第6話 覚悟

「俺ね、恋人がいたんだ」


男は近くに落ちていた木の枝を拾い、鳴き砂をぐるぐるとかき回している。


「すごく好きな人だった。歩き方とか、笑い方とか、話し方とか、愛おしくて、切なくて、狂おしくて、心臓がいつも揺さぶられた。髪の毛の色の色素が薄くって、光に当たっているかのようにいつもキラキラしていた。朝、目が覚めると、隣には彼がいてその髪の毛を手ですくうと宝石のように輝くんだよ。寝顔を見て、ギュっと抱きしめたくなって、守りたくなって、あぁこんな幸福はないと思った。天国があるならこんな風だろうなと思った。長い間一緒にいて、これからも一緒にいたいし、一緒にいるだろうと思っていた。でも、何の前触れも無くただ別れようって告げられて、言っていることは分かるんだけど理解できなくて、今起こっているのは他人事のような気さえしてきて…」


「どうして、別れたんですか」


「俺が男だから」


「?」


「恋人も男で、俺も男だから。恋人は、社会的に普通の人生を送る選択をした。生物的に女の人と結婚して、家庭を作ることにした。ただ惹かれて、好きになった人間の性別がたまたま男で、俺と性別が一緒だっただけなのにな」


男は勢いよくしゃべり始めた。手元をみると、ぎゅっとかたくこぶしが握られている。


「男が好きで、彼を好きになったわけじゃない。好きになったのが男だったというだけなのに。男を好きになるのってそんなに変なことなのかな。気持ち悪いって言ったって、俺も、恋人も親も人間で、地球に住んでいる同じ地球人なのに。普通って何なんだろうね。俺は、異常者なのかな。俺は、俺のままじゃだめだったのかな。向こうも俺との人生を、幸福を考えているのだと思った。いや、考えていてくれたのだと思う。考えた結果が多分これなんだろうな」


ふっと自嘲的に鼻息を漏らした。赤みが抜けおち、ただ暗い色の空気が彼にまとわりついていた。


「ごめん。しゃべりすぎた。」


「いえ。」


何を言うべきかずっと迷っていた。痛みがこちらに流れ込んでくるのが分かる。


文章化、からの普遍化なんてあくまで私が社会の中で死なずに生きるための手段だ。今は、社会は関係ない。目の前に海があり、空がある。地球が私を見守ってくれる。私は、私で物事を言うべきなのだ。


ここまで脳内で考えると、次の瞬間には言葉がとどめなく流れ出ていた。


「あの、私は時々、自分の存在が疑わしくなるときがあるんです。肉体的にはもちろんこの世界に存在しているのですか、魂が本当にこの肉体に入っているのか、時々わからなくなるのです。うれしい、とかつらいとか感じられる間はまだ良いのですが、あまりにも辛すぎてなにも物事が考えられなくなり、感情がなくなると、ふとしたときに我に返ってあれ、今私って存在してるのかなと自分の存在が疑わしくなるんですね。


精神的な面で、私は人より大きくずれているようで、あちこちで自分とのシステムと社会のシステムと摩擦がおこり、エラーを起こしてきました。何度も人間辞めてやると思ったし、今も時々そう思って生きています。でも、その、人間を辞めるのと死ぬの意味は違くて、死ぬのは私の存在をこの世からなくすのですが、人間を辞めるというのは、物体的にはこの世に存在するのですが、形而上的なもの、つまり魂とか感情みたいなものを遠くに飛ばすんです。そうすると、痛みや悲しみやつらさが私ではない誰かのものに思えてくるんです。生きているのでつらいはつらいんですが、感情を日々分解することで、感情の重症化をできるだけ防ぐことができるのです。


えっと、つまり何が言いたいかというと、みんなはどこかしら欠落を持っていて、異常者だと言うことです。だから、あなたはあなたのままでいいとおもいます。性別という立場で言うと、現時点的に向こう側とこちら側という形で線引きをし、そう呼ばれるかもしれません。そうして、こちら側でない人々を敵視するのです。でも、人間がN人いれば性別はN個あると思っています。それに、ほかの何かの立場から見ると、人々は一つや二つはいわゆる向こう側に立っていると思います。あなたの場合、それがたまたま性別だったわけです。私は精神面でみると人より異常だと思っています。


ベン図的に全部重なっている中心の中心にいる人たちは、この社会はすごく生きやすいと思います。社会がたまたま自分に合っちゃったというだけです。でも、そういう人たちはすごく少数だし、社会は日々グラデーションで変わっていきます。動いていきます。だから、ベン図的に真ん中にいる人もずっと生きやすいというわけではないです。もちろん人間も変わっていきます。人間を時勢に合わせようとしている時点で、もうそれはあちら側の人間と言うことです。中心を求めて確固たる自分がないひとは、他人軸が自分軸になっていて、それも苦しいと思います。


自分は普通の異常者と言うことを認識して、社会的普通に寄り添わない覚悟が我々の多くは欠如してしまっている部分があると思います。自分を社会的普通と見間違え、怠惰に生きようとして、自分も他人も傷つけてしまうのです。


社会的普通には「染色体的に男は女を好きになり、女は男を好きになる」と書かれているから、皆ただそれに倣って生きているのです。社会的普通に人間は性別なく人間を好きになってよい。ましてや、好きになるのは人間だけでなく、物や概念でもよいというふうになればいいのですが、当分はそうもならないでしょう。なぜなら、人間は怠惰に生きる動物だからです。考えもせず、社会的普通を自分の中の普通にすれば、一瞬一瞬は傷つくことはないからです。でも、そういう人たちは本当の、心の底に眠る自分を見殺しにしているので、人生を通せば苦しいはずです。


今の社会で自分らしく生きるにはさっき言ったような覚悟が必要なのです。覚悟を持つだけで、いろいろな物事が溶けて、視界が開くと思います。覚悟をもつことは苦しいことかもしれません。でも人間として生命をまっとうするとき、間違いなく覚悟をもって自分として生きた方が幸せなはずです。豊かな人生を送れるはずです。私はそう考えて生きています」


「覚悟、か」


「はい。覚悟です。私がそのような覚悟をしっかり持って生きることが出来ているのか、と言われればはっきり肯定できません。だけどそういう見方をするだけでも、いくらか心が和らぐのではないかと思っています。」


頭上で鳥が一鳴きし、海の向こう側へと飛んでいった


「泣いてらっしゃるのですか?」


あたりはすっかり暗くなっていたけど、彼の周りは少しだけ白く、明るく見えた。

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