第2話 狂乱

 彼女は吐息がかかりそうなほど顔を近づけ覗き込んでくる。そんな彼女に思わず恐怖し距離をとる。しかしそんな自分の態度に対しても彼女は笑顔を崩さず先ほどの問いに対しての返事を待っていた。

「どういう意味?」

 教室の扉の方に後ずさりをしながら近づき、言葉の意味を問う。

「何が?」

「さっきの言葉の意味が分からない」

「どこが?」

 彼女は無邪気な笑顔のまま自分に問い返す。

 眼に潜む殺意は消えておらず、しかし笑顔を浮かべ続ける彼女は気味が悪かった。何か得体の知れぬものと対峙しているようで逃げたくなる。怖い。

「もしかして冗談だった?」

 話を変えたくて言った一言は明らかな失言だった。

 彼女から笑顔がスッと消えると

「うわっ!」

 ゴンっと激しく音をたてて、壁に当たった椅子が落ちる。

「…何してんの」

 彼女が自分をめがけて椅子を投げてきた。殺意が行動となって表れる。今すぐにでも逃げ出したい気持ちを抑え、彼女を刺激しないように会話を試みる。

 ここで逃げたら彼女が何をしてくるか分からない。そんな危うさが今の彼女にはある。彼女は椅子を投げた後、ブツブツと何か呟いている。

「………て、……して、…うして」

 彼女は目の前の机を掴むと今度は払うよう様に投げ捨て、いくつかの椅子を巻き込まれながら机が倒れていく。

「どうして!」

 大粒の涙を浮かべ、語気を強めて訴えるように泣く彼女は、泣きじゃくる子供のように幼く見えた。

 この数分で見せる様々な彼女の表情変化は自分を困惑させ、より彼女の奇妙さを際立たせる。嚙み合わない会話は心の距離がより離れていく。

「酷いよ、私がこんなにも君のことを考えているのに」

 涙目で佇む彼女からは殺意が消え、恨み悲しむような目で自分を睨む。

「何のこと…?何言ってるのか全然分からないよ…」

 言葉を取り繕えず不安をそのまま吐露する。支離滅裂な行動の何を信じたらいいのか分からない。

「だ~か~ら~どうして私の気持ちを考えてくれないの!」

 やばい。もう会話が成り立つレベルじゃない。

 憤怒する彼女から逃げようと教室の扉の方を見ると

「こっちを見てよ」

 目を離した刹那、彼女が跳びかかって来る。突然の暴挙に対処が遅れる。思い切りぶつかられ、ふらつく体に首を掴まれそのままのしかかられる。

「…っ、は、なせ…」

 首を掴む手を振り払おうと彼女の手を掴むも弱まる気配はなく首筋に爪がめり込んでくる。呼吸が難しくなっていき、力が抜けていく。

「なんで私を見てくれないの、君が私をこうしたように私は君に恩返しをしているのに」

 半狂乱の彼女がますます首を絞める力を強めてくる。

「もっと褒めて、君の言うとおりにする。優しくして、君がいないと笑えない」

 苦しい。呼吸をしたくて口を開けたいのに、首を絞める力が強すぎて舌を噛むほど歯を噛みしめてしまう。

「好きって言わないで、私をこれ以上幻滅させないで。愛してると言って、私を喜ばして」

 意識が朦朧としてきて視界が霞む。彼女の顔は…

「私だけを見て」

 足を少し折り曲げ彼女の下腹部を蹴り上げる。

 勢いよく蹴り上げられた彼女は腰から地面に倒れ、頭部を散らかった机の角に強打する。

「ゴホッゴホッ…、ゴホッッ…」

 急いで酸素を取り入れる反動で思わず咳き込む。無理やり拘束を解いたせいで首は彼女の爪で抉られ血が滴る。

 体を起き上げ扉に向かう。

 吐き気や眩暈で苦しい。体が多くの異常を伝えてくる。しかしそれらに反応するよりも先に走り出した。

 教室を飛び出し廊下を走る。酸素不足からか筋肉痛に似た痛みが体内を駆け巡る。走る足が、振り下ろす手が、呼吸する肺が、軋むように不調を訴える。しかしそれらをかき消すほどの恐怖が自分を支配していた。

