第4話 男
呼吸が切れ切れになり、足がもつれ、思わず座り込んだ。頭を支えている首の力を抜く。すって、はいて、すって、はいて。脳がぼーっとする。酸素欠乏。ヘモグロビン。
アスファルトの隙間から、名も知らぬ緑の雑草が生えていた。水は、栄養分は、どうしているのだろう。どうやって生きているのだろう。人々から疎まれ、踏まれ、でも生えている。懲りずに生きている。
突然肩に振動が伝わった。ビクンと肩を震わし、座ったまま顔を上げると、男が立っていた。
「大丈夫?」
思っていたより、声が低い。
「大丈夫、です」
突然の応答で、声が少しだけかすれた。
「水飲む?水。そこのコンビニで買った安いやつだけど」
そう言いながら、ペットボトルを差し出し、にこりと笑った。その人の笑みはとても澄んでいた。男の人でもこんなきれいな、清潔な笑い方をするんだと思った。
「いえ、大丈夫です」
「そんなこと言わずにさ、ほら」男はペットボトルを私の隣に置いた。それをしばし見つめていると、汗をかいたペットボトルは、たらりと水滴を落とした。脳内に霧が立ち込め、どんどんと濃ゆくなっている。このままでは自分自身がシャットダウンしてしまう。目の前の男に迷惑が掛かってしまう。必死に考える。まず、現状を文章化する。
私は喉が渇いていて、目の前に水がある。
よし、できたこれでいい。それから、接続詞をつけて行動の普遍化させる。
私は喉が渇いていて、目の前に水がある。だから、私は水を飲む。
だから、私は水を飲む。水を飲まなければ。
「ありがとう、ございます」私は地面にそう言葉を落とした。謎の間をおいて答える私をおかしな奴と思ったかもしれない。そう考えると声が少しだけ震えた。
「遠慮なくどうぞ」
男は少しも気にしたそぶりを見せずにそう答えた。
冷たい液体が喉をつたって、体内に吸収されてゆく。口元についた水分を手で拭ってキャップを閉めた。
「おいしかったです。ありがとうございます」私は立ち上がり、目を見て、一言一句聞きやすいように声を発した。
「それは、良かった」男は言った。
「あの、お金、払います」
ポッケに手を突っ込み、手触りでなんとなく大きい小銭をつかんで、男の目の前に拳をつき出した。
「あぁ、いいよ。お金いらない。俺的ボランティア」
差し出した拳を手のひらで押し返された。
人間の熱が伝わる。
「たまには社会貢献しとかないとね」
男は綿菓子のように、甘く軽く笑った。まるで溶けてしまいそうな笑みだった。
「とゆーか、お姉さん、何してんの?ランニング?」
「いえ、散歩です」
「ふーん。ここらへんに住んでいるの?あんまり見ない顔だね。」
風が吹き、男の髪の毛が舞い上がる。
「適当に電車に乗って、降りたら、ここにいて、適当に歩いていたら、海までの看板があって、海、いきたいなって」
「ああ、しゅうかい?」
「しゅう・・・?」
私は首をかしげた。
「終わるに海でしゅうかい。おわりの海浜公園のこと。ここら辺の人はそう呼んでいる」
「そうです。おわりの海浜公園、です」
「じゃあさ、俺と一緒に行かない?」
「え・・・」また自分が徐々にフリーズしてしまう音が遠くで聞こえる。
「いやならいいんだけど。ただ、この時間で歩いて行くと、今夜中に家、帰れないよ?バイクで行ったら早いじゃん?俺、バイク持ってるからどうかなって」
そう言って近くにあったバイクの座席部分をポンポンとたたいた。
「うれしいんですが、初対面ですし、それに、なぜあなたがそんなに私に優しいのか分からない、です。」文章化、それから普遍化と心の中で繰り返し呟く。
「今日はなんとなくボランティアしたい気分なだけ。俺も海行きたいし?」
遠くでカラスが鳴く音が聞こえる。
「おねーさんどうする?無理にとは言わないけど」
私はきっと壊れていた。普遍化をすることができなかった。行き着く場所が海じゃなくても、地獄だとしても、目の前の男の笑顔を見て死ねるなら、それでもいいやと思ってしまった。
「えっと、では、お願いします」
「よっし、じゃあ行こっか」
赤いバイクに後ろに乗った。手の置き場が分からなくて、宙に浮かせていると、前に乗った男が振り返って私の両手をつかみ、腰をつかむように言った。
「出発」男が軽やかに言った。
風を前進で受け止め、速度という物体を飲み込む。
ふと、この瞬間に私が手を離すところを想像した。私という存在が風と速度に喰われるのかもしれない。それから、それからどうなるのだろう。
私は一瞬だけ手を離した。ふわっと心臓が宙を舞う。
今度は、五秒と心の中で決めてつかんでいた力を緩めた。五秒が成功したら次は十秒。十秒が成功したら十五秒。心臓が宙で泳ぐ時間が増えてゆく。二十秒、と心の中で決めたときバイクが急ブレーキを踏んだ。
すると、手を放していた私はどんと男に胸からぶつかってしまった。この時、自分が命の境目に立っていることに気づいた。向こう側の暗闇におされて恐怖が身体を覆い尽くしている。
目線を上に向けると、信号が赤色に濡れていた。私も死を受け入れると、こんなきれいな赤が私の体内から流れ出る事実が怖かった。
私はぎゅっと手に力を込めた。目をつむって、潜めるように呼吸をした。肌で風を感じながらも、瞼の裏では赤がパチパチと花火のように飛び散っている。
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