ある男の決断

志央生

ある男の決断

 理由はきっと些細なことだ。笑われたから、それだけで私の怒りが沸点に達してしまった。奥行ばかりが広い居酒屋のカウンター席で、店主相手に愚痴を吐いていた。どれも大した内容ではないが、どこかに吐き出したい蓄積された不満。ひとりでビール瓶をグラスに注ぐ味気無さと店主の曖昧な相槌は普段通りだった。

 ただ一つだけ違ったのは、自分のほかに客がいたことだ。とくに話すこともなく、ちびちびと酒をなめてはつまみを食べる男。視界の端にときどき入っていたが、気にすることなく私は店主相手に愚痴をこぼし続けていた。

「ふっ」

 それが笑った声だったのか、そうではなかったのかはわからない。けれど、私の耳の奥に残って離れなかった。自分が何を話していたのか飛んでしまうほど、頭が熱くなり饒舌に回っていた舌が止まってしまった。

「お客さん、どうしました」

 話すのを突然やめてしまったことで店主がこちらの体調を心配したのか顔を覗き込んでくるのを手で制して「飲みすぎちゃったかな」と場を誤魔化す。目だけを横に動かして、視界の端に留まっていた男を見ると、知らぬ顔で酒をなめていた。私は腕時計を見てから、代金をテーブルの上に置いた。

「今日はこの辺で帰るよ。ビール少し残っているから持って帰ってもいいかい」

 ビール瓶を手に取り軽く揺らすと、水音がした。店主が「あいよ」と短く返事をしたので、店のドアをくぐって外に出た。少し肌寒い空気が酔っていた頭を覚ますように、熱くなっていた怒りを冷やしていく気がした。それでも、いまだに残る男の笑った声が奥底で私をたきつける。終電までの時間を考えると、男もじきに出てくるだろう。私は握っていたビール瓶を一気に煽って飲み干した。

 三十分もしないうちに男は店から出てきた。足取りは酔っ払いらしく遅く、しっかりとしたものではない。駅に向かって歩く後ろを私も少し離れてついていく。駅に向かうなら公園を横切るのが近道であり、男の進む先はそちらに向いていた。私はビール瓶を握りなおして、公園に入るのを待った。

 そして、時が来た。公園の敷地内に入ったあと私は背後から近づきビール瓶を思い切り、男の後頭部に振り下ろした。鈍い音よりも瓶が割れる音のほうが大きく、そちらに驚いてしまった。殴られた男は受け身も取らずに仰向けに倒れこみ、動こうとしない。手元に残ったビール瓶の残骸は先がとがっていた。それを男の肌に軽く突き刺して反応を確認する。

 しかし、男はピクリともしなかった。気づけば自分の呼吸が上がっていた。やってしまった、という怖さに息が早くなっていく。このまま男を放置するわけにはいかない、と思い茂みに男を引きずって運んで転がす。かすかに息があることを運ぶなかでわかり、安堵すると同時に心の中に残った微かな怒りが手に持ったままのビール瓶に向く。無防備な首筋がある。これをやってしまったら確実に終わる、と頭の中で理解できている。早打つ脈がやめろと言っている。それでも、耳の奥では笑う声が離れない。

 腕時計を見る。終電までは残りわずか、どちらにせよ決断しなければいけない。眼前に転がる男を私はもう一度見た。


「お客さん、終電逃しちゃったの」

 ハザードランプをつけて停車したタクシーの運転手がルームミラー越しに話しかけてきた。私は曖昧な返事をしつつ目的地を告げる。

「それにしても何かいいことあったのかい。終電逃した人には見えないくらい良い顔しているよ」

 発車したタクシーがゆっくりとスピードを上げていく。私は窓の外を見ながら公園の前を過ぎていくのを眺めながら答えた。

「少し気分がすっきりしたもので」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ある男の決断 志央生 @n-shion

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る