 殺されかけた。あのまま首を絞められていたらどうなっていたのか、逃れた未来を想像し震える。絞められていた首を触り手に付着した血を見て、一連の出来事を振り返る。

 告白しただけだった。そしたら殺意を向けられて…。いや、途中までは普通に話せてたんだ。明確に彼女が変わったのは

「それだけ誰かを好きになれるなんて凄いことだよ。俺には真似できない」

 そう言った瞬間、彼女の様子が一変した。突如、無言になり顔を上げた時には目に殺意が宿っていた。

 彼女の過去に何かあったのか、それとも今の彼女に関わることなのか、自分の言葉が不用意に彼女を傷つけてしまったのか。何が原因なのかは分からない。しかし、どれであっても殺される理由なんてないはずだ。

 考えを巡らせている間に廊下の突き当たりが見えてくる。そこを曲がり二つ階を下れば下駄箱だ。外に出れさえすればいい。教師や最悪警察にでも話せば対処してくれるだろう。そこまで逃げ切ればいい。そう決意し振り返る。蹴り上げた際、彼女は大きく頭をぶつけていた。そう簡単に起き上がれるものではないはずだ。慢心ではない、心配でもない。あえて言うなら不必要な確認のようなものだった。しかしそんな心の隙間から産まれた振り返りはあり得ぬ光景を映し出した。

 教室から出てきた彼女は長い髪が乱れ首を傾けてこちらを見ていた。

 心臓の鼓動がさらに早まる。距離はまだあり、彼女は走り出してもいない。運動神経は分からないが自分が大きく劣るなんてことはないはずだ。追いつかれる訳がない。そう思っていても見ただけで怯えてしまうほどの圧迫感がある。

 追ってくる様子はないのにこちらをジッと見続けている。そんな不気味な得体の知れぬ怪物は一体何を考えているのか。

 彼女に気を取られつつも足を止めず、廊下の角にたどり着く。極力速度を落とさず、角を曲がる。横目で彼女を見つつも階段に急ぐ。

「きゃあ!」

 彼女と階段しか見ていなかった視界に驚いたような声とドンッと音と共に体が揺れる。ぶつかった女の子は持っていた資料をまき散らし、尻もちをつく。そして自分は不意の衝撃にこけることはなくとも、走る勢いを止めきれず階段に向かった一歩目は足を踏み外し、十数段ある階段を転げ落ちた。

 頭を打ち、肘や膝を打ち、階段の踊り場に最後は背中から落ちた。地面に叩きつけられた衝撃の次にまず来たのは呼吸困難だった。あまりの衝撃に体が麻痺し空気の循環を狂わせる。

「ヒュゥゥ——」

 無理やり酸素を取り入れると、呼吸は奇怪な音を上げながら体内に入っていく。しかし少しの酸素を入れると体中に激痛が走る。どこが痛いとかではなく体の全てを削られたかのように痛い。激痛のあまりのたうち回ることも出来ず、少しずつ体が縮こまっていく。


 痛い。いたい。イタイ。


 歯が割れそうなほど強く噛み締め拳を握りこむ。

 これほどの痛みがあったなんて。助けてくれ。声も出すのも痛い。辛い。痛すぎて何も考えれらない。この苦しみから解放されたい、そのためなら…

「駄目だよ。どんな感情も私に向けてくれなきゃ」

 誰だこいつ(痛い)顔がぼやけてよく見えない。

「君の苦しそうな顔もやっぱり愛おしいね」

 何をさっきから(痛い)ぶつぶつ言ってる(痛い)んだ。

「でも私が望んでるのはこれじゃないんだよ」

 女の声よ(痛い)りも体か(痛い)ら軋む音(痛い)の方が耳に響い(痛い)てよく聞こえ(痛い)ない。(痛い)

「今回は特別だからね。お互い初めてだったから上手くいかなかったのかな?」

 痛い痛い(う)痛い(るさ)痛い(い)痛い痛い痛い。

「次はちゃんとしてね。私も頑張るから」

 痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛痛痛痛痛痛痛痛痛いいいいいいいいい

「じゃあまたね」

 彼女が視界から消えたかと思うと意識が遠のいていき痛みが消えていく。

 別れを告げていく彼女は満面の笑顔だった。その顔は首を絞めているときの顔と何ら変わらない表情だったのが最後まで恐ろしかった。

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狂おしいほど君を〇す @Rainpul

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