2.集合:カナキ・シュレイラの場合

 その黒髪紅目の青年は、現実的には焦っていた。


 一見すると無表情、足どりもゆったりしたものだが、いわゆる現実逃避というものだ。来たことのない町だから早めに出発したというのに、列車は遅れるは混みすぎて目の前の女性が転ぶは、助け起こしたら丁重すぎるお礼と謝罪を言われるは、気がついてみれば約束の時間は目前。更には道行く人々にその場所を尋ねてもどうにも要領を得ないとくれば、自然嘆きたくもなってくる。


「こんな不幸牽引体質だったけね……いや案外そうかも」


 いったん考え出すとどうにも止まらない。

 ぼんやりといつもの動作を繰り返す。

 ふうっと喧騒が波にさらわれて、次になんとなく沈む感覚。


 現実逃避は性にあっている。

 彼はそう思う。月面にいるようだから。

 この若干鬱陶しい日差しを感じないですむし、重力から解放された気分になる。

 地面から五ミリ、浮いた気分になれる。

 そうすればいつだって迎えてくれるのは重力から解放された無数の白い花びらたちで、そしてその中心には長い黒髪の――。



 ビビビビビッ。

 電流のような何かが、くんっ、と急激に彼をこちら側に引き戻す。

 途端感じ出す日光に思わず顔をしかめた。

 約束の時間を知らせる振動が、腕時計から駆け上ってきたらしい。

 ぼんやりと聞こえていた喧騒がわんわんとうねって鼓膜に帰還する。


「初日から遅刻確定とか……やってなさすぎでしょ」


 もう何度目かわからないため息をつく。

 思えば今日一日でずいぶん回数を稼いだような気もする。

 はあ、とサービスついでにもう一回。


 自分の身体が重い。ここの重力はいささかきつすぎる。

 腕時計には悪いがあっち側に舞い戻ってやろうかとも考えるが、青年はそれを一瞬で棄却する。

 仕方がないし、弁えてもいる。


 きつくても、「こちら側」で過ごさなければならない日というのは存在することを。

 事務的にこなす一日が存在することを。それが今日であることも。

 こちら側で過ごすことを決意している限り、彼は至極まともである。

 遅刻は美しくない。とにかくここは急がなければいけない。

 

 ふとあたりを見渡すと、どうやら自分が違う通りに入ったらしいことに気がついた。通りごとに同じように配置されている花壇の花も先程より勢いがないし、枯れ落ちた花弁が幾分多い。植え込みの木にしても、十分前に見たものより若干細い。


 覇気がないところに来ちゃったな、と一人ごちる。

 ここを歩く人々の数もそう多くはない。人に聞いて回るのは得策でないように思われた。

 

「となると……ま、目立たないようにこれかな」


 ぐっ、と一度だけ腱を伸ばす。コンディションが最悪でないことだけ確認して、トッ、地面を蹴る。

 飛びあがって積まれた木箱に。更に二度ほど壁を地面代わりの足場にして、四角い建物のてっぺんに乗る。

 ぐるりと眺めて、誰にも気づかれなかったことに安堵した。


 「さてと。目的地は国の管轄する機関サマなわけでしょ。となれば公共機関的、言いかえれば地味でイメージ的にはくすんだ茶色、どうにかすると見逃しそうな――あ」


 青年ははすぐに絶好の物件をさがしあてることに成功した。

 まさかここまで地味に溶け込める建物があるとは思わなかった。

 まさか本当に茶色の塗装だとは思わなかったし――まさかそこが指定場所だとは思わなかった。

 己の靴底の真下に、それはひっそりと書かれていた。


【ディプシライト石保持能力者協会西部支部】


 これはセンスがない、と残念ながらきっぱりとそう思うことにした。役人的だ。

 急いでロビーに入って確認すると十分程度の遅刻。

 しかしざっと見渡してみても、どうにも人待ちをしているらしき人物は見当たらない。


 そのかわり、青年はとても奇妙な現象を視界の端に映すことになる。

 なにか灰色の長いものが攻撃性をもって蠢いて、いる。

 視点をあわせると、その灰色は人間から発信されているらしかった。


 訂正、青年はとても奇妙な人物を発見した。


 発見された少女は、このロビーにいようが世界のどこにいようが奇妙だった。

 彼女の目の前には何かが入ったビンが鎮座しており、彼女は腕を組んでそれを射殺さんばかりに見つめている。かと思うとうつむいて腹部をさすり、切なそうに、もしかしたら恨めしそうにビンを見やる。そうするとはっとしたように頭をぶんぶんと振り、サイドテールを振り回す。その速度はそのまま武器すらになりそうだ。


 怪奇現象の正体はこれか、と青年は納得する。

 ひとしきり振り回すと、彼女はまたしてもビンを睨みだした。

 どうやらこの一連の動作を繰り返しているらしい。

 しかもよほどの集中力なのか、彼が真正面から接近しているのに気づく気配もない。すたすたとさきほどより無神経に歩を進めると、ぐう、と場違いな音がした。かなり大きい。


(ぐう?)


 正面を見ればお腹を押さえた少女。

 左手で腹を押さえビンに右手を伸ばしかけ、それでもやっぱり中身は出さない。

 そろそろ悲壮感すら漂い始めている。切ない表情だ。

 青年は唐突に理解して、理解すると同時、青年は一気に力がぬけた。


(腹が減っている、と)


 彼のカバンの中には、サンドウィッチがきっちりとした身だしなみで並んでいる。着いてから食べようと駅で買ったものだが、どうやらそれも諦めないといけないらしい。未だに自分を視界に入れてくれない少女の肩を軽くたたいてようやく入らせてもらうと、青年は控えめにくしゃりと笑ってこう言った。


「……よかったら、食べる?」

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