第3話 海

いつも使っている改札を抜け、適当な電車に乗りこむ。旅のポイントは、ただひたすら気の向くままに、だ。


車両内にはまばらにしか人がいなかった。


目の前には若い女性が座っている。流行の渦中にいることを、言葉無しにメイクと洋服が表していた。熱心にスマホを見、せわしく指を動かしている。笑ったり、顔をゆがませたりはしない。ただ真顔で能面のように流れてくる無限の情報を、取り込んでいた。ドアの近くには歌い手を意識したような、全身黒くてだぶだぶの洋服を着た若い男がいた。髪の毛は金髪で、やけに整髪料がついている。優先席には荷物を大量に抱えた浮浪者らしきおじいちゃんが座っていた。青いビニールシートと段ボールを大切そうに抱えている。


右へ右へと流れてゆく景色は、だんだん緑が増えていく。精神が不安定な時は、なぜだか自然にかえりたくなる。高校生の時は、むせかえるほど濃すぎる自分の家の周りの緑が厭だった。コンビニは徒歩では一時間かかる。バスは二、三時間に一本。無機質で堂々とたち並び、どこまでも自然が見えない建設物が、あの頃はとても魅力的だった。光と音と情報が飽和し、真夜中でもキラキラと輝いている、そんな町に住む友人たちがうらやましかった。そんな、昔は魅力的に見えた町に住む現在、ふと思い出して心が欲するのは、山に囲まれて田んぼを全力で走り回ったあの息苦しさや、木の上に友達と作った秘密基地だ。


人間、ないものねだりだ。


電車が止まり、ドアが開くたびに変わる外の匂いに懐かしさを覚える。


帰宅ラッシュの時間帯に近づき、人が増え始めた。人混みに酔ってしまう前に、電車を降りた。


冷える。風がびゅうっとふき、アルミ缶と潤いをなくした落ち葉がともに音をたてた。駅を出、太陽と向かい合う方向の道を歩く。日が町を茜色に染めている。高い建造物のため、直接夕日は見られない。けど、今と昔をつなぐ太陽が、変わらず自分が生きていることを証明してくれる。


 サラリーマンや主婦や大学生らしき人とすれ違い、すれ違われ、追い越す。ここには私を知っている人が誰もいないんだ。そう思うと、心が緩まり、ギチギチだった空間に隙間が出来る。負の感情を、歩きながら刻んで、そこら辺にばらまいていく。次にここを歩く人が、知らぬ間に、私の黒い物を吸い込み、大きく育てていく姿を想像した。


歩き、歩いて、汗で皮膚と下着が張り付く頃、大きな看板を見つけた。青い下地に、細長くて、白いかくばった文字で書かれている。「おわりの海浜公園右に二キロメートル」


終わりの?尾張の、だろうか。


どちらでもいい。


 今はただ、切り刻まれ、道に落とせないくらい山になったくろいものを、一気にふわっとまいてしまいたい。


海へ行こう。


そう思った。二キロメートルなら歩けないこともない。


海に引きつけられ、歩く速度がどんどんはやまる。早く早く早くと気持ちが焦り、息がつまっていく。今にも走り出してしまいそう。あまりに苦しそうな顔をし、人々にぶつかりながら、ただ一直線に進んでいく私を、物珍しそうな顔で人々は見る。誰も私を知らないのだから。だから、別にいい。とにかく、とにかく、早く海に行きたい。さっき刻んだ黒いものが、つながり、増大しているのがわかる。

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