トラウマ

 俺は七星が退院した後の再調査のための対策について練りながら院内を歩いていた。

 すると、どこからともなく聞き覚えのある女性の叫び声が聞こえる。

どうやらその女性は精神科の病棟から逃げてきたようだ。俺を見つけた途端、

ずっとベッドで眠っている人とは思えないほどのスピードで俺の足にしがみついてきた。

「陽風ぇ!!助けて頂戴!!!この人達私を殺そうとしてくるのよぉ!!」

甲高い声が病院の廊下全体に響き渡る。

「大丈夫ですよ!月詠さん!!落ち着いてください!!」

顔なじみの看護師がパニックになった母さんを必死でなだめている。そんな声は母さんには届かない。

「お願いよぉ陽風!!お母さんをここから出してぇ!!!」

心臓の鼓動が早まっていくのを感じる。全身から冷や汗が噴き出す。

何回もこんな風になった母さんを見ているのに。どうやったら母さんが安心してくれるかも分かるのに。体が動かない。

怖い。 助けて。

母さんが必死に叫んでいる。爪を立ててくる。

伸びきった爪が足に食い込んで血が滲む。看護師の手には爪切りが握られている。

きっと母さんの伸びた爪を切ろうと思ったんだ。それを母さんは勘違いしたんだ。


「母…さん…。お母…さん…。」

「陽風っ!!聞いてるの!!お母さんの言うことを聞いて頂戴!!!!陽風!!」


 俺は母さんの静止を振り切って逃げだした。

「陽風!!!お母さんを裏切るのね!!!この親不孝者!!!」

母さんが逃げ出した俺に罵倒を浴びせる。


ごめんなさい、お母さん


 

 家に着いたとき俺の気分は最悪だった。病気になったからではない。

久しぶりに母さんを心の底から恐ろしいと思ってしまった、母さんを裏切ってしまった自分にとても絶望しているから。

「うっ…。」

急いで立ち上がって駆け出した。

俺は嘔吐した。こんな感情は何年振りだろうか。

この朝比奈陽風の総てが真っ黒な感覚に支配されている感覚。何をしても解消されることのないこの感覚。

トイレから出た後俺はただ部屋で震えていることしかできなかった。



 

 


 



  


 母さん。僕の大事な僕だけの母さん。


母さんは時々人が変わったように暴れだす。悲鳴に近い声を上げて泣きながら僕に助けを求める。

僕はそんな母さんのことが、

母さんは普段泣いたり、僕にすがったりはしないけどこの時だけは僕のことを必要としてくれた。それがとてもうれしかった。僕を神様みたいに扱ってくれることが何よりうれしくてこの時間が僕にとって至福の時間だった。

僕とは違う綺麗な茶色の瞳。それが涙でうるおされてキラキラしてた。

僕にすがって泣いてるときは母さんを優しく抱きしめてあげると母さんはとても喜んだ。でも泣き止むとまたいつもの僕を殴ったりする母さんに戻っちゃうからわざと母さんのことを無視したことも何度もあった。母さんは僕だけの優しい母さん








のはずだったのに。母さんが怖いと思ってしまった。あんなに綺麗だと思った瞳も可愛いと思ったあの泣き顔も全部が怖かった。真っ黒な感情に支配された。

 

 学校に行くといつも机には花瓶が置かれていた。周りはそれを見てクスクスと小さく笑っていた。これは全部俺のせいだ。この日本人じゃ考えられない真っ青な瞳。

眼が完全に隠れるまで伸びた前髪。汚れまみれの制服。これを皆はと認識し徹底的にいじめた。教師は見て見ぬふりをした。

 俺にはどこにも居場所がなかった。母さんはもういなくて1人ぼっちの部屋の中でただずっと震えていた。

 これは俺が死ぬまで忘れることはできないであろう忌まわしいものだ。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る