらと歩いて行く。色と音と匂いが群れをなし、痛みを食べてくれているようだった。たなびく雲が沈みゆく太陽の光を受け、夕暮れ色に染まっていた。高校で習った、光の原理を思い出そうとしたけど、何かが絡まって、記憶隅っこに追いやられた知識はどこかへ消えてしまった。
近くの漂着した大木に腰を下ろして、寒さに震えた。
「おねーさん。大丈夫?」
いつの間にか隣には男が座っていた。
「はい、気持ちが、落ち着きました。」
「そう、それは良かった」
沈黙の間を波の音がしずめる。二人で日が沈むのをただ眺めていた。夕焼け空は闇夜にほとんど浸食され、周りは薄暗くなっていた。
「海がひきつけるものってなんなんだろうね」
男は何もなかった空間に、ぽつりと言葉を落とした。
「大量の液体と砂があるだけなのにね。人間って何かあると海に来ちゃうよね」
「地球、を感じるからでないしょうか。」私は答えた。
「地球、か」
「はい。自分が地球の一部だったと思い出しますし、圧倒的大きさを誇るものを前にすると、人間が抱えているものなんてちっぽけに思えてくるからじゃないですか」
「そうかもね。」
ざわざわ。ざわざわ。海を囲うように植えられている松が風にゆらめいている。
「あとは、人間の本能がうずくからじゃないでしょうか。普段、私たちが生きている世界は情報が飽和しています。スマホもそうですし、都心の夜中は、人工物の光で暗くないです。それは、本来、ホモサピエンスとしてはつらいことだと私は思います」
「お姉さん、饒舌だね」
「ごめんなさい。しゃべりすぎました」
「いや、いいんだよ別に。何かあったときは、しゃべって、吐き出した方がいい」
「ありがとうございます」
私はすっかりぬるくなった水を一飲みし、つぶやいた。
「では、あなたもなにかしゃべって下さい。」
「俺?」
「はい、私が聞きます。あなたも、海に行きたかったって言っていたので、なにかあったんじゃないのですか?」
笑っているにもかかわらず、若い男の背後には、セピア色と紅緋色が混ざったような薄暗いもやをまとっていた。
「俺ね、恋人がいたんだ」
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